xlv It's happy line
片方の鼻の穴にティッシュを詰め込んで、真剣に歌う南奈の姿は何とも言えない微笑ましさがあり、様々な意味を含めても、トリのバンドとして立派にやり遂げていた。
その後すぐに莉徒は、Lumiliaのリーダーであった
精算を終え(金銭的なことは主に
Ishtarの演奏が終り、Lumiliaの演奏を見ずに
(……どっちかって言うとなるようになれ、なんだろうな)
心の中で呟いて、夕衣は歩を進める。黙って抜けたせいで楽器を持ち歩かなければならなかったが、こればかりは仕方がない。小さな交差点折れると、そこに見覚えのある男性が立っていた。
「お疲れ、
「
待っていたのだろうか。だとしたら何故だろう。
「打上、行かないの?」
「あ、いく、けど……」
少し考えただけでは奏一がここにいる理由の答えは夕衣には出せなかった。
「じゃそれ、持ってっとくよ。重いでしょ」
「え?」
一瞬奏一の言葉を理解し損ね、夕衣は間抜けな声を上げた。夕衣が英介に会うことを知っているのだろうか。
「……さっき、英介と話した」
「そう、なんだ……」
夕衣が考えを巡らせるよりも先に、奏一はそう言った。蟠りが解けたような顔をしている。ライブ前に少し英介と話した時に感じた、英介と奏一の距離は元に戻ったのかもしれない。夕衣にはどうすることもできない問題ではあるけれど、もしもそうならば、それは本当に良かったと思える。
「公園にいるからさ、ともかく、あのばかに一言言ってやって」
「う、うん」
「ほら」
頷いた夕衣に手を差し伸べて、奏一は夕衣からギターケースとエフェクターケースを受け取った。つまりは、手荷物のことなど考えず、腰を据えて話し合え、ということなのだろうか。
「あ、ありがと」
「んじゃおれもvulture行ってるから」
「うん。あ、あの」
「あぁ、みんなには本人に直接聞け、って言っとくよ」
夕衣の気持ちを汲んでか、奏一は笑顔になった。
「ありがと」
「なんもだ」
夕衣に告白する前の明るい笑顔のような気がする。もしもそれが作り笑顔なのだとしても、それに夕衣は応えなければならない。
「それ、
「あはは、んじゃ後で」
奏一はもう決めたのだろう。夕衣の返事を受ける前から、そう決めていたことなのだろう。本当に夕衣ではどうにもできないことだったけれど、奏一が立ち振る舞いを決めたのであれば、夕衣も決めなければいけない覚悟がある。
きっと、また奏一には助けられてしまったのだ。伝わらなくても良い。万感の思いを込めて夕衣はもう一度言った。
「うん、ありがと」
「悪ぃな」
つい先日、真夜中に話した中央公園の中央広場、噴水の周りにあるベンチの一つに腰掛けていた英介が、夕衣の姿を認め立ち上がった。
「う、うん、いいけど」
「あぁ、ともかくお疲れ。やっぱいいな、お前の歌。好きだわ」
「え、あ、ありがと……」
言いながら英介が座った。英介の好き、という言葉に反応してしまい、どきり、と胸が鳴った。夕衣は少しだけ間を空けて英介の隣に座った。やはり今日の英介は悪乗りも足りていないし、元気もないように思う。悪乗りが良いという訳ではないが、いつもの樋村英介らしさがないと夕衣も何だか調子が狂ってしまう。
「一曲目って、あれだろ」
「そ、樋村と初めて会った日にできた曲」
きちんと覚えていてくれた。それがなんだかとても嬉しくて夕衣は笑顔で答えた。
「いい曲だったわ。アコースティックでやった時もいいと思ったけど、やっぱ個人的にはバンドアレンジのが好きだな」
「うん、わたしもそう思う。……くくっ」
最初のフレーズは屋上で一人でいる時に思いついた。その続きを風呂場で急に思いついて、ボイスレコーダーの電池切れのせいで慌てて留守電にメロディを入れたのを思い出して、思わず笑ってしまった。
「何だよ」
「何でもない」
流石にあれは英介にも失礼だったかもしれないな、と思うが、ついおかしくて笑顔になってしまう。
「思い出し笑いかよ、きめぇな」
「じゃあ言うけどー。メロディ、憶えてる?」
「あぁ」
