第4夜 分かれ道

彼とやりとりをした翌日。昨晩のせいだろうか、私は寝坊をした。

寝坊をして遅刻をするなんて……はじめての経験だった。

だらしがない、と担任には怒鳴られ、クラスメイトの人達からは驚かれた。

『そんな子じゃないのに、どうしたの?』

寝不足と貧血気味も相まって、私の気分は最悪だった。

こんな場所、必要がなければとっくに来るのをやめている。

いつにもまして授業に集中できず、けれど時間はあっというまに過ぎていった。

おざなりに授業の終わりまでを過ごしてから、私は駅にある図書館へと向かうことにした。

学校の近くにあるバス停から駅へと向かう必要があるため、普段はめったに利用しない。

適当に本を読むだけなら学校の図書室で事足りるのだけれど。

「今回ばかりは、学校にはなさそうよね……」


駅前の図書館といっても、このあたりでは大きめの図書館であり……

それなりの蔵書数を誇っており、多様なジャンルの専門書も多い。

何年ぶりかに訪れた図書館には、様々な年代の人がいた。

設けられている学習用のコーナーへとかばんを放り投げると、専門書のコーナーへ向かう。

目当てのジャンルは、伝記や神話モノ、それに医学関連の書架。

いくつか目次を流し読みして、数冊を選び席へと戻る。

まずは医学関連のものから、とページを繰っていく――


『血液嗜好症』


別名:ヘマトフィリア ヘマトディプシア

血液に対して異常な執着を見せる。


また血を見ることによって、快感を得たりする、精神病の一種。

血を見なければ性的に満足できない場合は

ヘマトディプシアと呼ばれる。


ヘマトフィリア。

私は口の中で小さくその名前を呟いた。不思議な響きの名前。

要するに、血が見たくて見たくてたまらない、というようなものなのだという。

自分のもの、他者のもの、どちらでも構わない者。見るだけではなく、摂取したくなるもの。

……ぎらついた感じは、なかったけれど。

昨夜のことを思い出しながら、関連する項目を探す。

そのまま本のページをめくっていくと、吸血病、というものがあった。

こちらはヴァンパイアフィリア、と呼ばれるらしい。

ヴァンパイア。

あぁ、なんだかこっちのほうがしっくり来るような気がする。

綺麗、だったもの。


吸血病――ヴァンパイアフィリア。

興奮的な衝動であるヘマトフィリアと違い、どちらかというと血液への依存。

血液を定期的に摂取しなければ、精神的な安定に欠ける。

衝動を自分でコントロールできるのならば、他者に害を及ぼす事の少ない症状。

けれども一般的には、疎まれることが多いと書いてある。

つまり、タバコや薬物に依存している……それが血液の場合、という事なのだろう。

しっくり、と思ったものの、そこまで病的な気配は感じられなかったような。

それがないと生きていられないから、という雰囲気のような気がする。

私は医学関連の本を閉じると、次の本のページを開いた。


吸血鬼――いわゆるヴァンパイアと呼ばれるもの。

ヒトの生き血をすすり、生きながらえる化物。

起源としては、ヨーロッパ地方といわれている。

今ではファンタジーの中のものとして扱われているけれども、[r]古い時代には実在すると信じられていた。

死者が墓から蘇り、夜の間にヒトに害を成す。忌み嫌われた夜の住人。

首筋から血をすするもの、ヒトの体を割いて食事をするもの……諸説入り乱れているみたい。

不老不死といわれているが、日光に当たれば灰になり、白木の杭を心臓に打ち込まれても滅びる。

あら、これはそうじゃないと書いてある本もあるわね、どっちかしら。

特別な力を持っているといわれはじめたのは、比較的近代になってかららしい。

現代からするとおとぎ話のようにしか感じられないけれど……

中世の時代に魔女狩りが行われていたように、昔は吸血鬼狩りも行われていたらしい。苦手とされるにんにくを用いたり、死者がでた時点で彷徨わぬようにと予め杭を打ち込んでおく。

