第1話 落ち武者

 もうどれぐらい、俺はこの山にいるのだろう。もはや、時間の感覚すら曖昧あいまいになっている。

 下山げざんして槻伏荘つきぶせのしょうに戻らなければと思うのに、どこをどう歩いても、鬱蒼うっそうとした森とけわしい山道ばかりだった。

 ひょっとすると、同じ所をぐるぐると回っているだけなのではないか――そんな疑いすら、頭をもたげてくる。

 崖から落ちた際に左肩にった傷は、出血はどうにか止まったものの、じくじくとした痛みが消えなかった。それのみならず、何だか全身が熱っぽく、だるい。


 今、ここで俺が死んだら、歴史書には、

五百瀬いおせ藤吾とうご春永はるながは、主君である新柄にいづか新三郎しんざぶろう尚邦なおくにを守るために身を投げうち、命を落とした。享年きょうねん十七歳」

 と記されるんだろうか。

 そう考えると、腹の底からいきどおりがわいてくる。

 誰があんな人間のために命を投げ出すものか! 後世こうせいの者に忠臣として認識されるなど、納得なっとくがいかん!

 俺に切りかかってきた敵兵たちには、不思議とうらみも憎しみも感じなかった。

 腹立たしいのは、我が主君――いや、主君などではないか――新柄新三郎、ただ一人だ。

 体の奥底に宿る、「このままで終わってやるものか」という思いだけが、俺を突き動かしていた。


 甲冑かっちゅうは捨ててきた。そのおかげで、いくらか身は軽くなったし、音もあまり立てなくて済む。

 だがその反面――何者かに襲われたらと思うと、心もとなさもおぼえる。

 敵の追っ手、山中にむ獣、武具を奪おうと落ち武者むしゃ狩りに来る百姓……そういった、俺をねらってきそうな存在のことを考えると、気が抜けない。

 俺は、腰に差した愛用の刀にそっと触れた。

 運良く、これが近くに落ちていてくれて助かった。弓は戦っているうちにいたんで捨ててきてしまったから、これだけが頼みの綱だ。丸腰でないだけでも、心強い。

 休んではいられない――俺は気力を振りしぼり、足を動かし続けた。


 遠くからかすかに、鳥とも獣ともつかない鳴き声が聞こえる。

 初夏の山は、木々の枝葉えだは下草したくさも濃く茂り、やや薄暗い。

 日差しが多少やわらぐのはありがたいが、歩くさまたげになるし、体にまとわりつくとどうにも不快だった。

 俺がもっと小柄こがらなら、この草木も身をかくす役に立ったかもしれないが。上背うわぜいが六しゃく半ほどもあると、それも望めない。

 早くここを抜け出したい――その一心で、森の中を進んでいると。

 前方に、木立こだちが途切れている所が見えてきた。


 木の無い場所があるのを目の当たりにして、俺は我知われしらず、足を速めた。

 もしかしたら、下山できる道に出られるのではないか。そうでなかったとしても、最早もはやうんざりしている森の風景と別れられる。

 あそこに行けば、きっと何かある――なぜかそんな、予感とも期待ともつかないものを覚え、俺は一息ひといきにその開けた場所へ向かった。

 森を抜けると、そこには――。

「これは……?」

 まったく予想もしてなかった物があった。

 小屋だ。

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