第7夜 さようならをあなたに

翌日。

兄が部屋の扉をノックする音で私の意識は覚醒した。

瞬間的に、飛び起きて自分の体をチェックする。

胸に、痛みも傷も、赤も残っていなかった。

ただ、鼓動だけがない。

体のあちこちを触っていると、ノックの音が強くなり慌てて返事をする。


「おはよう兄さん。もう仕事に行く時間?」

「あぁ。澪は今日も休みなんだろう? ゆっくりしているといい」


そういいながらも、体調は大丈夫かと尋ねられた。

少しだけドアを開けてそうっと、半身をだす。


「少し、目が充血しているな……まだ寝不足か?」

笑いながら、からかうように兄がそう言った。

鏡はまだ見ていなかった。みっともない格好だったかと慌てて部屋に引っ込む。

じゃあ、行ってきます、と兄の声が遠ざかっていく。


「いってらっしゃい」


ぽつりと返す、聞こえているかわからないくらいの声で。

もう、いってらっしゃい、なんて言えないかもしれないのね。

今日が最後だもの――支度、しないと。

それでもとりあえずの身だしなみは整えようと、のろのろと部屋を出て動き出した。


喉の渇きを感じたから、リビングでコップに水を入れて飲み干した。

なんとなく、おさまったような気はする。お腹は膨れた感じがある。

再度胸に手をあてるけれど、やっぱり。

体温はあるのに、変な感じ。

自室に戻って、再度鏡をまじまじとみる。

うん……確かになんか目が赤いわ、充血してるみたい、がぴったし。

髪は……うん、そのまま黒ね、相変わらず地味だわ。

どうせなら、こっちも色が変わったならきれいなのに。

とりあえずの身だしなみを整えてから、さてどうしようかと考える。

彼は離れる支度をしておけ、といっていたから……出かける支度。

時間も期限もあてもない旅路。

服……なんてどうしようか。とりあえず少しだけでいいだろうか。

持っていきたいもの、なんてそんなにあったかしら。

くるくると考えながら、思いつく旅支度をしていく。

旅行用の鞄に、幾つかの替えの服を。

お気に入りの本だけは、そっと鞄に詰め込んだ。

その他にあれもこれもとつめこんでいたら……

まるで修学旅行のような鞄になってしまった。

これじゃダメだわ、やりなおし。


入れる鞄を、小さめの手提げ付きの鞄に変えて。

愛読書を一冊。母の形見のロケットは自らの首に飾って。

シミのついた写真はどうしようか迷ったけれど、写真立てを裏返しておいた。

部屋のデスクに、携帯電話も電源を切って並べておく。私にはもう不要だ。

兄との連絡ぐらいにしか使っていないから、元々未練が薄い。

出るときの服は夜に着替えることにして、リビングへともう一度足を運んだ。

ひっそりとした、静かなリビング。

随分と見慣れた場所だけれど、一人でいるイメージが強くある。

カーテンを閉めているのに、ずいぶんとリビングに差し込む日差しが眩しく感じられた。

眩しい上に、うつらうつらと意識が傾きかける。

ちょっと早すぎるけれど、兄の分の夕食を作っておこうと思った。

作りなれているはずなのに、指がうまく動かなくて。

うっかり包丁で指を切ってしまったから、絆創膏を巻いた。あまり痛くない。

料理を作り終えてしまうころには、強い睡魔に襲われていた。

夜型ではないはずなんだけど……と思いつつ自室へとふらふら戻る。

しばしば船をこきながらも、寝間着から着替える。

襟付きのシャツに上着、下は動きやすいジーンズ。

靴も下からもってきて、ベランダの傍においておく。

ぎりぎり外に出れる格好になったあたりで、意識より睡魔が勝った。

ベッドへと倒れ込むと、またたきひとつでまぶたがくっつき離れない。

「兄さんに、挨拶できるかしら……」

考え事をする暇もなく、眠りへと落ちていった――


眠りに落ちるのも突然なら、覚醒も突然だった。

ぱちり、と誰かに起こされたかのように目が覚めて。

部屋のカーテンを明けてみれば、とっぷりと夜に染まっていた。

慌てて部屋の時計をみると、深夜の1時。昼寝なんてものじゃない。

昼間は、睡魔に襲われて体調もいまいちだったのだけれど。

眠りのせいか夜のせいか、ここ最近で一番調子がよかった。

頭も視界もすっきりしている。カーテンを開くと月明かりが綺麗に差し込んで。

そうか、今日は満月なのか……

見事な円を描いた黄金が、夜空に浮かんでいる。

暗闇なのによく見えるのが珍しくて見惚れていると。


「やっと起きたのか」


