第5夜 貴方は美しい

夜に訪れるあの人から、話を聞いた翌日。

放課後に再び図書館へと足を運んでいた。

日中の授業なんて、ちっとも頭に入らなかったわ。

いえ、入れる気がないのかもしれない。

わたし、これからどうしたいのか……生きたいのか。消えてなくなりたいのか。

ふらふらと、図書館の書架へ視線を彷徨わせる。

なんとなく目につくのは、心理学、精神世界系列の本。


ポジティヴな気持ちを保つ……疲れたときに、心の癒やし……

どれもこれも、するりと通り抜けていく、一瞬目に留まるだけで。


当たり前かもしれないわね。わたしがどうすればいいか、なんて書いてないもの。


ためいきひとつ、別のジャンルの書架へと移動する。

気持ちがあいまいでも、好きなものは変わらない。

慣れ親しんだ物語の本を手に取り、空きスペースで没頭しようとする。

アリスは。現実へと帰って、しあわせになれたのかしら?

わたしはこのさき、しあわせになりたいのかしら?

ひとつ、はっきりしているのは、独りにはなりたくない。

静まり返った古い記憶を思い出して、思わず身震いをする。

親戚の間を行ったり来たりしていたころの、あの家主たちのはた迷惑そうな雰囲気


ただただ、毎日、ここにいてはわたしはいけないのだ――

それだけは子供ながらにわかっていた。

誰にも知られずに、ひっそりと何処かへ流れ行くことができたなら。

それが、誰かと一緒ならば。居場所に、することができるだろうか。

本の物語よりも、渦巻く頭の中の考えに気を取られたのか。

いつも以上に時間があっというまに感じられた。

閉館のお時間です、と係員に声を掛けられて今いる場所を思い出した。

本は何も借りないで、外にでる……あと1時間もすれば、夜になる。

まだ、時間はそんなに遅くはないのだけれど……明日は天気が悪いのだろうか、薄暗く感じられた。

なんだか、今日はまっすぐ家に帰りたくない……帰ったところで、兄の帰りは遅いのだけれど。

そう遅くならなければ、咎められることはないだろう。

気分転換もかねて、少し駅のショッピングモールでも見て回ろうか。

気が済んだら、駅から歩いて家まで帰ってみるのもいい。

そんなことを考えながら、バスに乗り込んだ。

一通り、めぼしいお店を見終わってみれば、夜19時を回っていた。

自宅近くのバス停まで、ぼうっとしながら揺られる。

降りる前に定期券をなくしたかと、慌ててしまった。

制服のポケットをがさごそと探すと、駅でもらったポケットティッシュがでてきた。

あぁ確か、珍しく――いや、今は定期券を探さなければ。

カバンをまさぐるも見つからず、わたわたしていると、先程のティッシュの間から滑り落ちてきた。

どうやら一緒に入れられている広告の隙間に挟まっていたらしい。

一安心して、バスを降りる。

バスを降りた人は結構いたけれど、すぐに各々の方向に散っていった。

人通りが少ない。

帰り道を歩きながら、さきほどのティッシュを取り出す。

ここひと月ほど、不審者の報告が相次いでいるらしい……

らしい、というだけでまだ何もないらしいが。

注意をうながす文章が書かれた、鮮やかな色合いの広告が中に入っている。

よくあることね、なんて思いながらポケットにそれをしまった。

あれやこれやと考えながら歩いていると、ふと気づいた。

わたしの後ろ。学生靴の音とは別に、誰かの足音がする。

音がするから、あの人じゃない。

ただ後ろを歩いているだけかしら。それにしては、さっきから音がついてきているような。

不気味に思いながら、歩く速度を上げてみる――足音も、ついてくる。

ふりきってしまおうか、と小走りに駆け出した。

けれどあまり運動が得意でないこともあって、すぐに息があがってしまった。

足を止めて、一旦深呼吸をする。呼吸を落ち着けようとしていると背後から。

はぁ、はぁっ……と誰かの息遣いが聞こえて。

息が切れているのも忘れて、わたしは再び駆け出した。

立ち止まらない方がいい、何処かに移動しないと。

いっそ家まで戻ろうか? でも。家に入ってこられるなんて、絶対に嫌――!


