第3夜 人ならざるもの
眠りからの目覚めは、緩やかだった。
昨晩の奇妙な訪問者を思い出しつつ、ベッドからゆっくりと起き上がる。
頭をゆるく振ると、少し先日よりも貧血が落ち着いているような気がした。
でも、なんとなく浮遊感がある。
ふわふわとしたまま、身支度を整えていく。
夢の中にいるような気分でリビングに行くと、すでに兄が食事を終えていた。
挨拶をかわして、用意してくれた朝食を食べた。
まごころのこもった、ほどよい量の朝食は頭をすっきりとさせるには十分だった。
やっぱり、一人でトーストをかじるより、兄さんと一緒のほうがいいわ。
兄の仕事で早く家をでることもあるから、なおさら貴重。
「おはよう、澪。髪が少しはねてるぞ?」
ふわり、と微笑む兄につられて、わたしの顔もほころぶ。
「大丈夫よ、出る前にはなんとかするから」
「そういえば、今日は体調は大丈夫なのか?」
「今日はそんなに顔色も悪くないでしょ? この間は迷惑かけちゃって、ごめんなさい」
夜のことは、秘めたまま。
「迷惑思ってなんかないって。心配なだけだよ」
「そう? わたしもそれなりに育ってきたつもりだけれど……」
兄さんは、優しすぎるのよ。
そう伝えると、わたしの頭にぽんっと手をのせてなでられてしまった。
大事にされているような、からかわれているような感覚。
「澪は気にしすぎなんだよ。じゃあ、今夜も遅くなるからな」
そう言い残して兄はリビングから出ていった。
いってらっしゃい、と後ろ姿を見送ってから食事をきちんと済ませた。
しゃっきりとしてきた頭で、洗面台へと向かう……髪を、なおさないと。
そのついでに、首筋も確認する。
ふたつの痕は、初めて気づいたときよりも薄くなってきているような気がした。
ぼやけてみえるから、そうなのかもしれない。
どこかほっと胸をなでおろしながら、身支度を最後まで整える。
ひとつ、深呼吸をして気持ちを切り替えて、わたしは学校へと向かった。
今日はしっかりと学生としての本分をこなそうと思っていたの、だけれど。
その日は前日よりも体調が良かったにも関わらず……授業に集中できなかった。
しっかり、だなんて無理だった。自分でも呆れるくらいに集中力がどこかに吹っ飛んでいた。
おざなりなノートを取り、右から左へと授業を受け流してあっというまに下校時間。
何が原因だろうか……なんて考えるまでもなく。
浮かぶのは、昨晩の人。夜間の訪問者。綺麗な不審者。
寝起きは頭が呆けていたからなのか、気にならなかったけれど。
思考が落ち着けば落ち着くほど、いったいあれは何だったのかとぐるぐる考え続けた。
そんな状態じゃ、授業なんて頭にはいるはずもない。
今日は塾がない日で助かった。帰り道を歩きながらそう思う。
いつもより早い時間夕暮れ時のため、人通りが多い。
この間なんて、ほとんど人気がなかったのに。
同じく学校帰りであろう生徒達、特売帰りか井戸端会議か、散らばっている主婦の人。
ひどくゆったりとしたペースで散歩しているのだろうか、年配の人も見受けられる。
人が多い分、交通量も増えているようで。
ときおり鳴らされるクラクション。学生たちの賑やかなさえずりの声。
落ち着くけれども、同時にうっとおしくも感じられた。
適度な距離を保ちながら歩いていると、前から学生の集団が歩いてくるのが見えた。
道いっぱいに広がっているから、このままだとぶつかってしまうだろう。
わたしはそう考えて、道の端へと歩みを進めていく。
まもなく、男女混じった集団がわたしの横を通り過ぎていく。
その、通り過ぎていく刹那に――長い、黒髪がさらりと流れて。
黒衣がゆらめいたような気がして、慌てて振り返る。
けれども、目の前にいるのは学生達だけで、黒衣の人なんていなかった。
やっぱり疲れているのかしら。見間違うなんて、と可笑しくなって笑った。
それでも、後ろ髪をひかれるかのように何度か振り返りながら歩く帰り道。
もし、そこにあのヒトがいたとしてわたしはどうしたいのだろう。
首ねっこ捕まえて、警察にでも突き出すとか?