当時の人からすると、死者が夜に動き人を襲うなんて話……]噂だけでも恐ろしいものだったに違いない。

吸血鬼に襲われたものも、連鎖するようにまた吸血鬼になるというのも拍車を掛けていたのかも。

本には人間と吸血鬼の混血である『ダンピール』についても書かれていたが、これは創作だろう。

作り話にしても、親殺しに長けているだなんて……忌々しい、というのだろうか。

もしもの話で実在していたとしても、そう歴史の中には残らないだろう。


吸血鬼をテーマとした作品で有名なものは、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』

作品におけるドラキュラ伯爵のモチーフになったといわれているのは、[r]実在したルーマニアのヴラド公。

ヴラド公は串刺し公『カズィクル・ベイ』という呼び名もあったから、ヴァンパイアというテーマに合ったのだろうか。

この呼び方をしたのは当時のオスマン帝国の兵士がきっかけだといわれている。

もちろんこの人はただの人間であり、後から吸血鬼というテーマに当てはめられただけのこと。

最近ではヴラド公に対する解釈は見直されていて、英雄に近い扱いになっているそうだ。

大体の本にかかれていることをまとめると、吸血鬼というのは幻想の夜の住人。

今ではヘマトフィリアのように病名として知られているけれども……

科学の発達していない昔においては、

血を求める様は化物といわざるをえなかった、という感じかしら。

語り継がれている話とは別に、ひっそりと息づいているということも、いえなくはない。

あぁ、結局どっちなのかわからなくなってきた。


だから、ヴァンパイアなんて……いない、はずなのだけれど。

黒と、赤と、夜に佇む人。

彼だって、ただの人に違いないわ、ちょっと、変わっているだけの。

図書館内に響いたアナウンスの音で、一気に意識が日常へと戻る。

集中しすぎて固まっていた腕と体をすこし伸ばした。

マニアックなジャンルかと思っていたのだけれど、内容が濃すぎて頭がくらくらしてきた。

閉館を促す案内音声が繰り返される中、読みきれなかったもの、別のジャンルのものを借りた。

重さをました鞄を肩からさげながら、図書館を後にする。


バスに揺られる帰り道、頭の中は先程読んだ本の内容と、あのヒトの事がぐるぐると巡っていた。

彼は、さきほど本にあったような血液嗜好性なのだろうか。それとも、それ以外なのか。

部屋に夜な夜な不法侵入されているというのに、不思議と恐れは感じない。

どうも、私はおとぎ話やファンタジーのようなものに惹かれる性質があるらしい。

人間以外のものに、憧れを抱いているのかもしれない。

年頃の少女誰もが通る道だとしても、それを私は渇望せずにはいられないのだ。

私が、わたし として生きているこの今に興味があまりない。

兄がいなかったとしたら、とっくにどうにかなっているのではないだろうか。


でも、わたしの事を誰も覚えていないのは、嫌。

ひっそりといなくなったら、誰も最初から私なんていなかったかのように 世界は進んでいく。

私のお父さんとお母さんの話題だって、今では誰も口にしない。

最初からいなかったみたい、忘れたみたいに触れられない。

……きっと兄さんだって、長い年月が経てば忘れてしまうわ、わたしの事なんて。

何処かにいってしまいたいけれど、忘れられたくないなんて、ワガママ。

バスから降りた足は、地についていないかのように感じた。


もしも。

もしも、わたしが人ではない何かになれたなら――

誰かの記憶に残り続けることもできるのかしら?

私じゃない、わたしになってここではない、どこかへ……なんて。

なんて、滑稽な幻想。

その、もしもがあるとしたらわたしは……何を、選ぶのだろうか。

何かを選ぶこと。

何も選ばないこと。

どっちのわたしが、愚かなのだろう?

