xliii Ready to Love
出順はトリ前だった。全六バンド中の五番目。リハーサルは逆リハと呼ばれる順番で、通常の出番の逆の順番からリハーサルを行う。つまり、
「マスター、今日のPAは?」
「
「おぉー、ヤっさんか。じゃあ安心だ!」
PAというのはライブハウスでの音響を取り仕切る役割を担う人間のことだ。パブリック・アドレスという言葉の略称だが、それは本来電気的な音響装置そのものを指す言葉で、バンド、ライブ関係ではその音響装置を扱うエンジニアのことをPAと呼ぶ。そのライブハウスでの音量の調整などを主にするのだが、出演するバンドにより、ギターが主であったりピアノが主であったりするので、バンド毎の調整が必要となる。そのため、ライブでは必ず存在する、重要な役割を担っている人物だ。
「ヤスさん?良かった!」
「凄い人なの?」
「そ。自分でもバンドやってるんだけどね、色々考えてくれててさ、人間的にもPAの腕もすんごい良い人」
PAの名前を聞いて、
「へぇ、じゃあ安心だね」
「うん。私らの最初がヤっさんで良かったわ」
ライブ経験も多いのであろう莉徒がそこまで言うということは、本当に任せて安心できる人なのだろう。
「
「へぇ、そうなんだー」
「そ。
「え、そうなんですか」
すみれの言葉に夕衣は少々目を丸くした。こういった音楽的な繋がりは莉徒が強いと思っていたのだが、公子も中々にして強いのかもしれない。
「そ」
「え、もしかして、根回し……?」
「まさかまさか……オホホホ」
いや、オホホホは言っていなかったかもしれない。が、公子の目が物語っている。普段の公子からはなかなか想像がつかないが、いわゆるパワーハラスメントが発動されたのかもしれない。
「あ、そろそろ始まるね」
「私らも準備しとこ」
最初のリハーサルがそろそろ始まるようだった。莉徒がギターのチューニングを始めたので、みんなそれに習い、準備を始めた。
「おっけー」
リハーサルは無事に終了した。あれやこれやと莉徒が中心になって細かい注文を出したが、それをことごとくクリアしつつ、時間も守ってリハーサルは終了できた。腕の悪いPAだとリハーサルの音と本番で違う音になっていることがあるが、莉徒や公子達がこれほど信頼しているPAであればそれも少ないだろう、と夕衣も安心した。敢て難を言えば、六人構成であるIshtarではステージ上はかなり手狭な感じになってしまったことくらいだ。キーボードの
「とりあえず四時間くらいか……半端に空いちゃったね」
腕時計を見てすみれが言う。
「まぁ出順遅いとこうなるよねー」
「ほんっと逆リハの意味判んないわ」
確かに最後に一バンド目のリハーサルを終えて、セッティングをそのままにして本番を始められること以外、つまり、一バンド目とPA以外には何のメリットもないことではあるものの、一バンド目とPAにメリットがあるならば、それも止む無しなのかもしれない。
「何か食べるんだったら早い内にしとこ。唄ってる時にげっぷなんて洒落になんないよ」
「そうですね」
公子が苦笑しつつ言った。公子と同じく夕衣もボーカルを努める曲があるので公子の意見には激しく同意できる。本番中、しかも歌っている最中にげっぷなどしてしまったら穴を掘ってでも隠れたくなってしまう。
「酒!」
「あんた本番前に酒飲むの?」
「え、だめ?」
半ば呆れた様子で二十谺が言う。そんなことを言い出すのは勿論莉徒だけだ。
「失敗しないならいいけど……。失敗して絶対酒おのせいにしない?」
「そのくらい弁えてるって、いくらなんだって……。大体本番まで四時間もあるのに」
ライブ経験が豊富な莉徒のことだから流石にそんなことにはならないだろうけれど、もしもと言うことがある。以前夕衣が組んだことのあるバンドでも本番前に酒を呑み、失敗して、呑みすぎたわー、などと言うとんでもないメンバーがいた。しかしそれは酒のせいではなく、それを抑えられない本人の責任以外の何物でもない。夕衣の個人的心象だが、ステージ上で酒を呑んだりするミュージシャンは悪いイメージがいつも付きまとう。
