第39話 エピローグ
エマは執務室にいた。二週間前にシェラシアの王都にいるアンリから手紙が届き、王都からアデニシャンとローゼンを経て、ガルデニアに来ると書いてあった。
王都からアデニシャンまで5日、アデニシャンの滞在は数日、アデニシャンからローゼンまで1日、ローゼンの滞在は数日、ローゼンからここまで4日。アデニシャンとローゼンに2日ずつ滞在ならそろそろ到着する頃だろうか。
ー シェラシアの馬なら、もっと早い?馬を替えるなら、もっと早い? アデニシャンとローゼンには何日いるのかしら。アデニシャンを出るときにでも、知らせてくれたら、こんなにやきもきしないのに…
数日前から、見立てよりも早かった場合を考え、エマは毎日そわそわしていて、待ちくたびれてもいる。
どの服を着ようか、どんな風に髪を結おうか、自分でも呆れるほど悩んでいる。それがもう4日続いた。侍女も毎日一喜一憂するエマを励まし、髪を結ってくれた。毎晩髪を解くたびに、侍女が明日こそはと励ましてくれることに申し訳なさを感じ、5日目の今日は髪を結い上げず、服も普段着にした。
ここ数日、時間があれば、高台にある領館の窓からシエンタから領都へ続く道を眺めていたが、それもやめようと思った。途中に立ち寄る街が二つもあって、滞在日数がわからないのだから、道を眺めていても見つかる可能性の方はないに等しい。
そうは思ってはいても、足は勝手に窓辺に向かってしまい、その度に仕方なく、窓を開けたり、閉めたり、窓辺の花瓶の向きを整えたり、細々したことをして、気を紛らせた。
そんな風に、習慣のようにエマが窓辺に近づいたとき、窓に何かがぶつかる音がした。
シエンタでトゥルバドゥールがエマのいるバルコニーに小石を投げたのを思い出し、バルコニーに出る。
すると、窓のすぐ近くにコマドリが横たわっている。
「…あなたが、窓にぶつかったの?」
オレンジとグレーのコマドリの色は、トゥルバドゥールの髪と瞳の色と同じで、まるでトゥルバドゥールが現れたように思えた。エマは、しゃがんでコマドリに話しかけた。
「ぶつかって、気絶してるのね。窓に映り込んだ青空に惑わされたのかしらね。 早く元気になってね… 私の待ち人によく似た小鳥さん…」
しばらくコマドリを眺めた後、部屋に戻ろうとエマが、立ち上がり振り返ると、すぐ後ろに、立っている人がいる。
「… トゥルバドゥール…」
エマは、その人物が微笑むのを確かめると、両腕を彼の首に回して、飛びついた。
アンリは、驚きながらも、エマの背中に手を回し、遠慮がちにそっと抱きしめた。
「… ただいま。」
「おかえりなさい。アンリ・イザク・ドランジュ…」
「… 僕の名前、忘れてしまったのかと思ったよ。」
「… 忘れるわけないわ。ずっと待ってたの。」
「…ゴホン」
開け放していた扉の方から、わざとらしい咳払いが聞こえる。
エマが、アンリの肩越しにそちらを見ると、廊下にギヨームが仁王立ちしている。
アンリが遠慮がちにしていたのは、後ろでギヨームが見ているのを知っていたからだ。
「… お兄様…」
「エマ、アンリ殿、節度をね。」
兄はそう言って立ち去った。
そうは言われても、エマもアンリも、すぐに離れることができず、しばらく互いに顔を埋め、肩や背中のぬくもりを確かめ合う。
エマの頭にアンリの頬が寄せられ、エマの鼓動は速くなるが、それでも離れ難い。
「このくらいにしておく?」
いつもの少しおどけた調子でアンリが言う。
「…そうね。このくらいに、ね。」
エマはアンリに預けた重心をゆっくりと自分に戻す。
「シエンタできみからもらった口づけのお返しがしたいんだけど…」
エマは驚き、アンリの肩に手を置き、突っ張った。
「あ、あれは、一か月会えないと思って! 口づけは、まだ、は、早いわ!!」
エマはいそいそとアンリから離れようとするが、アンリはエマの手を掴んで離さない。
「じゃあ、二か月会えない、と思ったら、もう少し大胆なご褒美がある?」
アンリがにんまりしている。
「二か月も会えないなら、私にも考えがあるわ。」
「それは?」
「内緒よ。私ね、じっと待っているのは得意じゃないってわかったもの。」
エマは、照れ隠しに、開け放した窓からバルコニーに出て、長椅子に腰掛ける。
「何から、話そうか… エマは何を聞きたい?」
並んで腰掛け、晴れた秋空を眺めながらアンリは言った。
「ホテルの庭園で会った日、あれが私たちの始まりだった?」
唐突な質問だが、突き詰めていった結果、これがエマの一番の疑問だった。
アンリは、少し間を置いて答える。
「始まり、と言えば始まりだけど… きみは、そのことに、納得してないよね、ずっと。」
エマは頷く。
「パーティーのバルコニーでも尋ねたわ。あなたは私と話したい、と言って現れたけど、それが腑に落ちてない。」
好ましいと思うのに理由はない、とアンリは繰り返し答えた。だが、エマは好ましいと感じるまでの時間が短すぎではないか、という疑問が拭いきれなかったのだ。
アンリは、庭をぼんやり眺めながら話し始めた。
「昔話から話すと、僕は、まあ、何でも卒なくこなす子どもでさ、領地や、王都でちやほやされて育った自信家だった。
そんな僕は、10年前、ここできみに会ったんだ。兄がギヨームを訪ねるのについてきた。僕が12才、きみは8歳。僕は兄たちの会話に混じっていて、子どものきみやユージェニー嬢とは違って大人なんだ、と誇らしく思っていた。」