どこをどう走り回ったのか、気がつけば手元に鞄はなくて。

知らない、路地裏にたどり着いた。

追いつかれないようにと無我夢中で進んでいたら、行き止まりに。

酸素を求めて口を開きながら、今度こそ本当に足が止まる。

戻って走り抜ければ大丈夫かもしれない。

けれども、途中で鉢合わせするかもしれない……

いえ、いないかもしれない。止まっちゃだめなのに。

考えながらも、足は動けず。呼吸を整えつつ、振り返ると、人影があった。

帽子を深くかぶっていて、暗くて顔がよく見えない。

くらい、のに何か手に持っている、鋭いもの。

それが何かまで見えないくせに、本能的に恐れが湧き上がる。

それが何かを理解して、ひきつった声がもれる。

寒いのに冷や汗が吹き出す。

ゆったりと、こちらへ近づいてくる。息は荒いのに、不自然なくらいにゆっくりと。

通りすがりの悪意。どこの誰とも知らない、ただただ、理不尽な暴力……

それが今は、目の前で刃をふるおうとしている。

なんだ、遅かれ早かれ、わたしの行き先は同じだったんじゃない。

頭が考えることを放棄しようとした。

だけど。通りすがりのものに、命を絶たれてしまうくらいなら――


「あのヒトに、殺されたかった」


かすれた声がぽろりと溢れて。目の前の人が、手に持ったものを振りかぶって。

わたしは最後に、目をつぶって。

次にくるであろう感触に、身構えて。

息を詰めたわたしの耳に響いたのは、何かが軋む音。


「楽には死なせない……といったはずだが」


夜に、ふさわしい声が凛と響いて。

冷たくなるその声に誘われるように、そうっとまぶたを開く。

この身に降りかかるはずだった悪意が。

刃物を振りかぶったはずの男の体が、浮いている。

首に。首に、白くしなやかな指が食い込んでいて……それは男の背後から。

さっきの音は、首を締め上げられている音だと気がついた。

どうして、だなんて言葉もでないまま、ただ目の前のモノを見つめる。

首を締め上げられた男は、少しの間もがいていた。

ばねの切れたロボットのように、むちゃくちゃな動きで体が揺れる。

その動きが弱くなろうかというころに、首筋に噛み付くあの人の横顔が見えた。

いつもよりも強く輝きを放つ紅。真っ赤な宝石みたいな瞳。

意図を持って開かれた口から覗く、白い乱杭歯。

生暖かい湿った音が、その場に響く。耳から、脳に直に響いた。

食いちぎるようにして首から顔を離して『彼』はひとこと、まずいと吐き捨てた。

掴んでいたモノも投げ捨て、袖で口元を拭う。

彼がわたしの方に向くころには、瞳の色も落ち着いていて。

白い肌に跳ねたのであろう、生々しい赤色が鮮やかに見えた。

暗いけれども、きっと衣服にも飛び散っているのだろう。

こんな――こんな状況なのに。恐ろしいと、感じないなんて。

止まっていた足を、ふらりと前に動かして彼に近づく。

彼は気だるそうにわたしを見ていたが、近づくにつれて少し後ろに下がった。

水たまりを、踏んだような音がするのにも構わず、彼の傍へ。

怪訝な顔をしたまま、わたしを見下ろすそのかんばせ。

自然と、彼の頬へと手が伸びた。

「やっぱり、綺麗」


人間じゃない生き物。生きているのか、死んでいるのか。定めはあるのか。

