xlii Message

(判ってる……)

 夕衣ゆいの誕生日などではない。

(これだって違う)

 裕江ゆえの誕生日でもない。

「……」

 どういう入力の仕方が正解なのかは判らないけれど、とりあえず、一番シンプルな入力をする。

「二、ゼロ……一、二……」

 入力し、エンターキーを押した途端、ハードディスクが稼動し始めた。ファイルが解凍されるまでの時間を示すバーが表示され、圧縮フォルダが解凍されて行く。

(開いた……)

 解凍されたフォルダが自動的に開く。フォルダの中にはmp4の拡張子。動画ファイルが一つだけ。ファイル名は『夕衣へ』だった。

(……どうする)

 今開くべきか、迷った。この街に来たばかりの頃の夕衣ならば、すぐに開いたかもしれない。しかし今はあの頃の夕衣とは違う。僅かに数ヶ月の時を過ごしただけだったが、裕江が死に、無為に過ごしてしまったような三年間よりも充実した日々だったのかもしれないと思えるほどの時を、夕衣は過ごしてきた。

「……」

 今これを見て、心穏やかでいられるだろうか。

 正直なところ自信はない。しばらくディスプレイと睨めっこした後、莉徒に電話をかけてみた。メールの件が引っかかってはいたけれど、それでも今この時点で、英介には頼れない。

『おーぅ夕衣。何?』

「フォルダ、開いたの……」

『おー、やったじゃん、パスワードなんだったの?』

 あっけらかんという莉徒の声音に、やはり何かを感じる。

「裕江姉が死んだ日付だった……」

『……そっか』

 一瞬の逡巡の後、莉徒は言った。誕生日ではなければ死んだ日以外にはありえない。そして夕衣にメッセージを残すのだとしたら、それは死ぬ準備をしている間でしかありえないはずだ、と夕衣はほぼ確信に似た気持ちを持っていた。

「莉徒に日付、って言われてからピンときたんだ。きっともしも日付だったらそれしかないって思ってた」

『そっか。……中は?』

「動画ファイルなんだけど、こ、怖くて見れないの」

 中身は間違いなく動画ファイルだ。圧縮されてたとは言えCD-Rに収まるほどの物であれば、そう長いものではないだろうけれど、ビデオレターのようなものだろうことは容易に想像できた。

『……一緒に見ろってのはナシにしてくれる?』

「え」

 予想外の返答が莉徒から返ってきた。言葉の温度も下がったように感じる。なんで、と問い返す前に莉徒は言葉を続けた。

『それはさ、あんたの問題。あんたと裕江姉の問題だよ。……私は、あんたのこと親友だと思ってる。これからよぼよぼの婆さんになるまであんたにつきまとってやろうって思ってるよ」

 だから、メールも気付かない振りをしていたのか、と思い至る。

「でも勿論さ、あんたの助けになってやれるんなら、そら当然助けるけどね、だけど、逃げ道の口実には使われてやんないってこと』

「……」

 厳しいけれど正しすぎる莉徒の言葉は、夕衣の胸に突き刺さった。それはそうかもしれないけれど、と心の中で言い訳をしたのと同時に莉徒が重ねてきた。

『言ってる意味、判る?』

「う、うん……」

『そりゃ判ってないな?それは裕江姉があんただけに遺したものだよ、パスワードまでかけて。あんただけに見てもらうために。それを私が』

「判ってる!」

 莉徒の言葉を遮って、夕衣はつい声を高くしてしまった。夕衣にも判っているのだ、そんなことは。

 そしてそれを誰よりもすぐに判ってあげられるはずだった夕衣は、変わってしまった。今の夕衣ではなく、何も吹っ切れなかった、何も繋がりを持とうとしなかった、過去の夕衣だけが、それを判ってあげられるはずだったのに。

『大っきな声出すな』

「あ、ご、ごめ……」

 ぴしゃりと言い放つ莉徒の凄みに押されて、口走った、と言っても良いほど咄嗟に夕衣は謝っていた。

『別に意地悪で言ってんじゃないの、私だって』

「……うん」

 少し莉徒の声のトーンが柔らかくなったように感じる。

『私の勘違いじゃなきゃ、私とあんたの間には何かあってさ。ま、女同士だとちょいキモいけど、なんか通じてるもんがあると思う』

「うん」

 そこは夕衣も疑いようのないことだと思う。そうして、今の夕衣にしてくれたのは他ならない莉徒なのだから。

『それはあんたと裕江姉の間にも、当然、あるんだよ』

「……うん」

『くやしいけど、そこは、私が最初に踏み入っちゃいけないとこなんだよ』

「……」

(そっか……)

