xlvi Goddesses Wing
「はぁー」
羽田空港のロビーで
「何落ち込んでるの?」
英介の顔を覗き込んで(というよりもほぼ見上げて)
「夕衣ちゃんエッチさしてくんなかった……」
「ばかこのぉ!」
何を言い出すのかと思えば、である。今まで英介がどんな女とどんな付き合いをしてきたか、夕衣は殆ど知らない。その日に関係を持ったこともあったのだろうし、関係を持たずに別れたこともあったのかもしれない。英介の過去がどうあれ、夕衣は告白されたその日から簡単には身体を開くまい、と心に決めていた。保健体育程度の知識しか持たない夕衣でも、男にとってそれが辛いことくらいは想像できたが、実際に英介も夕衣を求めてくるようなことは一度としてなかった。きっと英介も夕衣と同じことを思っていたのだと思う。僅か半年の間離れるだけで、離れる前に、などとお手軽な気持ちではしたくなかったのだ。英介にその気持ちがあったかどうかは定かではないけれど、英介が夕衣の気持ちを汲んでくれていたことだけは何となく判っていた。それが、この期に及んでこんなことを言い出すのは、何ということはない、ただの悪ふざけでしかないという訳だ。
「おぉ、試されてるねぇ、英介」
「あん?」
「ユイユイがさせてくれなかったからって、向こうで浮気に走るんじゃないよってことでしょー」
肘で英介の腹を突付きながら
「良くお判りで……」
「ホントはキスだってさせるつもりなかったのに……」
ぼそり、と言ってしまってから夕衣は自分の口を押さえた。
「へぇ、したんだ」
耳ざとく聞いていたのは他ならぬ
「シテナイ」
「今あんた何て……」
硬直して棒読みになった夕衣にはぁ?とでも言いたげな口調で莉徒は肩に腕を回してきた。
「シテナイ」
「じゃあ今ここで」
ひょっとこのお面の口のように唇をすぼめて英介が迫ってくる。
「ぶっ飛ばすわよ」
何だか莉徒と英介のやり取りのようになってしまう。そうか、英介の彼女になるということはこういうことなのかもしれない、と甚だ素っ頓狂な考えにまで思考が及んだ。
「ほらなー、やっぱ夕衣ってツンデレだよなー」
「夕衣ちゃんのデレ、見てみたいなぁ」
くすくすと笑いながら
「見たい見たい!」
「二人きりの時にしか見せないからツンデレなんでしょ」
はしゃぐすみれを他所に、夕衣が冷静に言う。どういう訳か夕衣がツンデレだという噂は定着してしまっているらしかった。自分ではそんなつもりはない。二人きりでいる時もそうでない時も、英介がばかなことをしでかさなければ何も声を高くする必要もないのだから。
「ち、英介だけか……」
「ツンデレじゃないですからっ!」
何故か敬語で夕衣はだん、と床を踏んだ。
「ま、まぁまぁともかく」
「あ、空気読んだ」
夕衣をなだめつつ、言った英介に莉徒がぼそり、と言う。
「あとで怒られるからだよ」
すかさず英里が突っ込む。以前から薄々感じていたことだが、どうも英里は英介をからかったり突っ込みを入れたりすることに喜びを感じているように思える。
「英里うるせー」
「やはは、照れる照れる」
「だから褒めてねぇよ」
ここまでがワンプレートだと言わんばかりのお約束だが、英里はいつでも剽軽で可愛らしい。
「とりあえず、そうだなー。莉徒はいつまでも俺のこと引きずってないで!……いってぇー。つーか最後までコレかよ」
言葉の途中で莉徒が英介の大腿部に蹴りを叩き込む。おおぅ、と苦悶の声を上げながら英介は大腿部をさすった。こんなやり取りもしばらくは見られなくなってしまう。
「だって一ナノセコンドたりとも引きずってないし」
「じゃあ俺が戻るまでにイイ男見つけろ!この際シズでいい」
「何だこの際って!おれはもっとむにゅむにゅぼよーんがいだぁっ?」
シズの言葉の途中でも莉徒はシズの尻に綺麗な右回し蹴りを叩き込んだ。我が親友ながらとんでもない暴力女だ、と夕衣は苦笑する。
「今のはシズ君が悪い」
「ごめそ」
何それ、半角カタカナ?という莉徒の声を他所に英介は
「んで、奏一!」
「あいよ」
「おめーも彼女な!」
「うるせー!嫌味なんじゃ!お前が言うと!」
そんな冗談を夕衣がいる前で言い合えるということはもう英介と奏一の仲も元通りになったのだろうと思えた。ライブが終り、二学期が始まって、夕衣と奏一の関係も元に戻りつつある。互いにまだ何か引っかかっているところはあるような気がしているけれど、きっとそれはこの先の時間という名の薬が治してくれると思えるほどに、自然にやり取りができるようになっていた。
