読者第0話 中田颯太


 二千二十二年 六月一日 火曜日


 その日、中田颯太はむしゃくしゃしていた。


 だが今日は彼お気に入りの作家が新刊を出す日だ。

 颯太は小学生の頃から読書好きだった。

 内気な性格だったのもあるし、共働きの両親からは物騒な昨今一人で遊びに行く事を禁じられ、基本一人で家にいたから本を読むぐらいしかすることがなかったのだ。

 颯太は内向的でコミュ障な癖にプライドだけは高い青年である。

 専門学校を卒業して二十歳で現在の会社に就職してから、なぜ世間はこんなにも愚かなのだろうかと思い続けていた。

 何より自分への社会的な評価が低いのだ。 

 

 俺はもっとやれるのに、相応の職に就けば、役割を与えられれば他の人間よりもっと優れていると証明できるのにと、根拠も無く考えていた。

 けれど颯太は普通に生きてきた。

 人生における苦労もそれなりに経験したごく普通の青年だった。


「お、あった」


 仕事帰りに立ち寄った地元の書店で、颯太は新刊コーナーに並べられたお目当ての本を見つけた。

 早速手に取りレジに向かう。


 レジカウンターにいる店員は二人。

 頭髪寂しいおじさんと、高校生らしき男の子だ。それも颯太と同類タイプ。


 この書店では時々金髪のヤンキーがレジに立つことがある。

 だが今日はいないらしい。颯太はほっと安堵した。


 颯太が住んでいるのは田舎だ。それもどがつくレベルの。未だに改造バイクや改造車が田んぼの間を走っているような。


 よく言えば長閑、悪く言えば大して遊ぶ場所も無い、夜七時を過ぎればほとんどの店が閉まるような、そんな田舎町である。

 以前、会社に本部からお偉いさんが来た時、こう言われた。


 『ここは本当に空が広くてびっくりしました。県庁からうちの会社ビルまで何も無いんですから! 高層ビルが無い世界というのは、こんなにも清々しいんですねえ』


 誉め言葉に捉えた者が大半だったが、プライドも高くややひねくれている颯太はそうではなかった。

 県庁からここまでにだってコンビミもスーパーもあるわボケ、と内心悪態をついていた。

 颯太は田舎生活に憧れるとのたまう癖に田舎を馬鹿にする自称都会人が心底嫌いだった。

 東京など地方者の集まりではないか、と彼もまた気付かぬうちに自らの育った土地を見下していた。


「あ~、あったあった」


 文庫本の新刊コーナーで颯太はお目当ての本を見つけた。

 ネット小説サイトで常に上位ランキングに位置しているそれは、先月アニメ化が決定したばかりだ。


 彼は最近ネットに掲載されている小説を読み漁るのにはまっている。

 無料であることと、気に入った作品を応援し書籍化されれば紙の本として手に入れる事もできるうえ、作者を己が育ててやったような気分になれるのが気に入っていた。

 颯太は無駄に高いプライドのせいで自分を上級読者と思い込んでいた。


 自分だって小説くらい書ける。けれど読むほうが好きだからああして感想でアドバイスしてやっているのだと、少々の奢りがあった。実際、彼も子供の頃はよく妄想した文章を授業のノートに書き溜めていた。


 小説一本を書き上げた事はないが、それなりに才能はあると思っている。颯太はそんな男だった。


 新刊を手にレジへ向かおうとした颯太は、背後に何か黒い影がいることに気が付いた。


 なんだ、あれ。


 彼が振り向くと一人の男がいた。

 前髪の長い、暗そうな男だ。


 真っ黒な髪がつやつや光っていて、風呂に入っていないのだろうかと思わせる。

 どう見てもお洒落な艶ではなかったからだ。

 簡素な黒いワイシャツは皺だらけで、やや白っぽく色が褪せているし、履いているデニムもダメージデニムと言うよりはあれはナチュラルダメージ……経年劣化と使用頻度でくたびれているだけに見える。