 夕衣が莉徒に対して踏み込めない部分があるように、莉徒もまた、そうした同じ思いを抱いていたのだ。だから判る。莉徒の思いは。

『私に見せるんなら、夕衣が一人でちゃんと受け止めて、それから私に見せてもいい、って思ってからじゃなきゃ、だめでしょ』

「……うん」

 順番という単純な問題ではなく、それは人と人との繋がりだ。絆というには少々照れ臭いけれども、夕衣と裕江の絆があって、勿論夕衣と莉徒の絆だってある。

『裕江姉は、あんたを裏切ったんじゃないよ』

「そう、かな」

『そう』

 断言。迷いもなく。

「でも」

『あんたが最初に裕江姉に似てるって言ったんじゃないの』

 軽く笑いながら莉徒は言う。それもまず否定したのは莉徒のはずだったけれど。それは当たり前だ。似ていると思えば全然違う部分もあって当たり前なのだ。人間なのだから。

「そうだけど、でも」

『大丈夫』

「莉徒……」

『大丈夫だよ、夕衣』

 言い聞かせるように、いや実際に言い聞かせているのだろう。莉徒の声は夕衣が驚くほどに穏やかだった。

「うん……。サンキュ、莉徒」

 夕衣はやっと笑顔になれて、莉徒に礼を言った。

『ちっきしょうオレが男だったらあんたの処女膜イタダキなのに!』

「そ、そんな大きな貸し?」

 むきー、とわざとらしく明るく言う莉徒に合わせ、夕衣も少し大袈裟に言った。

『まぁそこは英介の予約入ってるみたいだしぃ、諦めっかー』

「は、入ってない!」

 かっと顔が熱くなる。英介に耳に息を吹きかけられた時のように身体が硬直した。

『じゃあ予約入れといて、樋村英介、って。あぁでも英介に食われちゃったら私あんたのお姉ちゃんかぁ、それもなんか嫌だなぁ……』

「ば、ばかこのぉ!」

 続けざまにとんでもないことを言い出す莉徒に、大声を浴びせかけてやめさせる。猥談は元々苦手だが、聞く分にはそれほど嫌いではなかった。しかし莉徒が入ると途端にリアリティが増すというか生々しい話に転じてしまうと思っているのは絶対に夕衣だけではないはずだ。流石にそこまでの生々しい話は、特にそれが夕衣本人のことならば尚のこと嫌になるというものだ。

『うひゃひゃひゃ、元気出たか、カミナユイ』

「うん、ありがと」

 器用なのか不器用なのか判らないが、こういうところは英介に良く似ている、と思う。以前から幾度となく思ってきたことだが、莉徒と英介が別れた理由と言うのは、おそらく同属嫌悪で間違いないだろうと夕衣は確信した。

『お安い御用』

「ごめんね、突然」

 何だかどうして良いか判らない憤りをぶつけただけになってしまった。申し訳なくて、莉徒の気持ちがありがたくて、夕衣はもう一度謝った。

『謝んないでよ』

 語尾にやぁね、とでも付きそうな勢いで、あくまでも軽く莉徒は言った。それならば、と夕衣も言い方を変える。

「じゃあありがと、また明後日、ね」

『おーぅ、ちゃんと練習しとけよなー』

 莉徒の笑顔が脳裏に浮かぶ。やはり莉徒に電話して正解だった。

「おっけ、んじゃね」

 電話を切った後にふぅ、と嘆息する。これは夕衣が一人で立ち向かわなければいけない問題だ。莉徒にも英介にも頼ってはいけない問題だ。

(わたしと、裕江姉の絆……なんだ)


 もう一つ。

 決着をつけなければいけないことがある。本来ならば先延ばしにしてはいけないことだったのに、ここまで伸ばしてしまった。故意に傷つけようと思った訳ではないけれど、自分なりに答えを探そうと思っていた、などというのはきっと言い訳にしか過ぎないのだろうことを、今になって判ってしまった。

(また、失敗したんだ、わたし……)