いいえ、そんな気もないわ。ただ、もの珍しいだけよきっと。
首を振り振り歩く帰り道、今日も、帰ったらひとり。
ぼうっとしながら歩いても意識をしても時間は同じで。気づくと家についていた。
家に帰ったわたしは、適当に着替えて食事の準備。わたしと、兄さんの分とふたりぶん――
栄養バランスなどを考えて作るけれど、ひとりで食べると砂を噛むかのような感覚で。
とりあえず食べている、という感じ。
だからひとりの時は、味なんて大して気にしていない。兄の分だけしっかり作ったりもする。
無感動に食事を済ませたころ、浴室からお湯が張り終わった、という合図のアラームが聞こえた。
一日まとっていたものたちを脱ぎ捨てて、洗面台の下の棚からハーブの入浴剤を取り出す。
浴室に入るなり、湯触にそれをばらまくと落ち着く香りが一瞬にして世界を満たす。
花弁も一緒に入っている、このハーブの入浴剤はわたしのお気に入り。
胸いっぱいに香りを吸い込むと、自然と心と体が緩んでいく。
ボディーソープを泡立てて体を洗いながら、こっちもハーブにしようかな、なんてふと思う。
体についた泡を洗い流していると、首筋の色が目にとまった。
すぐ曇る浴室の鏡にシャワーをかけながら、痕を見る。
薄くなりつつあるとはいえ、その他の部分と比べるとやはり目立つ。
痕、ではあるのだけれど依然痛みも痒みもない。
よくよく見ると、小さくくぼみがあるような気がする。
指でそっと痕をなぞると、少ししびれたような錯覚に襲われた。
これは本当になんなのかしら? と考えかけて、思考を取りやめる。
リラックスするときに考えるなんて、馬鹿みたい。
体の泡をすべて洗い流すと、わたしは湯船にゆっくりと身を浸す。
まばらに浮かぶ花を指先でもてあそぶと、香りが指へと瞬く間に移る。
少し強くなった香りにくらくらしながら、とりとめのないことを考えてみる。
明日の晩ごはんは、何にしようかしら。兄さんの好きなものばかりにしてみる?
それとも、こっそり苦手な食材も混ぜてみちゃおうかしら。
明日の夜はどの本を読もう。図書館で借りてくるのも悪くない。
つらつらと考えてみたものの、たいしたことは浮かんでこない。ぼうっとしている。
なんだか、自分自身がつまらない人間のような気分になってしまった。
――我ながら、気が沈みやすいと思う。
こんな風に、後ろ向きに考えるようになったのは何時からだろうか?
覚えている限りの記憶を辿るものの、しっくりとはこない。
どちらかといえば、思い出したくない記憶のほうが多いので、頭が痛くなる。
世間の目、親戚のうわさ話というのははた迷惑なものだ。
考え事をしながらだろうか、少し長く浸かりすぎたらしい。
視界がゆるくぼやけはじめていた。
頭を軽く降って、ゆっくりと立ち上がる。
ドアから半身乗り出して、外に用意しておいたバスタオルを巻きつける。
温度差に身震いしてから、浴室を後にした。
髪をしっかりと乾かして、ベッドに入ったのはいいものの……
体が温まりすぎてしまったのか、わたしはなかなか寝付けずにいた。
ベッドの中で右に左に寝返りをうっては、真っ暗な天井を見つめる――
なに、この不毛な時間。
もぞもぞと身動きを繰り返していると、ベランダの方から物音が聞こえた。
まさか、と毛布からそろりと顔を出して、暗い部屋の中を見渡す。
暗闇の中に、赤を見つけて飛び起きる。ベッドサイドの明かりを手探りでつける。
黒衣の長身が、浮かび上がるようにして照らされた。
カーテンの影に紛れるかのように、佇んでいたのだろうか。
呼吸が浅くなるのを感じながら、わたしは尋ねた。
「あなたは、だれ、なの?」
ゆるり、と首が動いて、赤がよく見えるようになった。
「ヒトに名乗る名は持ち合わせていない。早く寝ろ」
「なによ、その言い方。わたしが起きてちゃ駄目みたいな言い方」
