山へ

木曽はバスに揺られていた。

季節は夏。道路の両側に伸びる木々は青々と輝き、朝日の木漏れ日が注いだいた。

木曽は2週間ほど前、地元でキャンプ場やスキー場を経営している会社の企画である『宝玉岳登山~初心者向け~』というツアーに参加することにした。

定員は5名。かなりの倍率かと思っていたが、数日後当選の知らせが届いた。

木曽は去年からいくつかの山を登っていた。そういった点では初心者では無いかもしれないが、宝玉岳は初挑戦。そして、1人では心細かった。

そのような理由からこのツアーに申し込んだのだった。

木曽はこれから拝めるであろう山頂からの景色、得られるであろう達成感に心を踊らせながら、登山入り口という停車場を目指していた。


「そちらのお兄さん。」

木曽の斜め後ろの席にいた2人組の老夫婦のうち、夫の方が話しかけてきた。

木曽が振り返ると本格的な登山装備に身を包み、顔がよく焼けハツラツとした印象の老紳士がいた。

隣には、丸い顔でにこやかな印象の婦人が座っている。

「もしかして、宝玉岳登山でご一緒する方かな?」

老紳士は木曽に尋ねた。

「はい。僕は山岳カメラマンをしております。木曽昇と言います。」

木曽が自己紹介をして、頭を下げると夫妻は顔を見合って笑顔を浮かべた。

「そうかい!わしらみたいな老人ばかりのツアーかと思ったが、こんなに若くてハンサムなお兄さんがいるとは!」

目を丸くして驚く老紳士。そして、彼らも自己紹介を始めた。

「わしは中村典夫。麓の会社で実業団陸上の監督をしてるものだ。登山は毎年3、4回登っとる。」

そういう中村の顔は満面の笑みで、同じバスで後のチームメイトに出会えた事への喜びが溢れていた。

「こっちは家内の朱里という。」

中村が紹介すると、朱里は会釈をし「よろしくお願いします。」と丁寧に頭を下げた。それに木曽も応える。

「家内にも登山の良さをわかって欲しくてな、初登山なんだよ。今日のわしは付き添いみたいなもんだ。」

朱里の顔には不安が広がっていたが、心強い夫が着いているとなれば木曽も安心だった。

「そうなんですか、中村さんは宝玉岳は何度か登ってるんですか?」

「わしは10回は超えてるかもしれんな。ほぼガイドみたいなものだよ。」

そう言って笑う中村は心から登山を愛してることが伝わってきた。


中村のこれまでの登山での面白話を聴いていると、登山道入り口の停車場に着いていた。降りたのは3人だけだった。

バスはさらに上に登っていく。実は宝玉岳には山頂付近の山荘までのロープウェイもあり、日帰りの観光もできる山なのだ。

しかし、木曽は山を登るという行為自体を楽しみとしていた。ロープウェイを使ってしまったら達成感は半分以下だと思っていた。


登って行ったバスの後ろ姿を見送り、3人は集合場所の登山道入口へ向かった。

すると、50歳は超えているだろうがすらっとしており、焼けた肌とサングラスが良く似合う男性が呼びかけてきた。

「おはようございます!こちらです。」

近づくと男性はサングラスを外した。その人物の顔を3人とも知っていたようで、すぐに挨拶を交わした。

「わたくし、今回のツアーの企画者の向山達彦と言います。よろしくお願いします。」

丁寧な挨拶だった。言葉の発音一つ一つから丁寧なことが読み取れるようだった。

「もちろん存じ上げてますよ。麓のスキー場の社長さんですよね。」

中村典夫が握手を求めながらそう言った。

木曽も様々なニュースや新聞でよく顔を見ていた。

また、今回の登山についての事前資料でも主催者として名前が書かれていた。

「本日はありがとうございます。向こうに今日の隊長がいるんで、さあさあ皆さん行きましょうか。」

向山に促されて登山道入り口の看板の前に行くと、そこには向山より屈強で、大柄な男性が立っていた。その顔に笑顔はなく、真剣な眼差しが木曽達を刺していた。

「今日は隊長をさせてもらうことになってる山部東次郎です。よろしく。」

少し威圧的だったが、この人になら隊長という責務を任せられると木曽は思った。


「向山!」

木曽達が装備の点検をしていると山部の声が飛んだ。

「どうした?」

すぐさま駆けつける向山。

「あと2人はまだかい?出発が遅れるぞ。」

ややイラだった様子の山部。この会話から木曽は山部と向山は相当長い付き合いなのではないかと予想した。

「その事なんだが。」と少し申し訳なさそうに向山がいう。「岸谷さんから連絡があって、成田さんの方が来られなくなったらしい。岸谷さんの方は次のバスで来ると言っていたから、出発予定時刻の5分後には出発できるはずだ。」

それを聞いた山部は、周りに聞こえる音で舌打ちをすると、何やら不満を向山にぶつけていようだったが、木曽には聞き取れなかった。


向山の言った通り、木曽達が乗ってきた次のバスから1人の女性が降りてきた。

恐らく彼女が岸谷だろう。

小柄な体躯。金髪のロングヘアに帽子を被っている。大学生だろうか?全く新品な登山装備一式を見て、登山初挑戦だろうということはわかった。

「遅れてしまってすみません。」

申し訳なさそうに頭を下げる岸谷。ちょうど出発予定時刻だった。

しかし、向山も中村夫妻も嫌な顔ひとつせず挨拶を交わした。

「さて、軽く自己紹介と行程を説明して出発しますか。」

向山の号令で全員が集まった。

山部、向山、中村夫妻、木曽が順に自己紹介をして、岸谷の番になった。

「岸谷真那と言います。S大学生の4年生です。高山植物に興味があって応募しました。今日が初登山です。よろしくお願いします。」

一同が小さく拍手をする。

これで全員が自己紹介を終えた。

その後、山部が休憩について、難所についていくつかの注意を述べた。


登山道入り口の看板の近くに、小さなポストがある。そこに山部が紙を投函した。

登山届である。

近年増加する山岳遭難などに備えて様々な情報を記載した紙である。

これで準備は万全。出発予定時刻から5分ほど遅れて一同は山に足を踏み入れた。

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