第9話 Day1 花火



 姉がいると思い、振り返った先にいたのは、琥珀の髪の青年だった。彼は、持っていた二つのシャンパングラスをテーブルに置くと、エマの手から本を抜き取り、キャンドルを少し遠ざける。

 突然のことに、何を言ったらよいのかわからない。



「燭を背けては共に憐れむ深夜の月 せっかくの夜に、本はもったいない。」

「…は、…花を踏んでは…」

 声が掠れる。


 - ポンコツ姉! あの詩、意訳しか教えてくれないから、答えられないわ。



「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春 こちらに、ご一緒しても?」


 エマは、頷く。


 - 話してみたかった。会いたかった。なのに、何を話せば?


 彼は真正面ではなく、斜め向かいぐらいの場所に椅子を置き直して腰掛けた。


「これは、ラトゥリアで最近編纂された詩集ですね?」

「ご、ご存じですの?」

 青年は、エマの本をパラパラとめくり、また閉じてエマの手に戻す。

「ええ。今の詩、この詩集の最後に、編者が紹介していますよね?東方の国の詩だとか。」

「私、まだ読み始めたばかりで、そこまでは…」



 探さないと決めていた琥珀の髪。瞳の色は灰色がかったブラウンだった。昨日は、強い視線だと感じた瞳は、思った以上に優しい。正装は薄い灰色だ。


 ー 顔を忘れていた? 忘れてなかったわ。私こそポンコツ!詩を暗誦しながらの登場? ロマンティック過ぎない?商家なんかじゃない! 洒落者の高位貴族よ。私とは住む世界が違う…




「なのに、次の句をお応えになった?」

「ええ。姉が暗誦してくれたのを覚えていました。」

 ー 暗誦できたことにしておこう。姉の名誉のために。


「詩はお好きですか?」

「ええ、詩は好きですが、それほどは詳しくは…」

 ー きっと、知識量が違う… 階級も違う… 下手なことは言えない… こういう時に、社交慣れしてないことが仇になるわ…



 彼は、シャンパングラスをエマに手渡し、もう一つを自分の口に運ぶ。

「私のことを警戒していますね?」


「そ、それは、当然です。存じ上げない殿方です。今日の招待客のリストにもありません。どなたかの招待状で入場されたのかもしれませんが、ホストである私はあなたとご挨拶していません。それに、あなたのは、護衛の方が着るようなお召し物でもありませんから、身分の高いあなたがここにいらっしゃるのは違和感があります。」

 エマは一気にまくし立てた。胸のざわつきは、違和感のせいにしたい。鼓動が速くなるのを悟られたくない。


 彼は、相好を崩した。

「よく観察された回答ですね。 仰る通り、私は、あなたにお会いしたくて、ここに忍び込んでいます。昨夕は逃げられてしまったし。」

 エマを揶揄うような、眼差しを向ける。


「でも、私の望むことは、あなたと楽しく会話をすること、それだけです。できれば、、あなたさえ良ければ、この後の花火をあなたの隣で眺めたい。」


 エマは、早鐘のように打っている心臓を落ち着かせたくて、ゆっくり息を吸って吐く。

「なぜ?私と話を?」

 ー 私は、彼の興味を引くようなことをした?

 しっかりしたいのに、手も足も震える。息もしづらい。気を抜いたら、歯がガチガチと鳴ってしまいそうな震えを感じる。



「好きになる気持ち、愛でたいと思う気持ちに理由はないと思います。後から取ってつけた理由ならばお話ししますが。」

「え?」



 エマがその瞳を見つめると、優しく、どこかいたずらっぽい笑みが返される。


「たとえば、あなたの美しい髪や瞳が好ましい、とか。才気溢れる会話に虜にならないわけがない、とか。あなたの笑顔を思い浮かべると幸せな気持ちになってその頬に触れてみたくなる、とか…」

「ちょ、ちょっと待って!理由はもう結構です! そんな風にお考えになるほど、私たち、会ってないし、喋ってもいないわ!」


 彼は、ますます楽しそうに笑う。

「いいね! 普段の感じで喋って。 私は、正しくあなたの身分も名前も、知らない。あなたも、私を知らない。それなら、もっと気楽に喋ろう。もしかしたら、僕はきみより年下の平民かもしれない。きみはもしかしたら、僕の知らない国の王女かもしれない。でも、知らなかったなら、そんなことを気にする必要はないよね?」


 エマは、彼から受け取ったシャンパンに口をつける。気持ちを落ち着かせるために、それが必要だ。


「素敵な提案だけど、少しおかしいわ。私は、自分をホストだと言ったし、あなたは私がどの国のどの領地の貴族の娘か知っている。王女であるはずがないのも知ってて言ってる。」