「でもあんまり泥酔しててもみっともないし……」
「あんたら私をなんだと思ってんの?」
二十谺と夕衣で口々に言ったが、莉徒はむっとしてそれに答える。
「それなら一本だけ買ってみんなで一口ずつってどぉ?」
唯一成人である公子が言って笑顔になる。
「
兄弟をきょうでぇ、と言って莉徒がはしゃぐ。
「姉妹だと思うけど」
「何でもいい!やろう!」
英里の突っ込みも他所に、莉徒はひゃっほう、などと言っている。テンションが上がりすぎているのではないか、と少々心配になってしまう。
「よーし」
「み、未成年……」
「ゆ、ユイユイ堅いよ……」
無駄だとは判りつつも、一応夕衣は言ってみたが、すみれが苦笑してそう言った。
「ライブハウスは治外法権!」
「こんな時くらいイシュター様も多目に見てくれるって!」
「……そうだね!」
確かに少しくらいならば本番までの時間を考えても大丈夫だろう。あんまりガチガチに固まりすぎても楽しめなくなってしまう。この街に来て、大切な仲間達とやる初めてのライブだ。思い切り楽しんでやろうと夕衣は思っている。もちろんそれは全員が同じ気持ちなのだろうけれど。
「あ、そういえば打上って?」
「
未だにこの間の治外法権の意味は図り損ねたままだが、最後にちゃんと酔い覚ましのコーヒーを飲めば大丈夫なのだろう。そもそもそれほど夕衣は酒を呑める訳ではないのだが。
「さすが莉徒」
「まぁねん!さって、とりあえずどっか入ろ」
まだまだ秋の気配すら見せない日差しの下、六人は歩き出した。
涼子の店で軽食を終えて、ぷらぷらと本屋やらCDショップやらを巡り、本番三十分前にはライブハウスに戻ってきた。涼子は早々に店じまいをして駆けつけてくれると言う。ありがたいことだ。入口辺りには演奏を終えたバンドやその客達が各々たむろしている。そこに英介が来た。
「おー英介!」
英里が声をかけると、英介はすぐに近付いてきた。
「おー、これからか」
「うん、そう」
すみれが手首のストレッチをしながら答える。
「多分次の次」
「あれ?
その名を聞いて、少しどきり、とした。あれからまだ顔は合わせていないし、今現在も夕衣はどんな顔をして奏一と会えば良いのかが判らないままだ。
「先行ってるってメールあったから、もういるんじゃねぇか?」
「そっか」
一応莉徒には奏一のことは話してある。その辺は察しつつ、莉徒はそれ以上のことは英介には問わなかった。
「おー、楽しみにしてるわ」
(ん?)
笑顔になって英介が言う。てっきり何かからかってくるのかと思っていたので少々拍子抜けしつつも、夕衣は英介の顔を見た。何だか英介の感じがおかしいような気がしてならない。
「……」
「なんだぁカミナユイ、キンチョーしちゃってんのか?」
「え、あ、違うよ、大丈夫大丈夫!」
夕衣の視線に気付いたのか、英介が顔をにこりと面々の笑みに変えてそう言ってきた。内心を悟られないように夕衣は慌てて取り繕ったが、やはり英介の反応はいつもと少し違う気がする。
「なんだよ、ガチガチの
「お生憎様ですー」
それでも平静を装っているような感じがしたので、夕衣は英介の調子に合わせることにした。
「悪しからずー」
「何か違くない?」
「うむ」
などと些細なやり取りをしている間に、莉徒、公子、すみれ、二十谺、とメンバーがぞろぞろとライブハウスに入っていってしまった。
「え、あ、待ってよ」
「まぁまぁ、まぁまぁ」
それに着いて行こうとした夕衣の両肩に手を置いて、英里が英介と同じようなに満面の笑顔で言った。
「な、何?」
「しっかり」
耳元で英里はそう囁くと、ウィンクをしようとして両目を閉じた。
(ウィンク、できないんだ……)
いや、そうではない。
「ちょ……」
英介の前に押し戻され、英里もみんなの後を追って行ってしまった。
「……」
「……」
何となく気まずくなってしまう。何を言って良いか判らずに、ほんの少しだけ無言の時間が流れたが、すぐに夕衣は言うべき言葉を見つけて、口を開いた。
