第15話 Day3 パン屋の稼ぎ時
翌日、二日目の薔薇が届き、ジェニーは大騒ぎだった。
「これは、やっぱり、5日間続くわね。6日目、ちょうど式典の日ね。ふふ。ロマンティック。」
「エマ、今日の午後も商工会?」
「ええ。昨日、話し足りなかったことがあって。」
ジェニーには、今日の午後、お忍びでトゥルバドゥールと会うことは内緒にしている。
「そう。時間があれば、シエンタの市場に一緒に行きたかったんだけれど。」
姉に隠し事をするときは、喋り過ぎない、これに尽きる。
「行くの?」
「エマが行かないなら、私はラウンジでお喋りでもしてるわ。夕食は一緒にね。」
ジェニーはひらひらと手を振ってエマの部屋から出て行った。
昨夜、トゥルバドゥールは会いに来た。到着した日に庭園で。ウェルカムパーティーのテラスで。そして昨夜は、バルコニーで。3日間毎日彼と会っている。話をしたのは、たったの二回。理由を考えるなんて、意味がない、と彼は言うが、こんなに、
ー でも、私も、おかしい。気持ちがふわふわしている。これこそ、腑に落ちないわ。これが、恋なの?
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きみの御心までいくばくか
きみの御手までいくばくか
月夜に煌めく煙水晶は
求め彷徨う道標かな
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ー 月夜に煌めく煙水晶… アンクレットへの口づけを思い出してしまう。いくばくもない。あなたは、私の心に入り込んでいる。
エマは、生成りのワンピースに麦わら帽を被り、大通りのベンチに座って待つ。
時間より少し遅れたが、まだトゥルバドゥールの姿はない。日差しが強く、広場の白い敷石に反射して眩しい。光を避けるように視線を落としたとき、目の前に陰ができた。
「姫! おはよう!」
「あ、ご機嫌よう! トゥルバドゥールは、今朝は遅かったの?」
トゥルバドゥールが隣に腰掛ける。お洒落な商家の青年風でも、高位貴族風の正装でもなく、完全な庶民服だ。エマとよく釣り合っている。
ー どんな服でも、笑顔が眩しいなあ。
「まあね。」
トゥルバドゥールは、互いの帽子のツバがぶつからないよう、ゆっくりとエマの耳元に口を寄せ、
「今日は、喋り方もね…頼むよ。」
と言う。
ー 不意打ちは、困る! 顔、赤くなるじゃない! ツバとツバを避ける動きが、これからキスでもするみたいな感じだったじゃない?!
「お腹は減った? 食堂に行く?」
「姫は?」
「あ、姫は良くないんじゃない? 名前でいいわよ。よくある名前だから。エマ、と呼んで。あなたの名前は尋ねないから。」
「エマ。 素敵な名前だね。あぁ、エマ。」
エマと呼びながら、トゥルバドゥールは、にんまりしている。愛情表現も、庶民仕立てか。
「約束の食堂に行こう。」
「俺は、腹ペコだから、肉ね。」
「オレ?!」
ー 言葉遣いも、貴族みたいだったり、将校みたいだったり、庶民みたいだったり、自由自在?!
「そう。商家の小間使いのジャン、これが、今日の俺。きみは、そうだなあ。ジャンに恋してるパン屋見習いのエマ、かな?」
「なんで、私は見習いなのよ!」
ー え?ジャンに恋するエマを演じる? どうやって?
「ジャン、行くわよ。お肉、食べるんでしょ。」
「はい、エマ」
トゥルバドゥールが、腕を差し出す。
エマは、そっと右手をトゥルバドゥールの腕に添える。
「違う違う。パン屋見習いのエマは、エスコートされないよ。」
「エスコートと腕を組むのって違う?」
「ちょっと違う。見てみて、向こうの夫婦。」
トゥルバドゥールが言う夫婦を見ると、確かにエスコートよりも近く寄り添って歩いているように見えるし、女性は手は添えるだけというよりも、もっと深く腕に絡ませている。
「あ、距離感?」
「難しかったら、手を繋ぐ、でも?」
「… 腕を組む、にする。手を繋ぐのは、、もうちょっと小間使いのジャンが私を惚れさせてから!」
「あ! 少しは俺に惚れてくれてる?」
「じゃなきゃ、来ないわよ!パン屋だって稼ぎどきの時間!」
二人は笑いながらゆっくりと歩き始めた。
昼時とあって、食堂は大賑わいだ。空いていたカウンターの端に腰掛ける。
トゥルバドゥールは、エマを隠すように、他の客たちに背を向け、エマの方を向いて座る。
二人で黒板のメニューを眺めていると、ちょうど席を立った客が、トゥルバドゥールに声を掛けた。
「窓際のテーブル、空いたぞ… おやおや…まあまあ。若い人の密会には、カウンターの方がよろしいでしょうな!」
身なりの良い小太りの男は、後半は小声でニヤつきながら言い、返事も聞かずに去って行った。
「知り合い?」
トゥルバドゥールは問う。
「シェラシアの有名な商人のニーレイ氏よね。あなたのことも知ってる風じゃなかった?」
「いや? きみが有名人だから、
「
「全然、変装になってないなぁ。その美しさは、隠しようがないか…」
トゥルバドゥールは、シエンタ風仔牛のトマト煮込み、エマはトマトソースの冷製スープパスタを注文する。
「なかなか挑戦するね?」
「何が?」
エマは隣に座るトゥルバドゥールを見つめる。
「トマトソースのスープパスタだよ。その生成りのワンピースが赤い水玉にならないといい。」
「… 大丈夫。自信あるの。夏にこの店に来ると、いつもコレを頼んでるから。」
大衆食堂には大きなナプキンも置いていないし、服にナプキンを掛けて食べる客もいないから、心配しているのだろうか。
「そんなに、美味しいの?」
「酸味が夏の食欲のないときにピッタリなの。」
「じゃあ、僕も次に来るときは、それにする。」
「そうしてみて。でも冷製は夏だけよ。」
結局、トゥルバドゥールは、エマのパスタ
エマの方は、トゥルバドゥールと一緒にいるだけでお腹がいっぱいになってしまったからちょうど良かった。
「そんなに気に入るとは…」
「いや、本当に美味い。これなら、毎回注文する。足りないから、仔牛も頼むけどね。」
「仔牛もいいけど、若鶏のハーブグリルもいいわよ。」
エマは、自分の好きな店、好きなメニューを気に入って貰えて上機嫌だ。
「また、一緒に来よう。季節のおすすめメニューは、きみがいないと頼めない。」
食後にコーヒーを飲みながら、トゥルバドゥールはエマに微笑みかける。
「そうね。冬は煮込み料理も増えるしね。」
ー
「あ、水玉…」
エマがトゥルバドゥールのシャツの胸元に飛んだ小さな赤いシミを見つける。
「うーん。僕がやってしまったか… 目立つ?」
「私は気にしないわよ。」
ー これが高位貴族のお坊ちゃんとの格式ばったディナーでのことだったら、幻滅するところだったかしら。
「後で、市場できみが僕に似合うシャツを探してくれる?素敵なレディと一緒なのに、格好悪いままじゃね。」
気取らないトゥルバドゥールの笑顔を見ていると、これがどんな正餐でも、可愛らしいと思ってしまうような気がする。
「そうね。パン屋の見習いが買えるシャツでも探しに行きましょうか!」
食堂を出るとき、二人は自然と手を繋いで歩き始めた。
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