「わたしこの曲のメロ思いついたとき、バカヒムラーバカヒムラー、失礼千万詐欺男ーって仮歌詞当てて留守電に入れたの」
態々丁寧な声で節に乗せて歌い上げてやる。
「な、なにぃ!」
あまりにも意外だったのだろうか。英介ならば想像くらいできるかとも思ったが、どうやら樋村英介には失礼千万詐欺男だという自覚はないらしい。
「あの時は事実だったし」
「詐欺はねぇだろ!勝手にお前が勘違いしたんだ!」
「ま、そうかも」
聞き流して夕衣は適当に相槌を打つ。流石に今は夕衣もそうは思っていない。やはりこんな些細な話を英介としている時間は好きだ。電話をしていても、いつも思っていた。
「なん?そのふてぶてしい感じー」
「べっつにぃ。……で?」
こんなことだけを夕衣に話すために態々二人だけの時間を取った訳ではないのだろう。こんなくだらない話をいつまでもしていたかったけれど、そういう訳にも行かない。
英介は煙草に火を点け、深く吸い込んだ煙をゆっくり吐くと、口を開いた。
「あぁ……。まぁちょっと言いにくいんだけどな」
英介の言葉に夕衣は少し身を固くする。
「う、うん」
「俺、北海道帰ることになったわ」
「え……?」
英介の言葉はあまりにも夕衣の想像からかけ離れた言葉だった。あまりにもかけ離れすぎていて、実感が伴わない。
正直なところ、告白されるのではないかと甘い期待を抱いていた。
それがガラガラと音を立て、崩れ落ちて行く。胸の奥で諦めに似た感情がとぐろを巻いている。
(やっぱり、そんなの甘いよね……)
「な、何で?」
かろうじてそれだけ言って、夕衣は俯いた。告白するもされるもそれどころではなく、会うことすらできなくなってしまう。
「お袋がな、籍外れたんだわ、樋村から。んで、親父の兄貴ってのが迷惑なことに面倒見の良い人でな。高校出るまでは保護者の下にいろ、って」
「そう、なんだ……」
いつもの、些細な、本当にばかげたやり取りも、胸が小さいとばかにされることも、莉徒が英介を蹴り飛ばすことも、それを見て笑うことも、なくなってしまう。
「たぁく、迷惑な話だぜ。何なら俺の籍だって外しゃ良かったんだ」
忌々しそうに英介は吐き捨てる。辛うじて、それで英介も北海道に帰りたくないのだということだけは判った。そのおかげで、少し夕衣も落ち着きを取り戻すことができた。
「……で、でもさ、そしたら、夜中まで働かなくったって、良く、なるんじゃない?」
それでも頓珍漢なことを言ってしまう。これでは北海道に行った方が良いと言ってしまっているようなものだ。
「まぁな。バイトして一人暮らしして、イッパシになってたつもりだったけど……。結局俺一人で生きてた訳じゃねぇんだって、思い知らされたわ」
「お母さんに、話したの?」
近くで母親も生活をしていることだけは夕衣も知っている。そしてその母親から若干の仕送りを受けていることも。学校に行って、バンドをして、大学へ行くための貯金、そしてきちんと衣食住を充実させるには、英介のアルバイト代だけではまかなえない。母親が樋村の籍を外れるということは、恐らく英介には一切の干渉をするな、ということなのだろう。そうでなければ英介も北海道に行くことなどきっと承諾しなかったはずだ。
「あぁ。まぁ叔父の言う通りにした方がいいんじゃないか、ってな。ま、フツーはそう考えるわな。結局大人は世間体と一般常識に捕われっから」
「行きたくないけど、行くんだ」
きっと英介と母親の間にも溝はあるのかもしれない。以前一度だけ、その話を英介から聞いた時にも夕衣はそう感じた。夕衣の勝手な想像だが、母親ももしかしたら、英介のことを重荷だと思っているのかもしれない。事実が判らない以上、口に出すことは憚られる。悪戯に英介を傷付けるような真似を、夕衣がするべきではない。
「お袋からの支援も止まるし、ま、生活はできるけど大学の貯金がな……」
今思えば、もしかしたら英介は学校での昼食を抜いていたのかもしれない。今となっては判らないけれど、もしもそうだとしたら気付いてあげられなかった自分に嫌気が差してしまう。
「バンドもなんだかんだいってお金かかっちゃうしね」
「まぁな」