「じゃあ判った。ベース!俺が戻ったらソッコーバンド復活だかんな」
「わぁかってるつぅの。連中にも言っとく」
「おぅ。まぁあとはテキトーにやれや」
いきなりまとめにかかって、数人がズッコケそうになる。律儀な方々だなぁ、とつい感心してしまった。
「何よえっらそうに!」
「その他大勢にまとめられた!」
英里とすみれが口々に言う。
「まぁまぁいいじゃねぇか。たかだか半年なんだからよ」
「くすん、その半年で私がどれだけ寂しい思いをすると思っていぎゃー!」
またしても莉徒が胸元で手を組んでくねくねと腰を曲げながら言うので、夕衣は遠慮なしに莉徒の胸を掴み、捻った。
「言ってないから!それにこないだからそのクネクネは一体全体誰の真似なの!」
「ツンデレ
ぼそり、と英介が呟くように言う。
「ばかこのぉ!」
わぁ、と手を上げた瞬間に場内アナウンスが流れた。英介が乗る便の準備が完了したのだろう。
「お、時間か。んじゃあまたな」
「うん」
ぽん、いつものように夕衣の頭の上に手を乗せて英介は笑った。いつものようにその手をぱしん、とはたき、夕衣も笑顔で頷いた。
「なんだーユイユイ泣くかと思ったのになぁ」
そう言って英里が夕衣から一歩離れる。つまりこれは、夕衣の攻撃から逃れた、ということなのだろうか。夕衣まで莉徒のように暴力女だと思われてはたまらない。それにそのくらいでは夕衣も怒りはしない。
「誰も知らないところで、陰で泣くのよシクシク」
「りーずー」
またもくねくねと動く莉徒に、一瞥をくれる。
「あん、嘘、ごめんなさい」
「だからそのクネクネ……」
このぉ、と手を上げたところで公子が苦笑しつつ、口を開いた。
「まぁともかく、浮気とか知ったことじゃないけど、夕衣ちゃん泣かせたら真っ先に蹴り飛ばしに行ってやるからね」
聞けば公子と英里の両親の出身地が北海道なのだという。道理で英介が使っていた北海道の言葉を二人も使っていた訳だ。
「し、しませんって。携帯のアドレスだってチェックされてんのに」
ぱたぱたと公子に手を振って英介は苦笑した。
「えぇ!ユイユイ厳しい!」
「ち、ちがう!樋村が勝手に見せたんだってば!」
すみれの驚愕の声に夕衣は慌てて言い募る。事実、それは英介が自分の身の潔白を夕衣に証明するために、英介から夕衣に見せてきたのだ。夕衣が見せてくれと頼んだ訳ではない。
「聞いた?聞いた今の!」
「は?」
腕を組みつつ
「莉徒にもすーにも英里にも公子さんにも英介って呼ばれてんのに、俺の彼女が樋村って呼ぶんだぜ!俺の彼女が!」
「もう一週間なのにねぇ」
あぁ、そういうことか、と夕衣は納得したが、それは今現在の悩みの種の一つでもあったのだ。一番最初に樋村君と呼んだ時、英介は気持ち悪いから呼び捨てにしろと言ったことがあった。あの時に樋村ではなく英介と呼べていれば悩むこともなかったのだが、今の今まで樋村で通していたせいで、中々英介と呼べないままでいるのだ。
「……」
今ひとつ恥ずかしくて呼べない。しかし逆の立場ならやはり夕衣も名前で呼んで欲しいと思う。それが判っていながらも中々タイミングが掴めないまま今日になってしまった。
「つーかあんた飛行機乗り遅れるわよ」
ぴ、と発着している便の掲示板を指差して、二十谺が言う。こんな時でもクールな態度は崩さない。崩さないというよりも素でしかない。
「あぅ!いかん!そんじゃな!」
「う……。こ、こらぁっ!ばか英介!」
うん、と言おうとした所でまた英介が唇を重ねてきた。選りにも選って公衆の面前で、こんなに大勢の友達がいる目の前で。名前のことをぐるぐると考えていた夕衣はとっさに英介を名前で呼んでいたことに、一瞬後に気付いた。
「おぉーやるー、英介!」
「へっへー!ついたら電話すっからな!」
そう言って英介は走って行ってしまった。英介の後姿を眼で追い続け、か、と目頭が熱くなってしまった。本当に涙が出てきてしまうかと思ったところで英里がはしゃぎだした。その声に救われた。
「今どさくさに紛れてユイユイも英介って呼んだ!」
「ヨ、ヨンデナイ」
嬉しそうにはしゃぐ英里に、泣く寸前だった夕衣は棒読みで返す。
「呼んだね」