帰宅した私を出迎えたのは、リビングで点滅する留守番電話の通知。

今日もどうやら、兄の帰りは遅くなってしまうらしい。

最近よく、二人分の料理を準備しては、ひとりだけで食べている気がする。

「兄さんには、兄さんの仕事や生活があるのだから……ぼやいても仕方ないわ」

そうやって、いつも自分に言い聞かせる。

一通り生活に必要なこと、明日の準備を済ませてから自室へと向かった。


お風呂も済ませて、歯も磨き身支度を整えて……夜の帳がさざめく時間帯。

あとは寝るだけ、という状態になると、心の底からリラックスして一息つけるらしい。

部屋の明かりは消して、ベッドサイドの小さな明かりだけで私は本を読んでいた。

目が悪くなってしまうから、と様子を見に来た兄に昔はよく怒られたものだ。

今読んでいるのは、海外の神話や伝承にまつわるもの。

吸血鬼関連の本も借りてきてはいるけれど、今はちょっと遠慮したい気分だった。

神話やお伽噺のたぐいの本は、いくら読んでも私にとっては飽きることのないものだ。

例えば同じギリシャ神話の本をいくつか読んでも、それぞれ解釈が違ってその差も楽しめるんだもの。

語り継がれる、話の中で生き続けるものたち――興味のない人にとっては読む機会すらないかもしれなくても。

それでも息づいているものたちを、わたしは素敵だと思う。

瞬きすらも忘れそうになりながら、夢中になってページを繰っていた。


「また随分と、くだらないものを読んでいるのだな――」


低く艶のある声が耳朶を打った。とても、芯に残る声。

その声に誘われるように、ぼうっと私は本から顔を上げた。

声が聞こえたのは窓際で。夜はとうに満ちている時間であれば、ただそこにいるのは連日の訪問者。


「くだらなくなんてないわ。 もしかしたら、実在するのかもしれないし」

「どう考えるかは、人の自由だな」


なんとも曖昧な言葉の主は、今日も窓のそばに佇んでいて。もう、驚きもない。

本を閉じて、ベッドサイドへと置いて体の向きを変えて。

言いたかったことを言う。


「昨晩はどうも。おかげさまでわたし、寝坊したのよ」


寝坊なんて記憶にあるかぎりでは、ほとんどない。余計な恥をかいた。

夜にやってくる、あなたのせいよ――と色々こめて睨みつけることができたとは思うのだけれど。

「……俺のせいにするつもりか? 寝過ごしたのは自己責任だろうに」


当たり前の返答なのだけれど。疲れているのだろうか。

つい、気絶させるなら朝も叩き起こせ、と言いそうになってしまった。

返答したきり、とくに表情のない彼に向けて、聞きたかったことを尋ねる。


「ねぇ、あなたって吸血鬼なの?」


返答はなく、整った眉がかすかに歪められただけ。


「あなたが言ったんでしょう、そういうふうに生まれついたって。覚えてるわよ?」


「……なんとでも思えばいい、好きにしろ」


ほんの一呼吸の間があって、あきれたような返答。それもそうだろう。

でも否定はしないのね。


「ねぇ、聞きたいことがあるんだけど……」


無反応。こちらを見てはいるけれど、瞬きしたかも怪しいくらいに反応がない。

好きにしろ、というのならそういうモノだと仮定して。その上で聞きたいことは。


「わたしも、吸血鬼みたいなものになれるのかしら?」


刹那。

冷たい手で、彼の指先で触れられたときよりも、鋭く。

言いようのない冷たさが、私を包んで体が自然と強張った。

寒い? いえこれは、怖い のかもしれないと気がついたのは。

物凄い形相でこちらを見てくる彼と視線がかち合ってから。

深い赤色の瞳は、やっぱりずっと見ていると目をそらせなくなりそう。

視線を縫い止められながら、あぁこういうのを鬼気迫るっていうのかしら……とかすかに思う。思考だけが動いている。


「死にたいのならば、そうしてやろうか?」


冷たさとは裏腹に、静かな声が響いた。

そうして彼が目をそらしたから、私はやっと深く呼吸ができた。


「別に死にたいわけじゃないわ。わたし以外のものに、なってしまいたいだけ」


忘れられるのが嫌ならば。いっそ、誰も知らなければいいのじゃないか。

余計なものを全部捨てて、なんにもない、わたしになれたなら。

それをわたしというかどうかはわからないけれど、それすらも気にならなくなるのならば。

行くあてなんかなくても――


逡巡するような間の後に、ぽつり、と声が聞こえた。


「何故、自ら命を投げ捨てる必要がある?」


「本当はわたし、ここにいなかったかもしれないのよ。誰の悪戯かしらね。

ひとりだけ、置いていかれてしまったの」