それでも英介がバンドを続けていたのは、生活に追われるだけの毎日を送りたくなかったからだ。関係に亀裂の入った母親の仕送りを受けてでも、樋村英介と言うアイデンティティーを守りたかったのだろう。
「そっか……。北海道か……」
ぼんやりと日本地図の北部に位置する北海道を頭に思い浮かべて夕衣は呟いた。
「結局背伸びしたところでガキはガキなんだよな」
嘆息交じりに英介は言った。いつも強気で怖いもの知らずだった英介は今はいない。結局、大人だと思っていた樋村英介も夕衣と同じ高校三年生の子供でしかなかった。
「遠いなぁ、北海道」
「あぁ、遠いな」
短くなった煙草を灰皿に放り込むように捨てると、英介は空を見上げた。今、自分が一番力のない子供だったと実感しているのだろう。初めて英介のこんな姿を見たけれど、それを夕衣は意外だとは思えなかった。
「……」
「……」
ほんの少しの間、無言の時間が流れる。そしてその間に一つ、腑に落ちない点を見つけてしまった。
「え……。何で?」
「あ?」
唐突に口を付いて出たような疑問に、英介は当然の疑問を返してくる。
「それ、私だけ?」
「あぁ、それはみんなに言うよ」
「うん」
当然、転校してしまうのだから、みんなに報告しなければならないことだ。夕衣一人だけに態々告げることではない。よくよく考えてみれば判ることだったが、夕衣の勝手な甘い妄想とはあまりにも違いすぎた事実のせいで気が動転してしまっていたのだろうか。
「まぁソレとは別に、ちょっとお前に言っとこうと思ってたことがあってな」
「……うん」
甘い期待は捨てる。英介が夕衣のことを好きではなくても、もう会えなくなってしまうのだから。また何もしないうちに諦めなければいけないくなるのは嫌だ。だから、英介の話を全部聞いて、その後に夕衣自身の気持ちを打ち明けようと心に決める。甘い妄想を打ち砕かれたことによって、返って腹が座ったというのか、とにかく、自分の気持ちを押し留めてしまうことだけはやめよう、と夕衣は決意した。
「何となく、な。安心だと思ってた」
「え?」
何を言い出したのか、一瞬理解に苦しむ。
「電話でもメールでも、ちょっとした繋がりがあって、すぐ近くに住んでてさ」
「安心?」
それの何が安心なのだろう。訳が判らず、夕衣はそのまま訊き返していた。
「でも、奏一がお前のこと好きだって判ってから、安心できなくなった」
「どういう安心?」
英介は当初から夕衣が奏一とは付き合う気がないことを知っていた。それが不安になるというのは一体どういうことなのだろうか。
「お前が、フリーでいるっていう安心」
「フリー?」
つまり、誰とも付き合っていない、という状態のことだろう。判るようで判らない。英介がもしも夕衣のことを好きなのだとしたら、奏一とは付き合わないと知っていたのだから、逆に安心できたのではないのだろうか。
「もしかしたら、奏一と付き合うんじゃないか、とか、別に好きな男がいるんじゃないか、とか」
「何で、そんなこと……」
そうか、とそこで理解した。妙な勘ぐりや言い訳はこの先には不要だ。不要と言うよりも、出してはいけないものだ。
「お前、こないだ俺に好きな女いるのか、って訊いたよな」
「……うん」
言うべきではなかったと後悔はしたけれど、英介はそれについて全く言及してこなかった。だからその後も普通に英介とは接することができたのだろう。
「……そんなに不安か」
「え?」
聞き返してしまったが、判っていた。英介の言う通りなのだ。臆病でずるくて、自分からは何も言い出せない。はっきりとした確約がなければ何も行動ができない。音楽のことでは強気になれるのに、どうしてこういうことになると途端に弱気になって、何もできなくなってしまうのだろう。
「いや、悪ぃ、何でもねぇ」
「……不安だよ」
それ以上、英介が言葉を続けようとするのを止めた瞬間に、夕衣は言い放った。そしてそれは英介も当然判っているはずだった。夕衣が全てを判って今、放った言葉の意味を。
「……」
「不安だよ。電話だってメールだって、いっぱい……。いっぱいくれたけど……。わ、わたしは樋村と違うんだよ」
