第2夜 宵の訪問者



翌日の天気は快晴で、運動をこなすのにはとてもよい日和だった。


体育の授業で気持ちよさそうにしながら体を動かす……


そんなクラスメイト達をわたしは眺めていた。


わたしは、運動は苦手だ。できることなら、授業に参加したくはない。


ただこの日はサボりたいと思う気分につられてか、体調が最悪で。


今朝から貧血がひどく、学校までふらふらな状態でたどり着いた。


授業に参加できそうもないので、見学という形で見逃してもらっているのだった。


おかしいわね。昨晩はしっかりと食べたし、体調だって問題なかったはずなのに。


自分って実は虚弱だったのかしら、なんてちらほら考えつつ、動き回るクラスメイトを眺める。


人工的に染められた、太陽や月の色を模した髪が陽の光を反射して、きらめく。


それをまぶしいと感じつつも、少し羨ましいと感じる自分がいた。


色を変えてみたいな、と思うことがあるのだけれど、わたしがやったら先生に激怒されるだろう。


模範的な生徒であるあなたが、いったいどうして? と。


艶のある黒髪を、指に巻き付けてもてあそぶ。きれいだね、とうらやましがられたこともある。


自分でも、少し気に入っているけれど。同時に、もっと変わった髪色だったら、と思うこともある。


色素が薄いとか、あるいは非現実的な色であるとか――普通、でないものに憧れる。


憧れながらも、自分からは動けないくせに、ね。


だって、髪の色が変わったくらいじゃ、わたしは変わらない。


どうあがいたって、わたしはわたしであるしかないのだから。


学校に反発して色を変えたところで、後に待っているのは面倒事と、兄への迷惑だけ。


いえ、兄さんなら、似合っているな、と言ってくれそうで恐ろしい。


蒸し暑い陽気の中で、ジャージの襟が立っているか確認をする。


隠している首筋には、まだ消えない赤い痕。心なしか、色が濃くなっているようにさえ見えた。


いっそ絆創膏でも貼ろうとしたが、見えた後が余計な話に繋がりそうで。


動き回るクラスメイトから視線を外して、空を見やる――


青いはずの空に、赤色が浮かんでいるように見えてはっとする。



昨晩の出来事はいったい、なんだったのだろうか。


眠りから覚めたあと、わたしの部屋はいつもどうりで、ひとりきりだった。


そもそも、わたしの部屋は二階で戸締まりはしていたのに。誰かが、入ってきたの?


あの色。赤い色がまだまぶたを閉じると焼き付いている……きれいな赤色。


兄に相談しようかと思ったが、わたしの気の所為なら大事にはしたくなかった。


赤い目、だなんて珍しい。誰かがいたの、あんな夜更けの女の子の部屋に?