公子も嬉しそうに続く。
「ヨンデナイ」
「呼んだ」
二十谺までもが、しかし冷静に続く。
「ひょー」
莉徒だけがまるでばかのようだ。
「んもー!」
「ひっ!ちょ、ちょっとあんたね、何かあると私の胸触る癖、何とかなんないの?」
目の前にあった二十谺の胸を鷲掴みにして夕衣は唸った。二十谺は言いながら毎度のごとく夕衣を引き剥がしにかかる。
「ううううう……」
二十谺の力が緩む前に、夕衣の腕がだらり、と下がった。
「……」
「行っちゃったね」
そっと夕衣を引き寄せて二十谺が静かに言った。
「……うん」
「寂しくなるなぁ」
すみれの言葉に夕衣は小さく頷いた。一旦引っ込んだ涙はどうやら出てこなくなったようだ。みんなの前では泣くまい、と思っていたので、夕衣は顔を上げて笑顔を作った。
「ま、半年だろ。それにおれらより髪奈さんの方がもっと寂しいんだからさ……」
奏一が気遣ってそう言った。きっとそれは嘘だ。奏一は夕衣よりも英介との付き合いが長い。殆ど相棒のようなものだ、と英介も言っていた。寂しくない訳がない。バンドも止まってしまうし、いつものばかなやり取りだってできなくなってしまう。夕衣も寂しいけれど、奏一も莉徒もきっと同じ思いをして、それをひた隠しにしているだけだ。だから夕衣だけが泣く訳には行かない。
「私が英介のこと忘れさせてやんよ……」
後ろから莉徒が覆い被さってくる。しかも声は怪しげで、つつつと胸にまで手を伸ばしてくる。その手つきがとてつもなくいやらしい。
「ひぃっ」
「夕衣ってば感じ易いのね……」
慌てて莉徒から逃げ出して、夕衣は胸元を隠した。
「やっぱり莉徒ってさ……」
「オレノンケダロォー」
訳の判らないノリで莉徒はおちゃらけて見せる。だからそれに付き合うことにした。
「シラネェヨォー」
「さって、どっかでご飯でも食べて帰ろっか」
「うん」
流石はIshtarの取りまとめ役、いや代表取締役と言っても良いかもしれない公子がまとめ、みんながそれに頷いた。
空港から出て、少し遅めの昼食を取った後は、各々解散となり、夕衣は自分の家へと帰って来た。
「……」
自室の窓を開け外の景色を眺める。夕焼けの色がもう夏の終りを告げていた。高校生活最後の夏休みは一生忘れられないものとなった。頑張れたのかどうかは夕衣自身では判らない。
けれど、できることはしたのだと思う。髪奈
『私はね、ちょっと神様に会いに行くことにしたんだ……』
憔悴しきっている顔だったが、その表情は不思議と穏やかに見えた。何かと決別をしたのか、覚悟をしたのか、とにかく、今の夕衣では一生かかっても判らない何かを心に決めた裕江の表情は穏やかであったのに、ただ悲しかった。
『夕衣は、間違えちゃダメだよ』
そう悲しくも穏やかな笑顔は告げた。夕衣を置いて行った訳ではなかった。夕衣を裏切った訳でもなかった。そこには感情や心の動きが全くなかった。もう裕江の向かうところは一つしか有り得なかった。
何が裕江をそうさせたのかは、遺されたメッセージから読み取ることはできなかった。ただ、裕江はそんな風になってまでも、夕衣のことを気にかけてくれていた。そしてそれは恐らく夕衣だけではなく、
そして動画のプロパティにただ一言遺されていた「いつか、伝わるって信じてる」という言葉は何に向けたものだったのか、判らなくなってしまった。それは生きて行かなければならない、夕衣たちが考えて答えを見つけるための言葉だったのかもしれない。裕江は自分が死のうと思った気持ちが伝わると信じている、という意味でこの言葉を遺した訳ではない。そうでなければ「間違えちゃダメ」などと言える訳が無いのだから。
何故裕江は、夕衣に希望を遺して自身は消えて行くことを望んだのか。
(やっぱり、裕江姉はばかだよ……)
沙奈に借りたCD-Rは既に返却してある。パスワードは判らなかった、ということにしたままだ。もしかしたら、沙奈はその内容を知っていたのかもしれない。沙奈であればパスワードに気付くこともできるはずだ。今となっては判らないが、それもどちらでも良いと夕衣は思った。夕衣は自分のパソコンにコピーしたデータも消した。そして、いつもネックレスにして持っていた裕江のリングは英介に預けた。裕江のことを引きずらないことと、裕江のことを忘れないために、夕衣なりに考えた結果だったが、英介とのほんの些細なつながりを保っておきたかったという理由もある。