「あぁ」
俯いたままの夕衣の視界の隅で、英介は立ち上がる。
「誰とも付き合ったことないし、そ、そんなこと、はっきり言われなかったら、わたしは判んないよ……」
「だから、悪ぃって」
夕衣の正面に回って、英介は夕衣の両腕を掴むと、半ば強引に夕衣を立たせた。英介の顔をちら、と見た瞬間に抱きすくめられた。
「んっ……」
英介の力が強くて思わず息が漏れてしまったけれど、何とも形容しがたい感覚が夕衣を包んだ。恥ずかしくて突き飛ばしたいような感覚もあれば、もっと強くして欲しいと思う気持ちもあった。とにかく、夕衣は英介の抱擁で訳が判らなくなってしまっていた。ただ胸の鼓動だけが別の生き物のようにどくんどくんと高鳴っていた。
「お前にそういうの、求めてた訳じゃねぇんだ」
「そ、そういうのって?」
英介の胸に押し当てられたままなので、くぐもった声で夕衣は問い正した。
「それは、ちょっと汚ぇんじゃねぇか?」
苦笑交じりに英介は言う。もうここまでしてしまえば英介が言うまでもないことは判るけれど、きちんと、言葉として聞きたかった。英介の言うことも尤もだけれど、それでもやはり確かな言葉が欲しい。
「だから、判んないよ……」
もう一度言う。自分がずるいなどということはもう百も承知だ。
「俺が、お前のこと好きだって、判れよ、ってこと!」
ぐ、と夕衣を抱く腕にまた力が入った。苦しいはずなのに、この苦しさが心地良いと思ってしまう。きっと好きな人に抱きしめられるというのはこういうことなのだ。
「普通こういうことする前に言うんじゃないの?」
言いながら、夕衣も英介の背に腕を回した。
「普通なんて言葉あるかよ」
「それもそっか」
少し、力を緩めて英介が笑った。それは英介だからなのではないだろうか、とも思いはしたが、口には出さなかった。まだこのままでいたいという考えだけが今の夕衣を支配した。
「……正直、お前は俺のこと何とも思ってないと思ってた」
「ついこないだまではね、好きなのかどうかって判ってなかったと思う」
それは、明確に英介のことだとは言わなかったが、恐らく英介も判っていたのだろう。それでも、会えなくなる前に、英介は自分の気持ちを夕衣に打ち明けようと思ってくれたのだろう。
「だからさ、見切り発車はしねぇヤツだと思ってたし」
「かもね。……でも、判ったんだ。今日特に、だけど」
かも、ではなく絶対にそうだった。もしも英介が夕衣のことを何とも思っていなかったとしたら、きっと夕衣は自分の気持ちすら自覚せずにただ英介を見送っていただけになっていただろう。そしてきっと自覚できた頃には何もかもが手遅れになっていただろう。初めから夕衣はきっと英介に惹かれていたのだから。どきどきしなかっただとか、ウマが合うだとか、男女の友情だとか、そんなものは全て後付けされた理屈に過ぎないことを、その理屈で自分自身を誤魔化していただけだということを、今、夕衣は自覚していた。
最初に惹かれなければ、秋山奏一に持っていた気持ちと何ら変わりはなかったはずなのだ。最初に出会ったあの時、あの派手な口喧嘩そのものが夕衣の心に印象深く残ったことこそが、もうすでに決定的なことだったのだ、と今ならば判る。
「今日って。……今かよ」
「再確認、かな?」
今度は夕衣が腕に力を込めた。今となってはそれも関係のないことだった。優しかった英介が意外だったとか、ふとした仕草にどきりとした、とかそんなものは本当に、後から付いてきたいわば付属品に過ぎない。根底のところで英介に対しての想いがなければ、そんな気持ちや感情など絶対に湧くはずがないのだから。初対面のあの日に、夕衣自身がまったく気付かない内に英介にバックドアを仕掛けられたかのような、そんなイメージを夕衣は持っている。
「なんだそれ」
「会えなくなるって判っちゃうとね……」
だからこそ余計に思い知らされるのだ。英介が感じていた安心とは似て非なる安心。いつでも会えるという安心はもうなくなってしまう。ただでさえ英介は見た目が良いのだから、余計に不安になってしまう。夕衣を好きだと言ってくれた英介の気持ちを疑う訳ではないけれど、夕衣は女としての自信がない。夕衣よりも女らしくて魅力的な女性など、この世にはごまんといる。ここは英介が夕衣を選んでくれた、英介を信じるしかない。