眠っていた方が手間が省ける、と男は答えた。
目をこらすとよく顔が見える気もするし、気を抜くと輪郭がぼやける気もする。
低く、夜そのものみたいに冷たい声。何を考えているのかまったくわからない。
わからない、のだけれど……夜に忍び込むわりには、ぎらついた感じもない。
「ベランダから飛び降りなんて信じられない。何しにきてるのよ」
「知る必要性が在るのか? 教える意味がない」
虚ろ。
やりとりに熱がない、赤い眼差しはこっちを向いてるくせに、見ていない。
的を得ない答えに少し、苛立つ。
「わたしはここの住人よ。どこの誰かも知らないあなたに勝手に部屋に入られてるのに、
知らなくていい、なんてことはないでしょう」
用がないのなら、さっさと帰ってちょうだい。
「気になって、眠れやしないのよ」
「そうか、ならば寝ろ。そうすれば俺の用も済む」
ぶっきらぼうないいかた。
綺麗な花にはトゲ、毒がというのはヒトの形をしてるものにも当てはまるらしい。
しっし、とわたしが手で追い払う仕草をすると、黒衣の男は微笑んで。
「なるほど。居なくなればいいのだな?」
綺麗な顔して、なんて笑い方。その言い方だと――わたしが眠った頃合いを見計らって。
「絶対戻ってくるつもりでしょう!? そのほうが物騒だわ! 用ってなに」
用があるなら済ませてどこかへいってほしい。
けれども男はいう。言って納得する内容ではない、と。
いいから言って、と眼差しに意思をのせて睨みつけてみた。
作り物みたいな顔が、ためいきをこぼして言葉を紡ぐ。
「要件はシンプルだ。お前の血が欲しい」
さらり、と滑らかに吐き出された言葉はとんでもないもので。
わたしが絶句していると、男は小首をかしげておどけた仕草。
けれども艶やかな笑みは、わたしの返事を待っている。
「どうした? お前が言えというから、俺の用件は伝えたが」
笑みが深くなる。ちらりと、かすかに牙のようなものが見えた。
犬歯、だったかあの位置は。でも、なぜあんなに尖っているのだろうか?
そうである必要がないから、人のものはあんなに鋭くないはずなのに。
男の言葉が頭の中を高速でぐるぐると回転する。
その、血を欲しがる病の人がいるというのは聞いたことがあるけれど。
こんな風に、人の家に入り込むものだろうか?
あぁ、瓶詰めにして集めるというわけでもないのだろうけれど。
「言葉がでないの、いきなりイエス、なんて誰がいうと思って……」
あぁ、そういえばそうだったな、と男が呟く。
一瞬、赤い眼差しが遠くを見やるような動きをした。今じゃない、どこか遠くの記憶。
「いっておくが俺は変質者やそういった病でもないぞ」
そういう風に、生まれついただけで、文句は定めにでも言え。
あざけるように話す男に、わたしは返答をする。もちろん、ノーの言葉を。
「まぁ、そうなるだろうな。だから手間がかかる……」
寝ていればよかったものを、という言葉が聞こえたのは、わたしのすぐ傍だった。
眼の前にいたものが、またたきの間に隣にいるなんて!
事実に驚き、体の血が音を立てて下がるのが感じられる。
口をぱくぱくとさせていると、白い手が、指が。
わたしの顔に向かって、滑らかな動きで近づいてくる。
はっきりと見えているのに、わたしは身動き一つとれない。
すぅっと眼の前で広げられた手は、視界に覆いかぶさってくる。
何事か。つぶやくように口が動いたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
視界が閉ざされる寸前まで、赤い瞳から目が話せなかった。
ひやり、と触れた感触と同時に急激に体が弛緩して、思考は眠気に塗りつぶされる。
また。また、眠りの間際に赤色が焼き付いた。
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