「あのさ」
「お?」
メールでも電話でも良かったのだが、今日英介と顔を合わせることは判っていたので、その時に伝えようと思っていた。
「
「……そうか。ま、あいつも鈍感な訳じゃねぇしな」
自分の顎を何となく触りながら、英介は言う。その意味を夕衣は掴み損ねた。
「え?」
「いや、コッチの話」
「そ」
それ以上言及はせず、夕衣は黙った。英介もそれ以上何かを言うつもりはないようだ。ちらり、と英介の顔を見上げると、なんだかやはり今日の英介は表情がはっきりしていない、と改めて思った。
「……」
「何か、変だね、今日」
「そうか?」
「うん」
視線をずらして英介は言う。元々夕衣はあまり人と目を合わせて話す方ではないのだが、その英介の視線のはずし方は少し気になった。
「……打上、あんのか?」
「うん、涼子さんのとこで。樋村も来るでしょ?」
「あぁ、でもその前にちょっと時間貰っていいか?」
「え、う、うん……。いい、けど」
何となく、覚悟を決めて夕衣は頷いた。もしかしたらその時間で夕衣と英介の関係が崩れてしまうのかもしれない。しかし夕衣にはどうにもできないことだ。この期に及んでまだそういった話ではないかもしれない、と心のどこかで思っていることも一面の事実ではある。
「おし、んじゃあとはそん時だ。今は集中しろ」
「うん」
いつものように英介が夕衣の頭の上に手を乗せた。ぽんぽん、と二度跳ねてから、その手はジーンズのポケットに吸い込まれていく。
「んじゃ俺も行くわ」
「あ、うん。あ、ありがとね、樋村」
「へへ、なんもだー」
何だかほんの少し、力をもらえたような気がした。
(そっか……)
きっとそういうことなのだろう。と、極自然に夕衣はその気持ちを自覚した。
今回のライブも演奏が終わった順に流れ解散という形になっている。夕衣が楽屋に入ると、Ishtarの面々だけがいて、他のバンドの姿はなかった。元々それほど広い楽屋ではない。二バンド入ればそれでいっぱいになってしまうほどの広さしかなく、しかもIshtarは六人バンドだ。ただでさえ人数が多いというのに他のバンドまでいたら狭くて仕方がない。
「おぉーユイユイ、決めてきた?」
「英里ちゃん、それすっごい勘違いだから」
ぐ、とサムズアップして英里が無邪気な笑顔を見せる。夕衣はそれに苦笑を返しつつ頭を掻いた。
「えぇ!そうなの?」
「う、うん」
すみれが大仰に言う。あんな場所で愛の告白をしたとでも思っているのだろうか。
「でもじゃあ何話してきたのよぅ」
「え、別に……」
ん?と顔を覗き込みならが莉徒も詰め寄ってくる。本当に何と言うことはない話しかしていないが、それだけでは済まされない勢いが莉徒にはあった。しかしどうにも話せることがないし、打上の前に時間をくれ、と言われたことは今この場では話せないような気がする。
「なぁんかあったね、これは」
「ちょっとはっちゃん!」
夕衣の後ろから覆いかぶさるように二十谺がもたれかかってきた。背中に感じる二十谺の豊かなバストの感触と吐息が耳にかかって思わず硬直してしまう。
「照れない照れない」
「公子さんまで……」
うふふ、とでも言いたげな視線で公子も乗ってきてしまった。
「でもさぁ、そんじゃ結局ユイユイって英介のこと好きなの?」
いきなり、何気なく核心を突いてくる英里に、夕衣は言葉を詰まらせた。きっとそうなのだ。まだはっきりと判った訳ではないけれど、夕衣は英介と一緒にいる時間が好きなのだ。きっと夕衣の中では唯一自然で、気取らなくても飾らなくても良い男性なのだ、樋村英介は。莉徒が言っていた自然が一番、という言葉の意味が理解できているような気がする。かといって、胸がドキドキするような感覚はない。それが今ひとつ夕衣を戸惑わせている。
「樋村はもう完全にそうだよねぇ」
「……やっぱりそうなのかな」