直ぐ側から彼の気だるそうな声が聞こえて、飛び上がった。


「ちょ……あなたいったいいつからいたの?」


 ベッドの側へと立つ彼に問いかけた。

きてたなら、起こしてくれてもいいじゃない!だいたいいつも勝手に部屋に入ってきて……

「ついさっき、な」

 答えになっているのかわからない返事が返ってきて。わたしは何かを諦めた。気にしないのが一番だろう。

「体調など、変わったところはあるか」

 そういわれて、わたしは気になっている部分、変わったところなどを話した。彼はそれを聞いて少し考えるような仕草をした。

「それと、喉がやたらと渇くわ。水を飲んでいるけれど」

「……あとでまた飲めば収まるだろう」

 何を、とは思ったけれど、わたしは聞かなかった。代わりに聞きたいことがあったから。

「ねえ、髪の色を変えることって、できるのかしら?」

 彼の上着の裾を引っ張りながら、そう聞いた。昼間鏡で見たとき、目の色は少し変わって見えたけれど、髪の色は黒いままだったから。彼はいきなり消えたりできるんだから、出来るような気がしていたのだ。

「何でそんなことを……」

 彼は眉をしかめながらわたしを見た。何の意味があるのか、と聞かれているように思った。

「前から、変えてみたいと思っていたのよ。あなたならたぶんできるでしょう?」

 根拠はないが、なんだかそういう不思議なことができそうな気がして。

 それくらい自分でやれ、と突き放されてしまった。何をどうやるのやら、まったくわたしは知らない。そのまま諦めずに、しばらく彼と押し問答していると……

深いため息をつきながら彼がいった。

「……何色に、しろというんだまったく」

 そう問われて、わたしの頭の中を、太陽の光に反射して光る、金髪がよぎったけれど。窓の外の満月を横目で見て。

「月……」

 今なんといった? 

そんな怪訝な顔で見つめられてしまったので、今度はしっかりという。

「あなたが見上げている、月の色がいいの」

 不思議そうに彼は瞬きをしてから、わたしに目を閉じるようにいった。今度は痛みはないだろう。目を閉じていても、髪に彼の手が触れるのが感触でわかった。声に促されて、わたしは目を開ける。視界を掠めた色に驚きつつ、テーブルから手鏡を取り、姿を映した。

「あなたには、月が赤く見えているのね」

 わたしの髪は、赤い、赤い色に変わっていた。緋色というよりも、深紅に近いかもしれない。深いけれども、はっとするくらい鮮やかに見えるときもある。……とっても綺麗な色。素直にそう思った。

「お前の瞳と、同じ色だ」

 そういわれて鏡を再度見ると、確かに赤色だった。瞳そのものの色が変化していた。

髪よりもずっと薄い色だったけれど。

誰がみても、わたしだとは気づかない姿になった。

嬉しいのか寂しいのかよくわからない。

色の変わった髪を手で弄んでいたら控えめなノックの音が耳に響いて

また飛び上がりそうになった。

兄さん。仕事から帰ってきたのか、それとも起きてきたのか。

いったいなんで、こんなタイミングで?

動揺しながら、どうしたの、とドア越しに声をかける。


「兄さんどうしたの、もう夜遅いわ」

「なんだか目が覚めてな。澪、ちょっといいか?」

「どうしたの?体調なら、もう大丈夫よ」

その場から動けずに、返事だけを返す。

しまった、部屋の鍵、なんて必要がないからかけてない。

「あぁ。その声だと大丈夫そうだな。でも心配でな……開けてもいいか?」

きゅっと、胃が縮む感覚。今、入ってこられると非常にまずい。

「私、もう寝るから大丈夫よ?だから――」


言い終わるより先に、ガチャ、とノブを回す音が響く。

ひやりとしたけれど、扉が開くことはなくて。

鍵もかけていないはずのそれが開かない、そんなこともどうでもよくて。

どうしようかとあたふたしていると、行くぞ、と彼に手を引かれてベランダに出た。

よりによって今出るのか、と少し戸惑う。気づかれない内に去りたかったから。

矛盾している、今夜行くと彼は言っていたのだから。

「いるなら開けてくれないか?胸騒ぎがしてな……」

「今日はとても静かな夜よ。なんにもないわ大丈夫」

「なら、どうして開けないんだ。澪?」


今まで聞いたことのない、必死な様子に後ろ髪を引かれつつ。

ベランダから、夜空を仰ぐ。月が綺麗だ、こんな夜なのに。


先程よりも、強くなったドアノブの音。けれども以前として開くことはなく。


「くっそ、なんで開かないんだ? 壊れてるのか?