エマは、ジェニーが話していた『繊細そうな、頭でっかち』のアンリを思い浮かべる。
「そんなところへさ、きみは、腕いっぱいに書類を抱えてやってきたんだ。きみがギヨームに一生懸命話す内容を聞いていたら、領政の話さ。8歳の女の子が。ものすごく驚いた。それが、最初の出会い。」
「私、あなたに会ったこと、覚えてないの。ごめんなさい。生意気な子どもだったのね… 」
聞いていて恥ずかしい。アンリもジェニーの当時の彼に対する酷評を聞いたら、二度と思い出さないで欲しいと思うだろうが、エマにとっても同じだ。
「生意気だから、気になってしょうがなかった。4歳も年下には、思えなかったよ。僕が幼かったのか、きみが大人びていたのか… どちらもだろうけど。」
「その後の僕の人生の中に、きみは度々登場した。シェラシア王都にいる時も。シエンタ郊外に温泉が湧いた、とか、ドポム領都で新しい機織技術ができた、とか、シエンタの衛生対策が画期的であるとか。気になって調べてみると必ずきみの名前がある。」
エマ自身がやったわけではない。それに投資するよう父や兄に頼んだり、施策案を意見しただけで、名前が表に出ていたことのほうが驚きだ。
「憧れとか、妬みとか、競争心とか、いろいろ混じっていたんだと思う。」
ガルデニアの田舎から出ず、王都で社交をしないエマには、同じ年頃の友だちらしい友だちはおらず、ジェニーが友だちのようなものだ。社交界の噂話は、ジェニーは知っていてもエマに話すことはなかったため、アンリの言うような感情を人に向けたことがない。
「ドランジュの家を出て、6年間の寄宿学校を卒業した後の進路は、近衛に属して、諜報の仕事についた。街道に関わる情報を聞いたとき、これは巡り合わせだな、と思って志願した。大人になったきみと一度、会って話してみたい、これは僕がきみに会う前から思っていたことなんだ。」
ようやく、アンリはエマの方を向き、笑顔を見せた。
「その後は、きみの知っている通り。きみに会って一目で恋に落ちた平凡な男。10年のいろんな思いは、恋っていう一言で上書きされた。」
膝の上に置いていたエマの手に、アンリの手がそっと触れる。
「美しく聡明でお転婆な、きみが居てくれたら、僕の心は満たされる、きみに恥ずかしくない自分でありたいと頑張れる、そう思ってる。」
エマは、アンリの手をほどいて、握りしめ直し、自分の膝にぶつける。
「なんて言っていいかわからないけど、買い被られた私の情報で、あなたの心を乱していたなら、ごめんなさい。」
「うん。いいんだ、それは。僕の勝手だし、それが頑張る原動力でもあった。むしろ、感謝してる。」
「ますます、なんて言ったらいいかわからないわ。」
「そう言われると思ってたよ。僕が一方的に、きみのことばかり考えて妄想してた、って話なんだから… で、なんで僕の手をきみの足にぶつけてるの?」
「… なんて言えばいいかわからないのよ。この気持ち、表現できない… 」
アンリは声をあげて笑う。
「本当に、この話はさ、僕の不甲斐なさが露呈するだけだから、黙っておきたかったんだよ。少しでも、きみの前ではかっこよくありたいんだから、僕は。」
「… 充分、かっこいいし、素敵だから… 少しぐらい、かっこ悪いところがないと、私が引け目を感じそう…」
なされるがままだったアンリの手は、エマの手を握り直して、その動きを止める。
「じゃあ、これからの話をしよう。」
エマは頷く。
「僕は、シエンタの一件で、シェラシアの新年の祝賀会で騎士爵を賜る予定。これからのガルデニアでの働き次第で、兄からローゼン地方を任される。そうしたら、伯爵位も間違いない。」
「おめでとう!」
エマは、アンリの首にしがみつく。今度はアンリも躊躇いなく抱きしめ返す。
「ローゼンなら、きみが楽しめる仕事がたくさんある。シエンタとローゼンの協力が必要な施策だって、きみがローゼンにいたら話が早い。ガルデニアとも隣合わせで家族とも会えない距離じゃない。どう? これが僕からきみへの一番の提案。こんなに、きみにとって条件のいい男は、僕以外にはいないと思わない?」
エマはがばりと離れ、アンリの両肩を手で掴む。
「!! 打算的じゃない?!それ!」
アンリはニヤリとする。
「そうだよ。ふわふわした恋心だけじゃ決められないきみには、こういう現実的で、わかりやすい未来が必要だろ?」
エマは、テーブルに突っ伏した。返す言葉が見つからないのだ。
突っ伏した視線の先、テーブルの天板の隙間に、オレンジ色が動くのが見える。
「あ、コマドリ…」
先ほど、脳震盪を起こしていたコマドリは、翼をバタつかせ、ひょこひょこと歩き始めていた。コマドリの足取りを見つめるために、エマは椅子から降り、しゃがみ込む。
「鳥が窓にぶつかるのは、転機が訪れる予兆だと言うよね?」
「ええ。このコマドリ、まるでトゥルバドゥールみたい、と思ったの。あなたが現れて、私の人生は大きく変わってゆくのね、きっと。」
アンリもエマの隣にしゃがみ、コマドリを見つめる。
「そうだね。僕がきみの心の窓にぶつかって行ったから?」
「うん。」
「きみの心を動かせて、良かった… 僕は、きみの瞳に惑わされっぱなしだ。」
どちらからともなく、肩を寄せ合い、そのぬくもりを分け合った。
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