どう見ても考えても、魔性の存在だった。そう、はっきり認識したのだけれど。

傍に近づいても不思議と嫌じゃなかった。


「気でも触れたか?」


彼はうっそりと微笑みながら、わたしの手をとり口元へと持っていく。

あぁそうか、さっきのモノがついているのか……

ぼんやりと考えていると、ちくり、とした痛みを指先に感じた。

指先の汚れはきれいになっていたのだけれど、傷がひとつできていた。

痛いのだけれど、と伝えてみる。


「当然だ。お前は生きているのだろう」


生きている、といわれて、急に視界がゆらぎだした。

怖い、なんて今は感じていないのに。目の前の彼が怖いわけではないのに。

それでも安堵が心を満たすと一緒に、涙も自然と流れていった。

しゃくりあげながら彼を見ると、妖艶に笑って言った。


「化物に殺されたかった、なんて滑稽な娘だ」

「こころ、からそう思っちゃったんだから、しかたがないじゃない」


わたしの答えに、返答はなく。ひきつった音だけが響く。

歪みまくる視界の中あの人を見やると、彼も滑稽な表情をしていた。

意表をつかれたような。何かを捨てきれない顔。

どうにか落ち着いたころには、気がつくと彼が目の前にいて。


「決断は、おまえに任せよう。選択することを、放棄するな。

選ぶのならば、覚悟を持て――」


あなたと一緒に生きていくことも、選択の内に入るのなら……

もう、決まってしまった――なんて今はいえないまま。

顎に手を掛けられ、彼の赤に意識が吸い寄せられて。

意識が静かな眠りの中へと落ちていった。

暗闇の中に揺らめく色彩。

紅い赤い、綺麗なその色を私は追いかけていた。

浮かび上がる色彩は私に近づいて来たかと思うと、時に離れていってしまう。

弄ばれているのか、誘われているのか、はたまた無意識か。

暗闇の中なのに、ぽっかりと開いた穴がひとつ。

赤色は手招きするかのように、その穴の向こう側でゆらめく。

アリスは白ウサギを。私は紅を追いかけてただ走る。

進んでも進んでも辿り着けない暗闇の中で、私は手を伸ばす。

待って、置いていかないで――穴に落ちたって触れられるなら、構わないから。


躊躇わずに追いかけていく私の足は、虚空へと吸い込まれていく。

落ちていく衝撃に揺さぶられて――

「おい澪!大丈夫か?」


大きな兄の声と、肩を揺さぶられる衝撃で私の意識は覚醒した。

ぼうっとしながら現状確認。ここは、私の家のリビングで……

ソファーで私はいつの間にか横になっていたようだ。

どうやって帰ったのかまったく記憶がない。

その状態を兄に発見され、起こされたらしい。


「鞄も玄関に置きっぱなしで、どうしたんだ?」

鞄。失くしたはずのそれは、いつのまにか家の玄関にあったらしい。

飛び起きて玄関の靴を見るけれど……きれいだ、汚れもない。

まだ眠りの中にいるようで、頭の中がふわふわとするけれど。

あの光景と色彩は記憶に焼き付いていた。


「ごめんなさい、ちょっと疲れて寝ちゃったみたいで……あれ」

ねぇまって、兄さん今何時と慌てて時間を確認すると、22時を過ぎていた。

私は覚えているのは19時ぐらいからだから……

走り回った時間を合わせても、だいぶ経っている。

あぁ、大変だ。兄の分はおろか、自分の分も晩御飯の支度をしていない!