澪、鍵を掛けているなら開けてくれないか。姿がみたい」


私は答えない。代わりに彼に訪ねた。ベランダに出たものの、どうするのかと。

目の前にあるのは、落下防止の手すり付きの柵ぐらいだ。


「ここから、先に降りていろ」


私の部屋は二階だ。彼も知っているだろう。

しなやかな指先が示すのは、庭……つまる所地面であり、それは。

無茶言わないでよ、と小声で彼に伝えたけれど。


「今部屋を出て行くのと、どっちが無茶だと思う?」

返答のしようがない。出ていったら、それはそれで大騒ぎになる。

兄さんに何かされても、困る。彼に何かあっても、困る。

意を決して、手すりの上までは登った。

腰掛けた状態で下を覗き見ると――中途半端な高さに不安が強くなった。

遠近感が麻痺してくらりとくる。

死にはしないけれど、骨の一本や二本は軽く折れるだろう。


「……や、やっぱり飛び降りるのは無理よ!」


体の向きを変えて戻ろうとしたとき、焦りすぎて手がつるりと滑る。

前につんのめって、そのまま落下――

「う……そ、きゃぁ!」

届かないけれども、手すりへと手を伸ばすと。

尋常じゃない力でベランダへと引っ張り上げられた。

肩の骨が軋んで痛む。呆然とする私の目の前には、少し慌てた彼の姿があって。


「この馬鹿が! 頭から降りる馬鹿が何処にいる!?」

馬鹿と二回もいわれ、すごい剣幕で怒鳴られた。

「まだ馴染みきっていないんだから、体には気を使え!」

「いまのはどう見ても事故でしょう!あなたが急かすから」

大変な目にあうところだった、とその場にへたりこむ。

腰が抜けてしまった、どうしよう。

次から次へと。放心すると同時に、ドアノブを回す音が止んでいたことに気づく。


「おい――他に誰かいるのか? 誰だ」


とても低い。押し殺したような兄の声が聞こえた。

恫喝するかのようなその声に、自然と体がこわばる。

こんな兄さんの声、聞いたことない。


「澪。ドアの側にいるなら、危ないから離れておけ」

その言葉が、言い終わるか終わらぬかの内に、破壊音が響く。

二度、三度。四度目で扉がメリメリと音を立てた。

兄さんが扉を蹴破るなんて!



「ちょっ……兄さん!?」

「――行くぞ!」


扉が破られるなり、彼は私を横抱きにして、ベランダから飛び降りようとした。

私は兄の行動に驚いて、思わず呼んでしまった。姿は今違うのに。

彼の腕を揺さぶる。後少し、あと少しだけ待って欲しい。

伝わらなくてもいいから、言っておきたいことが――


「準備はしておけと言ったはずだ」

忌々しそうにいいながらも、飛び降りる寸前で留まってくれた。


完全に傾いてしまった扉には目もくれずに、兄が飛び込んでくる。

そのままの勢いで、ベランダの、私達の目の前へとやってきた。


「澪……」


困惑しながらも、私の名前を兄は呼んでくれた。

変わっても、兄さんにはわかるのね。もう、十分。

横抱きにされたまま、私は兄の目を真っ直ぐに見据えて。

声には出さずに、別れの言葉を唇で紡いだ。

立ち尽くしたまま、兄は動かない。

行きましょう、と私は彼に声をかけた。

それを合図に、彼はベランダから私を抱えて飛び降りる。

反射的に兄が手を伸ばしたけれど――私の髪に、微かに触れただけで。


夜に飛び込んでいく二人。

微かに兄の呼ぶ声が聞こえたような気がして。

「さようなら、兄さん」

声にだして、今度は風に別れを乗せた。

今度は、きっと届かないから――



月の輝く夜に、お別れを。















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