「うん。その賢さが好き。警戒してる、と言ったのに、僕の持ってきたワインに口をつける、ちょっと危なっかしいところも、僕が守ってあげたくなる。」


 エマは赤面した。そうだ、これは彼が持ってきたグラスだ。迂闊だ。


「手が震えているね…」

 グラスを見ると、泡の下で黄金色のシャンパンが小刻みに揺れている。

 エマのグラスを持つ手を彼の手が包み込む。

「怖がらないで。」


「大丈夫。きみの生きている世界の常識の中で、きみを貶めるようなことは決してしない。危ない目にも遭わせない。約束する。だから、僕と一緒にいる時間を楽しんでよ。」

 夏だというのに、いつの間にか冷たくなっていたエマの指に、彼の手の温もりが移ってきて、忘れかけていた呼吸が戻ってくる。


「…わかった。 でも、あまり長い時間、2人でテーブルを囲んでいるのは困るわ。」

「じゃあ、、そうだなあ。花火を待つ人混みに紛れるのは? 足は疲れてない?」

「なんで知ってるの?!」


 エマが、打ち解けてきたからか、彼も大きく口を開けて笑う。


 ー 美丈夫すぎて、眩しい…


「僕は姫を眺めるのが大好きだからね。 そうそう、きみのお姉さんは、僕ときみが話をしてるのを見て、笑顔で立ち去ったよ。安心して。」

「いつの間に! ねえ、あなたは私を姫と呼ぶの?私はあなたを何と呼べばいい?」

「そうだなぁ… トゥルバドゥール、は?」

「昔の吟遊詩人の騎士? わかった。トゥルバドゥール。じゃあ、花火を見に行きましょう。」


 エマは彼から差し出された腕を取る。ジャケットを着た彼の腕から温もりを感じると、鼓動なのか震えなのかわからないそれが少しずつ収まっていくように感じる。

 トゥルバドゥールのゆっくりとした歩みに導かれ、二人は人混みに紛れた。






 大きなテラスは、途中から階段状になっており、前方に上がる予定の花火に対し、視界を遮らないよう、数段置きに人が立っている。


 階段の踊り場部分には、婦人用と見られるスツールがまばらに置かれ、その側にはサイドテーブルもある。


 運良く、テラスの角のスツールが一つだけ空いている。一つしか空いていないから、誰も座っていないのだろう。トゥルバドゥールは、そのスツールにエマを腰掛けさせると、自分はその隣に立つ。


 彼のせいで脈が速くなり、呼吸さえしづらいのに、エスコートの手が離れた瞬間に、心細さを感じる。

 これから過ごす時間への不安と期待が入り混じり、スツールに腰掛けたまま、無意識の内にトゥルバドゥールの肘にそっと手を掛けた。


 トゥルバドゥールは、エマに微笑みかけ、エマの腰に手を回す。


「スツールから落ちそう?」

 優しい微笑みはいたずら顔に変わっている。

「違う… 」



「ねえ、姫、昨日、会った庭園だけど…」

「ええ。」

 エマは少し身構える。


「あの庭園、子どもの頃に来たときと随分変わったように思うんだけど、式典のため?」

「人が集まれるように整備し直したの。」

「薔薇が美しかった場所は残ってる?」

「同じ場所にはないわ。薔薇は、寿命が10年ぐらい。今までの薔薇の内、元気なものは、温室に植え替えをしているけれど…トゥルバドゥールはいつ頃薔薇を見たの?」

「もう10年ぐらい前かな。あの時の薔薇はもうないのか。」

 トゥルバドゥールは、少し寂しげに微笑む。


「うん。もしかしたら、私の屋敷に移植して残ってるかもしれない。庭園の薔薇は最盛期を過ぎたら、植え替えてしまう。でも、子どもの頃、植え替えで処分される薔薇がもったいなくて、持って帰ったの。うちの屋敷の薔薇は、長生きよ。手入れがいいんだと思うわ。」

「へえ。いつか、その薔薇に再会できたらいいな。」

「思い出の薔薇なのね。」

 エマは、トゥルバドゥールを見上げる。

「まあね。」

 トゥルバドゥールは、曖昧に微笑んだ。


 給仕から、二つワインを受け取ったトゥルバドゥールはエマに一つ渡す。

「ところで、昨日、きみは困っていた?」

「… 話が聞こえてた?」

 エマは返事に窮す。


「見ていてわかったのは、きみは姉君に老齢の男性を紹介されて、困惑。さらに、見るからに年下の少年が登場して、さらに困惑。少年は年増の女性はお断りという態度で、きみはそれに憤慨したが、笑顔で会話を続けた。どう?」

 トゥルバドゥールは得意気に微笑む。

「そんなに、こちらばかり見ていたの? てっきり本を読んでいたのだと思ったわ。」


 エマがムッとして見せると、彼は声をあげて笑う。

「その顔をあの礼儀のなってない少年に見せてやれば良かったのに。」

「それでは、無礼者同士お似合いになってしまうじゃない。」

 エマは、渡されたワインを一口飲む。


「それで? きみはどんな相手を探しているの?」

「それは、相談に乗ってくださるという意味? それとも、単なる野次馬の好奇心?」

「僕にチャンスがあるかどうか、聞いておきたい。」

 思わず、トゥルバドゥールを見上げる。


「お相手の問題ではなく、私自身の問題だから…」

「姫の心が動かされるかどうか?」

「心?」

「そう。」


 エマは、視線をシエンタの街全体をぼんやりと包む柔らかい灯りに目をやる。

「… 私は、今の生活が好き。」


「ガルデニアから離れたくない?」

「場所も人も、大切なの。」



 そして、最初の花火が打ち上がり、夜空に大きな花を咲かせた。

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