第5話 明鏡止水

 入り口からこちらをのぞき込んでいるのは、立派なつのを持った、大きな牡鹿おじかだった。

 鹿は少年の存在に気づくと、彼の脇腹のあたりに体をすり寄せている。

 狩りで山に入った時に鹿を何度も目撃しているが、ここまで大きいのはなかなか珍しい。しかし、それより何より――。

 角が一対いっつい多い。つまり、四本ある。

 普通の鹿なんだろうか? まさか神の使いとか、そういうのでは――そんな疑問を抱いたが、俺が問いただす前に、少年は鹿の隣にさっと座り、

「この鹿は、あなたを運び入れるのを手伝ってくれました。ですが、あなたを敵と見なして攻撃したのも、この鹿なのです」

 と説明し、さらに深々ふかぶかと頭を下げ、

「私が鹿を止めるのが遅かったがために、防げませんでした。申し訳ありません」

 と謝罪した。

 俺はようやく、すべてを理解した。

 俺にすごい勢いでぶつかってきた大きな物は――この鹿だったのか。

 そして、小屋に入ろうとしていた俺に声をかけてきたのは、少年だ。確かに、あの時の声も人影も、彼とよく似ている。


 俺はあわてて半身を起こし、少年に謝罪をやめるよううながした。

「そなたがびる必要などない。詫びねばならんのは、むしろ俺のほうだ。どうか、顔を上げてくれ」

 あの時の俺の姿なんて、はたから見れば不審者以外の何物でもない。実際、勝手に中に入ろうとしていた。

 鹿が取った行動は、何も間違っていない。

 少年がゆっくり顔を上げると、俺は彼をしっかりと見ながら、

「俺は……そなたを殺そうとしていた。人に見つかれば、己の身があやうくなると思って」

 と、正直に話し、深々と頭を下げた。

「すまなかった」

 怪我けがの手当てのみならず、汚れた衣を洗ったり、のどが渇いてないか気にかけてくれたり。

 刀もちゃんと保管しておいて、返してくれた。どこかに隠してしまうことも出来ただろうに。

 ここまで良くしてくれる相手を、俺は――そう思うと、自分の中にむなしさばかりが広がっていく。


 少年はまゆ一つ動かさず、

「あの時のあなたには、私がどのような人間か分からなかったのですから、あの対応で何も間違ってはいません。あなたのほうこそ、謝る必要はないのです」

 としか言わなかった。

 あまりにもどうじない彼に、本心だろうかといぶかる気持ちもわいたが、上辺うわべだけの言葉にも聞こえなかった。

 俺は少し考えてから、少年に頼んだ。

「さっきはいらぬと言ったが、やはり水をもらえないか?」

 彼はすぐに、

「分かりました」

 と応じ、水瓶みずがめのほうへ行くと、柄杓ひしゃくわんに水をそそいだ。

 そして俺のそばに座ると、その椀を差し出しながら、

「毒など入っておりませんから、心をやすんじてお飲みください」

 と言い添えた。

 どきりとし、一瞬、椀を受け取る手を強張こわばらせてしまった。

 気づかれてたのか?

 俺は動揺を押し隠しつつ、椀を受け取って礼を告げた。

「かたじけない」

「では、私は薬を用意してきます」

 そう言い残して少年は立ち上がり、のほうへ行ってしまった。


 手の中の椀を見ると、少しの濁りもない水で満たされていた。おかしな臭いもしない。

 俺は椀を持ち上げ、一口飲んだ。

 混じり気のない水は、舌をそっとでたかと思うと、するりとのどに流れ込んだ。 

 何の味も付いていないのに、常日頃つねひごろは感じないような存在感が、そこにはあった。

 俺は残りの水を、一息ひといきに飲み干した。

 腹の中から、頭や足の先までじわりじわりと命が満たされていく。何とも言いがたい充足感。

 ようやく生き返ったような心地だった。


 少年を見ると、炉のそばで何か作業をしている。

 親切だが、ちょっと変わっている――この時の俺はまだ、彼のことをその程度にしか気に留めてなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る