慌ててリビングへ向かって、テーブルの上に準備されている食事に気づいた。

兄さんが作ってくれたのであろう軽めの食事と、出来合いのお惣菜などが並んでいた。


「兄さんごめんなさい、準備できてなくって……」

「別に構わないさ。こんな時間まで寝てたくらいだ、よっぽど疲れてたんだろう」


俺だって自炊くらいできるんだから、心配するな、と兄は微笑んだ。

ありがとうと返して、自分の顔色を見ようと手洗い場に向かう。

鏡でさっと自分の顔色をチェックする……呆けた顔をしている。少し、血色が良くない。

実のところあまり食欲はないのだけれど……

そんなことを考えていると、家の外から、遠くなるサイレンの音が聞こえた気がして。

リビングに戻り、もうすでに食事に手をつけている兄に尋ねた。


「兄さん、気のせいかな、サイレンの音が聞こえたんだけど……」

「あぁ。うちの近所で、変死体が見つかったらしい……っと食事中に言うことじゃないな」

「聞いたのは私だから、気にしないで」


変死体、というのはもちろんあの男だろう。

チラシにものっていたであろう男。違う男だったとしても、通りすがりの悪意。

それが見事に砕かれた瞬間を思い出すと、食欲がさらに減ってきてしまった。

しかし血が足りてないものでもあるし、食べないわけにはいかない。

いただきます――と手をあわせてから食事をはじめた。


食事を済ませた後に、兄が自分の仕事用の鞄を持ってくると、なにやらがさごそやりだした。

どうやら何か出そうとしているらしい。

珍しそうに兄を見ていると、出てきたのは可愛らしい包み。

リボンも結ばれているが、上品な仕上がりで男性女性、どちらにあげても喜ばれそう。


「どうしたのそれ、兄さん? 買ったものじゃないでしょ」

「同じ部署の事務の子からな……妹さんにもどうぞって。

あぁ、俺の分もくれたから、これは澪のぶんだからな」


兄さんだって年頃の男性だし、身内贔屓だとしても、かっこいいもの。

誰かからプレゼントをもらっていても、おかしくない。

「でもその人、ずいぶん優しい人なのね。私のぶんまで」

「まぁ、よく仕事上でも話をするし、休憩のときにも澪のこと話したりしてるからな」

お菓子の包みのラッピングは、その人が自分で行ったこと。

普段から笑顔が優しく、面倒見がよくて仕事もよくできる人であること。

つらつらと話す兄につられて、私も想像した。

仕事のやりとりでその人と話す。休憩中の、他愛のないであろうやりとり。

プレゼントを渡した時、受け取った時の兄の顔――

普段知らない兄の光景を想像すると自然と顔がほころんだ。

どうした? と兄さんに不思議がられてしまったけれども。

夜の帰りも遅いし、兄は一見すると仕事一筋なタイプの人に見えるから――


よかった、気にかけてくれている人がいて。

支えてくれる、プレゼントをくれるような人がいるなら、大丈夫ね。

嬉しいような、ほんの少し寂しいような気持ちに満たされた。


「ねぇ兄さん、私あんまり体調がよくなくて……」

「そうだろうな。学校、休むか?」

「休んでもいい? ちょっとゆっくりしたいから」


私には、考えて決めなくてはいけないことがあるから。

うん、ちょっと2日間だけ休むように明日連絡するね、と兄に伝える。

じゃあ、おやすみなさいと声を掛けて自室へと向かった。


自室にて、手早く着替える。

制服もたたまずに、雑に放っておいた。

どうせ明日は学校を休むのだから、制服の乱れなんてどうでもよかった。

ベッドに横たわり、軽く目をつむる。まだ、眠るつもりはないのだけれど。

頭の中に浮かぶのは、夜に溶け込む光景。

かざされた殺意のぎらつきと、砕けた首の骨の音と、締め上げる白い指。

私の唇から零れた願いと、彼の唇から放たれた言の葉。

すべてを見透かして、染め上げるようなあの瞳。

わたしは、あの人と一緒にいたい……

そんな想いだけが強く頭に残っている。自分の、意思で。

憧れ、なのだろうか。憧憬で、人としての自分を自ら殺す選択をするのか。


それでもいい、と。それですべて失くなっても、初めに戻るだけ。

戻れない旅だとしても、わたしは飛び込んでいくだろう。

穴に落ちたアリスのように。

うとうとしてきて、ベランダをみやるけれども何もない。

今日の様々なことを思い返しながら、眠りに落ちた。


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