「くだらん。よくあることだろう、生きているのだから。放棄する理由にはならん」


「理由に足るかどうかは人それぞれでしょう? 私にとっては――」


「そうしてまた、お前も誰かを置いていくのか?」


「……置いていくんじゃないわ。ひとつ、荷物が消えるだけ」


まるで、誰かに置いて行かれたことがあるみたいな言い方ね。

あぁ、わたしは今、どんな表情をしているんだろう。


「人の身で在り続けたいと、願ったものもいる――」


知らずしらずの内にうつむいてしまった顔を、上げて彼を見る。


遠くを見る表情……透き通るかのような、眼差し。

懐かしんでいるのか悔やんでいるのか。

きっと、彼にしか理解できないものが表情に浮かんでいた。


「もしかして、いつか、そういうことがあったのかしら」


全部を投げ出したい、私みたいに。どうか……と願われたことがあるのだろうか。

『どうか、あなたの傍にいさせてください――なんて』

頭の中に思い浮かんでから、自分の考えに驚いた。

ただ単に、私は独りでいるのが寂しいだけなのだろう。

でもそれだけじゃ、落ち着かないものがある。

人生に幕をひきたいのなら自分でやればいい。

それを……なんで頼んでいるのかというと。

変哲のない日常にやってきた、彼に。不意の訪問者に魅了されてしまったのかもしれない。

異常性に、それとも容姿?……ただ、ただ惹きつけられて仕方がない。魔性。

きっと、通り魔に襲われるようなものかもしれない。

いちど出会ってしまったら、なかったことにはできない……したくないもの。


「一目惚れ、なんて嘘よね」

「何?」

「あなたの事、何も知らないし、私のこともあなたは知らないのに不思議。

どうしても、連れていって欲しい……と思うのは何故かしら」


たとえ、死んでしまうことになっても――そう呟いた。

彼なら、それができるような気がして。

この瞬間を逃したら、死んだまま生きていくような気がして。


「いつの時代でも、人は変わらないものだな。愚かな選択ばかりする」


「おかしいのはわかってる。イエス、それともノー?」


「人としては死ぬことになるが――イエス、だ」


そういいながら、初めて男がゆるり、と部屋に足を踏み入れて。

滑るように音もなく、目の前にやってきた彼を見上げる。


まっすぐに。独りよがりでも愚かでも、願いを吐き出す。


「わたしを、一緒に連れていってくれますか――?」


何故か、彼は少し目を見開いて。唇を少しだけ開きかけて、閉じた。


「子守はごめんだ……だが、方法だけは教えよう。後はお前が選べ」


突き放されているのか、イエスと言われているのかよくわからない。

しかし話はしてくれるようなので、私は姿勢を正して彼の話に耳を傾けた。


「とても簡単なことだろう?」


鋭い犬歯を剥き出しながら、彼は微笑んだ。

さて、お前はどうするんだ、と嘲笑うかのように。

とても凶悪な表情なのに、綺麗にも見えるだなんて。

彼の話を聞き終えた私は、ベッドの上で軽い放心状態に陥っていた。


数分前に、聞いた話によると、そう……ある意味では簡単な方法で。


要になるのは、心臓。私の心臓を、役に立たなくすればよいと。

そうした後に、そこに彼の血を流し込む――のだそうで。

手段は問わないが、潰してしまうのが手っ取り早いとは彼の話。

どうもこうも、確実に死ぬ。さっきから、そう明言されてはいるのだけれど。

心臓を潰す、と聞くとえぐられるような生々しさが身を襲った。

その後どうなるかなんて、想像もできない。何もないかもしれない。

ただ、死んで終わりかもしれない……

幼い頃のわたしみたいに、兄さんが、わたしの亡骸を見つけるの?


「本に書いてあることなんて、嘘ばっかりなのね」

血のやりとり、だけで済むかもしれないというのは、甘い夢。


「言っただろう? ヒト、としては死ぬと。

何に価値を見出すのかはお前の自由だ。後は選べ」


冷ややかに私を見下ろして、彼はそう告げた。

そして私に背を向けると、窓の方へと歩いていく。

待って、と翻ったコートの裾へと手を伸ばし、触れたと思った瞬間。

指が素通りして、男の姿が霧が散るように薄れていった。


『楽に、死なせてやるつもりはない』


彼の言葉だけが、頭の中に響いた。

その声を繰り返し、繰り返し思い出しながら、ベッドの上で独り膝を抱えた。

「でも、わたしはきっと選ばなきゃいけない」

強く強く、膝に爪を立てると、鈍い痛みを感じた――




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