 でもきっと、へりくだっている訳ではなく、うまく行くことなどほんの一握りのことなのだと思う。自分だけではない。誰も彼もが、失敗して失敗して、やっとうまく行く結果を出すことができるのだろう。

(だから)

 間違えそのものはきっと良くないことなのだろうけれど、間違えてしまったのならば、その過ちを正せば良い。それがどれほど惨めでも、どれほど大変でも、自分でしでかしてしまったことならば、それをそのままにしておくことはできない。

髪奈かみなさん」

 中央公園の中央噴水広場に、秋山奏一あきやまそういちはいた。ここで女を待たせないのが秋山奏一なのだろうと思う。付き合いは、一般的に考えればそれほど長い訳ではない。それでもきっとそこだけは間違いないと思える。

「ごめんなさい、呼び出しちゃって」

「いや」

 奏一の目の前まできて、夕衣は俯いた。判っていても切り出せない。

「ちょっと歩かない?」

「え、あ、うん」

 両手をジーンズのポケットに入れて、奏一は歩き出した。

「……」

 時間にして、どれほどの時間だったのかは判らない。けれど、距離に換算したならきっと結構な距離を歩いた。どのくらいかは判らないけれど、人通りが少ないところで奏一は歩みを止めた。

「おれさ、アホだから、気付くまでちょっと時間かかった」

「え?」

 唐突に奏一は言う。これは本題だ、と言わんばかりに。

「でも、ホントは何となく判ってたんだけどさ」

「何、を?」

「おれじゃだめ、ってことね」

「……」

 奏一の方が先に答えを出しえしまった。いや、きっと夕衣がそうさせてしまったのだ。返事を返さずにいた間、奏一はどんな思いだったのだろう。そう考えると返す言葉を失ってしまった。

「でもさ、やんなっちゃうことにアンタはダメって言われたとしても、自分でダメだって気付けないと、やっぱり自分で判断できないんだよね」

 いつか、音楽の話をした時に夕衣が言った言葉だ。

「……」

 誰かに言われて初めて自分で気付くまではきっとそれをしてしまう。周りがそういう雰囲気を出していても、いや、お前はダメだと直接言われ続けても、自分自身がダメだと思わない限りは、きっと続けてしまう。人を思う気持ちも、何もかも全て。そしてそれは他でもない、夕衣自身が奏一と二人で話したことだった。

「髪奈さんの優しさに、漬け込んだかもね」

「そんなことないよ」

 それは違う。夕衣が奏一の優しさに漬け込んでしまったのだ。待つ、と言ってくれた奏一を信じるような形をとって、夕衣は嫌なことから眼を背けていただけだった。人を振る、つまり人を、奏一を傷つけてしまうことに。

「うん、でも、もういいんだ、判ったから」

「……ごめんね」

 結局答えを出さないことが答えになってしまった。それもそのはずだ。良い返事ならば迷うこともないのだから。

「謝んないでよ」

 莉徒と同じことを奏一は言った。

「おれも、髪奈さんも、間違ってないでしょ?なんも間違ったことなんて、誰もしてないって」

「でも」

 それは違う。夕衣は明らかに間違えた。奏一の気持ちを踏みにじったと言っても過言ではない。思わせぶりな態度は見せない、と気を付けていたはずだったけれど、返事を先延ばしにすることが悪戯に奏一に期待を持たせてしまった。だから、無神経に英介と二人で出かけてしまったりもした。きっとそれは夕衣の罪だ。そうして何もしないうちに、奏一を奈落の底へと叩き落とした。

(最低だ……わたし)

「秋山奏一はどうせ何にも言わないからほっといて、適当に後でフればいいや、って思ってたんなら謝って欲しいけどね」

「でもそう思われても仕方ないこと……わたし、したよね」

 自分が、夕衣自身が待って、待ち続けて勝手に手遅れになったときよりも酷い。自分自身がはっきりしなかったからついた傷だ。だからその時の傷はきっと癒えるのも早かった。

「なんもかんも、誰も彼も結果だけ見て人を判断する訳じゃないでしょ」

「……」

 それでも奏一はそう言ってくれる。その優しさが痛いほど夕衣の心を締め付ける。けれど、この心の痛みは、甘んじて受け止めなければならない。贖罪と言うには大袈裟かもしれないけれど、きっと人の好意をないがしろにしてしまった罰だ。夕衣自身が勝手にそんなことを思うのは傲慢なことかもしれないけれど。

