第17話 太公望

「よし! 来た!」

 竿ざおに感じた手ごたえに、俺は一気に糸を引き上げた――が。

 あらわになった糸の先には、何もかかっていなかった。手ごたえも、いつの間にか失せている。

「逃げられたか……」

 俺はがっくり肩を落としたが、気を取り直し、再び川に釣り糸を投げ込んだ。


 ここへ来て、十日がたった。

 焦りを捨てて、無理はせずに養生を続けたおかげか、怪我は順調に治りつつあった。

 うっかり左肩を大きく動かしたりすると痛みが走るものの、だるさや熱っぽさはすっかり抜けたようだった。

 怪我の具合を見た少年も、

「左肩に負担がかからぬように気を付け、激しい運動をひかえていれば、遠からず完治するでしょう」

 と言ってくれた。

 いくら養生のためでも、何もせずにいては退屈だし、体をなまらせたくない――というわけで、小屋の近くの川まで釣りに来たのだ。

 これならどうにか片腕でも出来るし、食膳しょくぜんも豊かになる。

 あの小屋は猟師小屋だとばかり思っていたが、釣り道具まであるところを見ると、狩りの合い間に漁もやっていたのだろう。俺も爺様からは、狩りだけでなく釣りも教わっていたから、小屋の持ち主に何となく親近感がわいた。


 空は晴れ、日差しも強くなってきた。日なたなら、じっとしていても汗がにじむに違いない。

 幸い、この川はすぐそばに木立ちが広がっているから、日陰になっている場所も多い。おまけに、川を渡って吹いてくる風がひんやりと心地よい。

 川べりでちょうど木陰になるような所に扁平へんぺいな岩があったので、俺はそこに陣取り、朝から釣り糸を垂れていた。

 かたわらに置いた魚籠びくの中に目をやると、小鮎こあゆが二匹、元気そうに動き回っている。

 釣り始めてから、すでに結構たっているはずだから、もう少し釣果ちょうかがあってもよさそうなものだが。出来ればもっと大きなのが欲しいところだ。


 川面かわもの所々に日が当たり、反射して、まばゆく輝いている。水は滔々とうとうと流れ、その音もまた、風景の一部となっていた。

 釣り糸の先をじっと見つめていると、己の腕が釣り竿の一部かのように、さらには自分自身が釣り竿と一体になったような感覚におちいっていく。

 現実の世界を抜け出し、ほんの少しだけ別の所に身を置いている――そんな独特の境地に入り込んでいた、その時。

 背後に、何者かの気配を感じた。


 感覚が、一気に現実に引き戻される。

 ここに来てから何日もたっているから、最近は、さすがにもう追っ手や落ち武者狩りも来ないだろうとたかをくくっていた。まさか、今頃になって――。

 俺は、向こうに悟られないように自然体を保ちつつ、いつでもすぐに動けるようにそっと身構えた。

 そして相手を確かめるべく、さり気ない動きで振り返ると――何のことはない。


 いつもの鹿だった。


「またおまえか……」

 何をしに来たのかと思ったが、鹿はただじっと、俺を見ているだけだった。

 その視線がどうにも――見張られているように感じてならない。

 少年のことは見守り、俺のことは見張っているのだろう、こいつは。牡鹿おじかなら、雌鹿めじかでも守っていればいいのに。

 俺は座って釣り竿を構えたまま、

「おまえの主人なら、今日はちょっと調子が悪いようだ。そっとしておいてやれよ」

 と言ってみたが、鹿の反応はない。

 俺は何とも言い難い居心地の悪さをどうにか無視し、釣りに意識を持っていった。

 すると、しばらくしたら鹿は不意に向きを変え、どこかへ去ってしまった。

「何だったんだ……」

 相変わらず、よく分からん鹿だ。


 俺は気を取り直し、川に目を戻して再び釣りに集中した。

 とは言うものの、一度集中が途切れると、どうも気持ちがあちらこちらに分散してしまう。

 それでも何とか雑念を払おうと釣り糸の先を見つめていた、その時。

 先ほどとは比べ物にならない、異質な気配を感じた。

 人ではなく、鹿やいのししなんかでもない。

 気配は川上からせまってくる。俺はそちらに目をやり――。


 これまで見たことがないほど大きな鳥が飛んでくるのを、目の当たりにした。

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