わたしを迎えにきた死神にしたって、くるのが遅すぎるわ。


あぁ、色だけじゃなくて、指先も美しかったような……なんて馬鹿らしいことを考え始めたころ。


授業の終わりをつげる、甲高いホイッスルの音が耳に響いた。


この後もしばらく勉強が続くとおもうと、うんざりとした気分になる。


騒がしい人たちを横目に、そっと教室へと私は戻った――



その後も貧血による体調不良は尾を引いて。


午後の授業中もふわふわと意識が浮ついていたし、集中だってぜんぜんできなくて。


授業が終わった後、通っている塾の講義でも全然だめだった。


講師にやんわりと注意され、いくつかの難しい問題を解かされた。


塾が終わってもしばらく動けずに、外に出たのは夜八時ごろ。


普段は人通りが多い帰り道も、影を潜めたかのように静かだった。


設置された街灯の照らす光で、かろうじて眼の前が見える。


寂しいような、ほっと落ち着くような妙な気分のまま歩いていると。


ひとり、男性が前から静かに歩いてきた……なんとはなしにその人を見て、足が止まった。


黒いインバネスコート。ゆったりとした布の動きと、すっとした立ち振舞い。


街灯に照らされて浮かび上がる姿。見上げた容姿が整っていて、驚いた。


それに、その人の目……深く鮮やかな紅色をしていて。肌の白さと相まってどこか作りものめいて。


長い黒髪がさらりと背に流されている様をみて、外国の人かしらと思った。


暗闇の中なのに、溶け込むかのように綺麗。


足を止めて見惚れていると、わたしの少し前で彼は足を止めた。


「――――何か?」


すっと入り込んでくるような声にはっとする。


「あ!えっと、なんでもないですごめんなさい、じろじろみて。綺麗だったからつい……」


初対面の人に失礼な言葉をこぼすと、返ってきた言葉は。


『………………――――綺麗、だと?」


いぶかしそうな顔をしながら、ゆるく首をかしげる。


その姿さえも美しいと感じて。今日のわたし、どうかしてるわ、完全に不審者だわ。


その場を去ろうとわたしの足が動くよりも早く、男性のほうが早かった。


赤い瞳で一瞥すると、また静かに歩いていってしまった。



わたし、かなり失礼なことをしたような……気がする。


でも足を止めるほどには、綺麗だったのだ。かっこいい、より美しい。


夜の似合う人だな、と思った。黒づくめの服装のせいかもしれない。


つらつらと考えながら、止めていた足を動かす、さきほどよりも少し早く。


ほどなく無人の我が家へとたどり着いた。



「ただいま」



当然返答はない。兄さんが帰ってきていないのだから、あたりまえ。


きっと仕事で遅くなるのね。


自室に向かってから着替える。


そのままベッドに飛び込みたい気持ちをこらえつつまずはお風呂。


手早く済ませて、家にある食材で適当に夕食を準備する。


その最中に、律儀にも兄さんから遅くなるからという連絡がはいった。


まだしばらく先だろうけれど、兄さんの分の夕食も準備しておいた。


ひとりきりで済ます夕食は、ひどく味気なく感じた。


食事を詰め込んでから、自分の部屋に戻る。


兄さん、早く帰ってこないかしら……


ひとり、が早く終わればいいなと考えていたら、ベッドのサイドテーブルの写真立てに目が行く。


ひとつは、兄とツーショットで写っている写真。


恥ずかしいのかなんなのか、なかなか一緒に写真に写ってくれなかったのよね。


一緒の写真くらい、いいじゃないと説得したのを覚えている。


思わず、思い出してほほがゆるんだ。


思い出の写真を置いて、ひとつ深呼吸する。


次にわたしは、隣にある写真立てを手に取った。


これは家族で旅行にいったときのもの。まだわたしが小さいころの写真で。


写真には、部分的にシミが付着している。


色々な方法を試してみたけれど、乾いた人の血液はきれいには消せなかった。


この写真を見ていると、あの光景を鮮明に思い出す。


どうしてわたしだけが残されてしまったのだろうか。


いっそ、ショックのあまり記憶喪失にでもなっていたほうが楽なのだろうか?


暖かな、両親を否定してしまうことになるけれど。


本当に忘れて、ひとりきりなんていや。わたしは臆病だから。


もうこの感覚を誰にも共有できない、祖母もいってしまった。


まだ割り切れずに、わたしの時間は止まったまま――


写真立てをおいてまぶたを閉じると、赤い色が透けて見えた。


父さんと母さんのいないこの世界で。


わたしは、どうやって生きていくべきなのかわからないの。


誰か、わたしを連れ出して――なんて、先のない幻想ね。


一気に沈み込んだ気持ちを、どうにかしたくて。


わたしはまた、アリスの物語に手を伸ばした。


不思議の国のアリス、鏡の国のアリスに地下の国のアリス――


大筋の話は同じだけれど、翻訳者の違うものをいくつかそろえてある。


物語の伝え方が、ひとによって違って面白いから。ついつい集めてしまったのよね。


非現実的な世界を、ひどくうらやましく思う。


きっと砂糖菓子ばかりでなくて、毒入りの果実もあるでしょうに。


アリスの物語に溺れていると、階下からドアの鍵が開く音がして。


ただいま、とかすかに聞こえた。


兄さんが帰ってきたんだわ。


「晩御飯、作ってあるわ粗末だけど……おかえりなさい」


自然と顔がほころぶ。ひとりじゃないというのは素敵だ。


ありがとう、という兄に、わたしは先日のことを謝罪した。


「そういえば、昨日は本当にごめんなさい。兄さん、早く帰ってくると思わなくて……」


「もう体調は大丈夫なのか? 顔色はまだいまいちだが……」


大丈夫よ、とわたしは微笑んで伝える。血の気がないくらい、なんてことはない。


でも、明日も学校だから早めに寝るね、と伝えて部屋へと戻った。


兄が帰ってきて安心したのだろうか。急に眠くなってしまった。


うまく思考が回らない頭で、部屋の戸締りをチェックする。


ベランダのカギをチェックして、カーテンを閉めようとしたときだった――


向こう側。ガラスの向こうに赤い色がふたつ見えた気がして。


体が勝手に動いていた。かけた鍵を外して、ベランダの扉を勢いよく開けた!


なんでどうして、というよりも先に目を奪われる姿。


彫りが深く、白い透き通るような肌――ふたつの、綺麗な赤色。


帰り道でみた人そのものが、目の前に立っていて。


驚き過ぎて、数歩後ろによろけてから座り込んだ。


部屋の明かりのせいか、相手の顔がよく見える……


驚いたような、少し困ったような表情?


驚いたのはこっちだけれど、その顔すらも美しく感じる。


ゆらり、とインバネスが翻ったように感じた刹那。


ほんとうに、彼は身を翻してベランダから飛び降りた。


「ちょっと……嘘でしょ!? ここ、二階なのよ……っ!」


驚きも吹き飛び、慌ててベランダに駆け寄り外を見る。


男性が今しがた飛び降りたはずの下には、誰の姿もなくてただ夜があるだけだった。


あのひと、すごい勢いで飛び降りたのに。何処にもいない?


あぁ、そもそも、なんでここにいたの? いったい何をしに来たのかしら。


頭の中をぐるぐるさせていると。


「どうかしたのか、澪? 大きな声を出して」


「ごめんなさい。ちょっと、黒光りする虫がいて……びっくりしちゃったのよ」


部屋越しにかけられた兄の声に、答える。


虫どころではないのだけれど、兄さんにいったらダメ。仕事で疲れているのだし。


「そうか。あまり夜更かしせずに、ちゃんと寝るんだぞ?」


そういって兄さんの足音は遠ざかっていった。


くらくらとした眩暈を覚えながら、今度こそ戸締りをきちんとする。


警察に通報もなにも、どこの誰かもわからないし、黒づくめの男性というだけ。


わたしに実害はでてないし、何かしてくれるとは思えない――


落ち着かない気持ちのまま、ベッドにもぐりこむ。


なんで。


なんで、わたし、怖い……と感じないのかしら。


疲れてくると、精神的に沈むと感情がマヒしてくるものなのだろうか。


綺麗、と感じるなんて。不審者を見て綺麗というわたしは、おかしい人だ。


また明日……会ってしまったら、どうしよう。


何をしにきているのか問いただす? それともその場で通報でもする?


どうしたいのかわからないまま、眠りへと意識を沈めた。

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