恥ずかしくて口には出せないが、リングを見る度に夕衣を思い出してくれるように、という想いはきっと英介は読み取ってくれていたと思う。
(わたし達って、これからまだまだ楽しいことがあって、嬉しいことがあって、素敵なことがたくさんあって、きっと、嫌な思いも辛い思いも、苦しいこともそれ以上にあるかもしれないけど……)
諦めることはできない。放棄はできない。
(裕江姉に教えてあげられればよかったけど……。きっと裕江姉のことだから、聞かなかったかも、ね)
そういう後悔はある。以前夕衣が好きだった人に何も言えずに終わってしまったことや、裕江の悩みを殆ど知らないまま死なせてしまったこと。夕衣にはどうにもできない要因があったとしても、何かができたのではないだろうかと思わずにはいられない。驕りかもしれない。傲慢かもしれない。けれど、夕衣がこの街に来て出会った仲間達のように、自然に、時には強引にでも、方向を示唆してくれるような存在に、夕衣自身もなりたい、と思う。
「夕衣、ちょっとお使いお願いできるー?」
「あーぃ」
河川敷は鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
「うわぁ……」
つい口に出して感嘆する。何気ない日常のほんの一瞬の時間でしかないのに、心を打たれる。
普段気付けないだけで、こうした瞬間はいつもすぐ隣のあるのだ、と夕衣は気が付いた。激しく忙しかったアルバイトの日々や、楽しかったライブ前の練習がなくても、ふとした瞬間にこんなにも心打つものがある。
「……」
胸元に手を当てて、裕江のリングは英介に渡してしまったことに気付く。
(わたしのこれ、癖になっちゃってたんだ……)
その瞬間、ポケットの中で携帯電話が震えた。英介からの電話だろう。夕衣は携帯電話を取り出すと、英介の名前を確認してから通話ボタンを押した。
『おー、ついたぜ、北の大地』
そう英介は明るく言った。本当に、実際に英介の顔を見ることは暫くできなくなってしまったのだ、と実感した。
「お疲れ」
夕衣は苦笑してそれだけを返す。
『何だよ暗ぇな』
「だって……」
本当に、半年間、英介の顔を見ることも、触れることもできないのだ。英介に抱きしめてもらった時の感覚が一瞬だけ蘇る。
『あ、おい、こら!』
「?」
『泣くなよ。何のための俺がばかみてぇに騒いでんのか判んなくなんだろうが』
じわ、っと目頭に何かがこみ上げてきたのを英介は敏感に読み取ったのか、声を高くして言った。
「あ……ごめん」
『謝んのもなし!』
「うん」
本当に辛いのは英介の方だ。
今まで殆ど触れ合わなかった親族と毎日顔を突き合せなければならない。元々誤解されやすい性格な上、友達もいない地に一人きりなのだ。きっと英介を理解してくれる友達もできるだろうけれど、今はまだどうなるかも判らない状況で、夕衣だけが沈んでいる訳には行かない。
「今ね、買い物の途中なんだけど、いつもの河川敷」
『おー』
「すんごいオレンジ色だよ」
夕衣がこの街にきてから夏休みまで、幾度となくここを通ったが、今の、秋が少し手前の時期が一番綺麗なのかも知れない。降魔が刻などという言葉もあるけれど、こんなにも鮮やかな色合いを不吉なイメージだけで塗り固めてしまうのはもったいない気がした。
『あぁー夏休みん時はバイトでそれどころじゃなかったしなぁ。俺もこっちくる前にしっかり拝んどきゃ良かったぜ』
「そうだね……。でもまた来年見れるよ」
『……んだな。で?買い物って何?』
言ってしまってから後悔した。今はまだ先のことを話すべきではなかった。英介もそう思ったのか、すぐに話題を切り替えたので夕衣もその話題に乗ることにした。
「あぁ、夕飯の」
『おーおー、ちゃんとお袋さんに色々教われよなー。だいたいおめーは包丁の持ち方からして危ねぇんだからよ』
「うっさーい!半年後にはぜぇったい
極自然に、いつもの通りに夕衣は言ったのだが、それに一瞬遅れて英介が反応した。
『……ひむら』
「あ、ご、ごめん」
今までずっと、本当に今日、ついさっきまで英介のことは苗字で呼んでいたのだから、こればかりは仕方がない。何となく、樋村英介は樋村というイメージが夕衣の中でできあがってしまっているのだから、それを書き換えるのにはそれなりの時間も必要だ。