「おれは、そう思うから、髪奈さんに謝って欲しいとは思わない」

「……うん」

 かろうじて返事だけは返す。奏一の本意は判らないけれど、今は奏一の言葉を聴くことしか夕衣にはできない。

「まぁ、ちょっと暫くはお互い気まずいかもしんないけどさ」

「……」

 それは夕衣の気持ちが変わらない限り、どういう結果になっても起こり得る事態だ。だから、それはどうしようもないことだった。

柚机ゆずきと英介もああだし、できるだけ今まで通りに戻れるようにしようよ」

「そう、だね」

 そうなれれば良いけれど、とは夕衣も勿論思う。無理かもしれないし、できるかもしれない。これはこの先の夕衣と奏一のスタンスの取り方にも依るのだろう。そう考えると難しいことだ。今の段階では。

「んー……。今まで通りってのも違うか」

「かも」

 奏一もそこは判っているのかもしれない。一度こんなことがあれば、その仲を修復するのは容易ではないことくらいは夕衣でも判る。

「そう、髪奈さんは自分の気持ちにもっと素直になんないと」

「え?」

 奏一の言葉の意味を図り損ねてしまった。

「時間はかかったけど、判った、って言ったじゃん」

「……樋村ひむらのこと?」

 もうそれしかない。それほど周りから見て、夕衣は英介のことを好きなように見えるのだろうか。

「そ」

「でも……」

「判んない?」

「……うん」

 そして夕衣が迷いを持っていることも判ってしまうのか。莉徒もたかもそう思っていたようだった。夕衣がどうしたいのかが判らない、と確かにそう言っていた。

「英介さ、今までしてた、まぁ言い方悪いけど女遊びとか止めて、髪奈さんのこといっぱい誘って、何かしらお願いごとして、髪奈さんとの貸し借りを消さないようにしてたのにさ、それが全部無くなって、あいつが髪奈夕衣は無理だ、って思うまで、それに髪奈さんが気付かないと……。髪奈さんがわたしは失敗したんだ、って気付かないと判んない?」

「え……」

 正直に思う。そんなばかな、と。もしそれが本当ならば、夕衣は樋村英介に対して、どれほど思わせぶりなことをしてしまったのだろう。勝手に男女の友情だと思い込んで、英介の気持ちまでも今まで踏みにじってしまっていたのだろうか。

「おれも癪だからあいつに聞いた訳じゃないし、態々言ってやったりもしないよ。でも、あいつはそういう奴だよ」

「でも」

「それとも、今まで髪奈さんに頼ってた部分とか、貸し借りとか、そういうのをアイツが別の女と始めないと判んないかな」

「……」

 夕衣の反論を遮って奏一は続けた。それは夕衣にだって判らない。ぱったり連絡が途絶えてしまえば夕衣としても寂しい思いくらいはするかもしれない。本当にそうなってみなければ判らない。その時に初めて、もしも夕衣が英介を好きだったと気付いて後悔するのだとしても、今の気持ちをはっきりさせないことにはどうにもならない。もしも後悔するのだとしたら、きっとそれは本当に重い後悔になってしまうのかもしれないけれど。

「今まで表立って行動起こさなかったのも、あのばか、おれに遠慮してたんだ。んとに癪な奴だよ。自分だって好きなくせに……」

「でも、聞いた訳じゃない」

 きっとそれこそ自分で確かめなければいけないことなのだろう。もう放って置いてはいけない問題なのだ。英介のことも。

「ま、そうだね」

「それも変、か……」

 ふと気付く。そうだ。奏一が英介から聞いていないから何だと言うのだろう。誰かから確実に夕衣のことが好きだから付き合えば良い、と誰かに言われるまで動かないなんて間違っている。

「ん?」

「人を好きになるのって、そういうことじゃなかったよね」

 違う、そんなはずはない、と気持ちに蓋をすることは簡単だ。自分を誤魔化すことも、気持ちに嘘をつくことも、苦しいけれど、簡単なことだ。簡単だからそこに逃げようとしてしまうのは夕衣自身の悪い癖だ。