 だっせぇ。


 根暗とか不審者とかの言葉がぴったりな男だった。

 颯太は自分を棚に上げた。

 彼は眉を顰めながら男を見た。

 何しろ男もじっと颯太の方を見ていたからだ。

 知り合いかと思ったが別に話しかけてくるわけでもない。

 辺りを見回し自分ではない誰かを探しても並ぶ本棚の前には誰もいない。

 颯太は目線を男に戻したが、男はただじっと颯太を見ていた。


 長い、黒い前髪の隙間から、じっとねめるようにこちらを見ている。


「……なんすか」


 こんなオタクくさい奴にびびってたまるかと、颯太は挑む気持ちで声をかけた。


 しかし男は反応しない。


 ただ、真一文字に結ばれていた唇がゆっくりと三日月型に変わっていくのを見て、颯太はあまりの気持ち悪さに一歩後ずさった。


「っ……」


 逃げるようにその場から離れる。

 新刊コーナーに、文庫本を置き去りにして。


「うざっ、きもっ!」


 その日、彼はお気に入りの新刊を買うことなく本屋を出た。

 吐き捨てた言葉が、夜色に侵食された夕暮れに消えていく。


 それが始まりだった。


***


 本屋から急いで帰宅して一息ついた頃、颯太は眠気にうとうとと頭を泳がせていた。


 一人用のソファに深く腰掛けたまま、首を背もたれに乗せてごろりと寝返りを打つ。


 座椅子を大きくしただけの簡易ソファは、それだけでぎしぎしと耳障りな音を立てた。


 颯太は睡魔に身を預けようとしていた。

 先程の不快な出来事を眠る事で忘れてしまいたかったからだ。


 次第にうつらうつらと瞼が閉じたり開いたりし始める。

 すると薄く空いた視界に隙間の空いたカーテンが見えた。しっかり閉めたつもりだったのに、幅十センチほど開いている。やはり安物のカーテンは綺麗にまっすぐ降りないのだろう。ところどころ生地が引き連れていて、たわんでいた。


 やっぱ百均の三百円カーテンじゃ駄目か。


 そんな風に思いながら颯太が目を閉じようとした時、ふとカーテンの隙間から何かが覗いた。

 ふたつ、妙に気になる何かがあったのだ。

 颯太は眠気に抗いながら目をこらした。

 白い部分が青みがかっていて、真ん中の茶色い虹彩がよく見える。


 何かに似ている。

 そうだ、あれは金魚の目だ。

 それも出目金。


 ぎょろりとした———ひとの目だった。


「っうわああああああ!!??」


 颯太はソファから飛び起きた。本能のままに窓から離れようと後ろに飛びのいて、急激に上がった己の心拍を感じながらカーテンの隙間を凝視する。


 ぶわりと冷や汗をかいていた。

 冷たいフローリングについた手が震えている。


「なんっ……!?」


 言葉ともいえない声が漏れる。

 外が夜だからか、その二つの目はぼうっと浮き上がって見えた。まるで眼球だけがそこに浮いているようだった。

 見間違いでも何でもない。それが余計恐怖を煽る。

 だが目を凝らしてみれば一応人間のシルエットがかすかに浮かび上がっているのがわかった。


 強盗か? もしくはストーカーか何かか?


 目まぐるしく颯太の思考が動く。しかし今は何より警察だと彼はテーブルの上に置いたスマホをちらりと見やった。

 心臓がばくばくと五月蝿い。呼吸も浅く、息苦しい。

 極度の緊張に陥りながら、颯太はスマホに手を伸ばした。


 視線は窓から外さない。外せない。カーテンの隙間がまるで別の空間になっているようだった。


 あと少しで手が届く。そんな時、二つの眼球が動いた。


 きゅぅ、と。


 目が。


 ———嗤った。

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