『ひどい』
「だからごめんて……英介って、実は甘えん坊?」
『うん』
少し戸惑いながらも、夕衣は英介を名前で呼んだ。何だかそれだけで気恥ずかしい。
「ええええええ」
『なんその嫌そうな声ー』
「嫌なんじゃなくて、意外」
仕送りを受けていたとはいえ、一人暮らしをして、大学受験の費用までもアルバイトで稼いでいた英介はしっかりしていると思うし、夕衣よりもずっと大人だと思っていたが、それとこれとは話が違うのだろう。
『まぁ甘えられる相手がいれば、の話だろ』
「あ……。う、うん」
つまりはそういうことなのだ。まったくもって照れ臭い話ではあるのだが、英介が今、唯一甘えられる存在と言うのが他でもない、夕衣なのだ。本当に恥ずかしいと思うけれども、やはりそれは嬉しかった。
『別にママンとか言い出さねぇから安心しろ』
「さすがにそこまでとは思ってないけど」
それでは甘えん坊ではなくてマザコンだ、と夕衣は内心苦笑した。
『はは。んじゃ、迎えがきたみてぇだからまた夜にでも電話するわ』
「うん。うまくやりなさいよね」
『なん?』
本当に意味が判っていない声だ。
「あんた性格悪いから!」
『あぁ、そういうことか。でもそんな俺に惚れる女もいるから大丈夫だ』
「そ、そういうんじゃなくって!」
か、っと顔が熱くなる。間違いなく夕衣のことだが、夕衣と付き合う以前にも英介を好きになった女はたくさんいる。その向こう見ずというか、無自覚と言うか、それとも確信犯なのか、まったくもって英介の態度は癪に障った。そもそも夕衣が言いたかったのは女関係のことではない。家族とのやり取りのことだ。誤解されやすい性格なのだから、その辺は半年間だけでも装うなり、ナリを潜めるなり、色々と工夫した方が良いのではないのだろうか。
『わぁかってるって』
「……じゃ、また後でね」
夕衣はそう言って俯いた。もっと話していたかったが、電話料金のこともあるし、親族との対面もある。英介とはまたいつでも話せるのだから、と夕衣は自分に言い聞かせた。
『おう、んじゃな。泣くなよー』
「大丈夫、英介の見てないとこで泣くから」
『ばかお前、そういうこと言うな』
夕衣としてはあくまでも冗談のつもりで言ったのだが、英介にはそうは聞こえなかったのだろう。夕衣は慌てて謝った。
「あ、う、うん、ごめん」
『まぁた謝ったな』
「あ……」
努めて明るく英介は言う。
『そっち戻ったら何かご褒美だなー』
「ちゃあんと大学受かったらね」
とはいっても、やはり涼子の店のコーヒーだ。そんな簡単なことで特別なご褒美などあげてはやらない。ただでさえ二度も不意打ちを食らわせておいて、その上、それ以上のことを期待しようなどとは考えが甘すぎる。
『ま、そこはお互いな』
「だね。じゃ!」
『おー』
電話を切ってから歩みを止め、ゆっくりと上を向く。英介のためにも泣くべきではない。夕焼け空にスカイラインがかかっている。五月に見た時よりも鮮やかなラインが見える。もう少しすればオレンジ色は夜に塗りつぶされて行く。そんな空を見ていると急激に寂しさが募ってくる。
(は、いけないいけない)
ぶんぶんと頭を振る。携帯電話を再び開いて、英介にメールを入れておく。今さっき英介から電話を貰ったので夜には夕衣からかける、という内容を書き込んで送信しておく。保護者の下で暮らすとはいえ携帯電話の料金などは自分で払うのだろうし、英介ばかりに負担させる訳にも行かない。もうすぐ予備校に通うことにもなるし、アルバイトができないので夕衣も金銭的には厳しくなってしまうが、そんなことを言ってもいられない。
「……たった、半年だよね」
そう携帯電話に向けて夕衣は呟くと、それを閉じて、ポケットにしまった。
微かに、風に乗って
夕衣は微かに聞こえてくるそれに、自分の声を重ね合わせて歩き出した。
――
I believe for myself 女神の羽根 あったなら
この唄もいつか響いて 羽ばたいて 行けるはず
I believe for myself 女神の羽根 あったなら
この胸に誇れるもの ただ一つ 羽ばたける
――
Ixlvi Goddesses Wing END
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