「人に聞いてどうこうするもんでもないね、確かに」

「自分ではっきりさせなくちゃいけないことだもんね」

「そうだね」

 奏一は笑顔になって言った。きっとどうにもやり場のない気持ちを抱えているはずなのに、夕衣に笑顔を向けている。

「なんか、厭味なのかもしれないけど……。ありがと、秋山君」

 好きという気持ちの最たるものではないけれど、恋とも愛とも違うけれど、夕衣は奏一が好きなのだ。それは以前から判っていたことだ。だけれど、それ以上でもそれ以下でもないから、こうして礼を言うことしかできない。どんなに感謝をしても友達として好きでも、それ以上のものには変わらないからこそ、本当はこんなことを言うべきではかったのかもしれない。

「まぁ厭味じゃないと思うけどね、髪奈さんの場合ならさ。でもま、残念ついでに最後にプレッシャーかけちゃおうかな」

「え……」

 またしても奏一の言っていることが判らず、夕衣は訊き返していた。

「おれ、髪奈さんのこと好きになって良かった、って思わせといて。せめて、次におれが誰かを好きになるまでは」

 奏一の本意は結局のところ判らないままだが、あえて夕衣は頷いた。判らないけれど、「おれが好きになった女は、こんな女だったのか」と思わせないようにしなければいけないということなのかもしれない。もしそうならばそれは判る気がするし、夕衣自身も失望はさせたくないと思う。堪えられはしなかったけれど、大切な気持ちを夕衣に向けてくれた奏一を、これ以上裏切りたくはない。今現在まで酷い仕打ちをしてしまったというのに、奏一はきっとそれを許してくれているのだから。だからこそ、その奏一の、この思いには応えなければならないのかもしれない。

「……うん、頑張る」

「頑張らないで、自然に」

「そっか」

 奏一が夕衣のどこに惹かれたのかは判らない。判らないけれど、夕衣が奏一に対し、特別に何かをした訳ではない。普段の夕衣を見て心惹かれるところがあったのだとしたら、それは変に意識してしまったところで巧く行くはずもない。

「簡単かもしれないけど、難しいかもね」

「そうかも」

 だからこそのプレッシャーなのだろう。罰と呼べるほどの罰ではないけれど、そこに囚われ過ぎてもいけない。

「じゃおれ、行くわ」

「うん」

 背を向けて奏一は歩き出した。夕衣はその背を見送りながら、考えを巡らせた。

(わたし、どうなんだろう……?)

 莉徒も奏一も、特に英介と親しい二人が、英介は夕衣のことが好きなのだと言う。対して夕衣はそれに迷いがある。どんな迷いかも明確ではない。とりあえず付き合ってみなければ判らないこと、というのも確かに存在して、それでとりあえず付き合ってみるという考えは、理解はできるけれど実行したいとは思わない。英介もとりあえず付き合ってみた女とは巧く行かなかったことが多かったと言っていた。

 確かに夕衣は英介を好きなのだろうことは、何となく自覚しはじめている。けれども、それが所謂恋愛感情なのかと問われると、どうしても首を傾げたくなってしまう。奏一が言った通り、失ってみなければ判らないのだろうか。

(お前はもうだめだって言われて、そこから気付けないと、何も判らないってこと?)

 お前は違う、と後から気付かされないと判らないのだろうか。激しい後悔に飲み込まれてからでないと何一つ判らないのだろうか。

(同じ、か……)

 それでは裕江ゆえが死んだ時と何一つ変わらない。

(夕衣は、間違っちゃだめだよ)

 まるで無垢な少女のように裕江は告げた。間違えてはいけない、なんて無理だと思う。間違えて間違えて、間違え続けて、やっと一つの正解に辿りつくのだと思う。だけれど、いくつもの間違いの中で、きっと一つ、決定的に間違えてはならないこともあるのだ。裕江はそこを間違えてしまった。

 いくつもある間違いと同じように、そこで間違えてしまったのだ。

(そこを、ってことだよね、裕江姉……)

 だから間違えないためにも、夕衣がするべきことはある。本当は判っているのだ。

(目を背けたって仕方ないんだよね)

 この街に来て、辛いことはあっても、独りで乗り越えようと思っていた。きちんと、一人で向き合おうと思っていた。その気持ちに嘘はなかった。その嘘のなかった気持ちに、仲間が付いた。

 信頼できる仲間達ができた。独りで立ち向かうことが怖くても背中を支えるのではなく、並び立ってくれる仲間ができた。そうして今の夕衣に変われた。

 自分自身の、この誓いを無駄にしないために、立ち向かわなければならないことが、まだ夕衣にはある。


 xlii Message END

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