「……大学は、できりゃ瀬能大受けっから」
「うん。待ってる」
それしかできない。どうしたって。それでも辛いのは夕衣だけではないのだから、待てる。
「お、言ったな」
「約束」
(だから、まだ何にもさせてあげないから)
そう誓って、英介の胸に頭を預ける。
「判った。……で?」
「え?」
英介の問いの意味が判らなくて、夕衣は訊き返した。
「おまえ、俺に言わせただけで済ますつもりか?」
「ずるい」
言いながらも夕衣は半ば観念してそう言った。英介の気持ちを判っていながら態々言葉にさせたのは夕衣だ。だから英介もそれを求めている。もうどんな言い訳も通用しない、明らかな状態になってしまっているというのに。
「ずるくて結構」
「……」
いざ言おうとして、急に恥ずかしくなってしまう。それでも、夕衣自身も伝えたい気持ちがあった。辛うじて、自分でも聞き取れるかどうか判らないほどか細い声で、何とかその言葉を口にする。
「聴こえねぇけど、ま、許してやっか」
「ん」
夕衣の背に回っていた腕が離れ、ぽんぽん、と夕衣の頭で二度跳ねる。
「打上げ、行くか?」
「何か、行きたくないな……」
苦笑して夕衣は言う。二人でエスケープをして、二人で戻ったら、またアコースティックライブ後の時のようにもてはやされるに決まっている。今度は悪乗りでも冗談でもなく、事実になってしまったけれど。
「行かなきゃ行かないで後で何言われっか判んねぇぞ」
「……そっか」
それはそれで確かに面倒だ。それこそ二人でホテルに行った、などとまことしやかな噂が流されてしまうかもしれない。まったくもって冗談ではない。
「連中にも俺が北海道行くの言わなくちゃなんねぇし」
「だね。……いつから?」
肝心なことを聞くのを忘れていた。
「来週」
「急だね……。折角……」
そんなに急に行ってしまうとは思わなかった。僅かに一週間しか時間がない。しかも夏休みも明日で終りだ。せめてもの救いはこの夏休みで英介や莉徒達と大変だったけれど、楽しくアルバイトをした思い出ができたことだろう。
「寂しいか?」
俯いた夕衣の頭に再び手を乗せて、英介は笑った。嬉しいのだろうと思う。英介と離れることで夕衣が寂しがるという事実が、英介にとってはきっと嬉しくてたまらないのだ。
「べ、別に!」
ぱん、と英介の手を払って夕衣は声を高くした。英介だって寂しがってくれても良いはずなのに、とつい思ってしまう。
「えぇ、お前ってツンデレ?」
「ちぅーがぁーうぅー!言っとくけど!わたしは萌えキャラでもツンデレでもないから!そういうことゆーなー!」
だんだん、と地面を踏んで夕衣は更に声を高くする。
「わーかった判った。とりあえず試験受ける時はこっち戻るから」
「……うん」
もう一度引き寄せられて、抱きしめられた。こうなっては英介の腕の中の居心地が良くて何も言えなくなってしまう。
「半年だ。俺も、我慢すっから」
(ずるい)
そう言いかけて、止めた。英介も夕衣に会いたいのを我慢するのだ。お互いに共通の気持ちを持っていれば大丈夫だ。きっと長い半年になってしまうだろう。でも、それでも絶対に待てる。皮肉なのかもしれないけれど、英介を信じるということは、自分を信じることになる。自分も、英介も信じられるからこそ、夕衣は待てると確信する。
「……判った」
「おし、んじゃ行くぞ」
再び離れ、夕衣の頭に手を乗せた英介が笑った。
「う……んっ……!」
その笑顔が急に夕衣の眼前に迫ってきて、夕衣の唇に、今までに感じたことのない感触がふ、と触れた。
「いっただきぃ」
「……もう」
英介がさらり、と夕衣の唇を奪ったのだ、と判った後には、英介は既に夕衣から離れ、悪戯を成功させた子供のような笑顔で走り出していた。
xlv It's happy line END
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