二十谺の言葉に夕衣は半ば同意した感覚で答えた。きっとそういうことなのだろうことは夕衣も薄々勘付いている。夕衣がこの街に来てからというもの、今まで取替え引替えと言っても良いほど、女には困らなかったらしい英介が彼女を作らなかったことも、Ishtarの面々とは昔ながらの付き合いがあるにしても、特に夕衣との付き合いが多かったことも、今思えば確かに樋村英介の気持ちの裏付けなのだろう。
「やぁねぇ、これでユイユイも私のいもういぃぎゃーっ!」
言っている途中で莉徒の胸を鷲掴みにして、更に捻り上げる。ブラジャーがずれる感触がしたがそんなことなどお構いなしだ。
「あんたねぇ!」
「ちょっと品がなくてよ、
夕衣が言い募ろうとしたところで公子がそれを制すように言葉を重ねてきた。
「ごめんなさい……」
「でも莉徒の元カレが夕衣と付き合うのって、莉徒的にどうなの?」
二十谺が首をかしげながら言う。
「全然オッケーじゃないの?だって私関係ないし」
「まぁそっか」
今となっては確かに関係のないことだろう。別れてしまえばお互いに誰と付き合おうが自由なのだから。
「夕衣だってそこ遠慮してる訳じゃないと思うし。……ねぇ?」
「う、うん、まぁ……」
確かに莉徒とのことは気にしていない。こんな不明瞭な感覚が纏わりつく以前は、英介は莉徒と寄りを戻したいのかもしれないと考えたこともあったが、それとこれとは少し、話の軸がずれている。
「じゃあ何が引っかかってるんだよぉ」
「何で英里ちゃんがそこまでエキサイトしてるんだよぉ」
英里の口真似をして夕衣は誤魔化すように言った。
「えぇ、だって楽しいじゃん、人のことって!ねぇ?」
「ひ、ヒトゴト……」
確かに自分以外の恋愛話は楽しいと夕衣も思うので判らないでもないが、本人としてはそんな軽い感覚ではいられない。
「そ、ひとごとだよ。夕衣がどう決めようと私らにはどうにもできないし、何も言う権利だってないんだから」
「重っ」
二十谺が言って莉徒が口元に手を当てた。
「軽々しくてもいいってもんじゃないしね」
公子も言って笑顔になる。二十谺は夕衣達と同い年ではあるが、どちらかと言うと公子筆頭の大人組に入るのだなぁ、と暢気なことを思ってしまった。
「ま、それもそうね」
「と、ともかくもう本番前なんだから集中!」
あれこれと悩んでしまっては失敗してしまう。今は目の前のライブに集中するべきだ。
「おっけーぃ」
「はーい」
各々が適当に返事を返したところで、ライブハウスのスタッフが楽屋に顔を出した。
「Ishtarさん、あと二曲なんで準備お願いしまーす」
「はーい、宜しくお願いします」
莉徒が言って立ち上がる。みんな雑談をしながら手首のストレッチなどは済ませてある。
「結構早いね」
「ちょい巻きかな」
「メールしとく?」
今日きてくれる人たちに開始時間が早まっていることを伝えた方が良いのかもしれないと思い、夕衣は携帯電話を取り出した。
「でも大体主だった人は来てくれてると思う。さっきメールも来たし」
「あぁそういえばさっき涼子さんと
「ホントにお店閉めてきてくれてるんだね」
先ほど店に行った時に涼子がそう言っていた。夕衣はここ数ヶ月で親しくさせてもらっているだけだが、二十谺や莉徒が足しげく通っていることもあるのだろう。それにしても涼子は態々店を閉めてまで、夕香は部下にお店を任せてまで、見に来てくれているというのは本当にありがたい。下手な演奏は絶対に見せられない。
「頑張んないとね」
「うん。それに夕香さんには見てもらうと迫が付くしね」
「そうなの?」
「うん」
夕香も
「ここいらのバンドは結構夕香さんに見てもらえるかどうかってステータスになってんのよ」
この界隈のバンドが一挙に集う楽器店兼リハーサルスタジオのカリスマ的存在だといっても過言ではない存在だ。確かに、夕香に見てもらえればそれなりに認められたのだと思えるのかもしれないが、それは夕香の感想を聞いてからだろう。一度はきて来てくれても二度目はない、となれば夕香に来てもらったことも無駄になってしまうような気がする。そういった様々な要因を含め、演奏に集中しなければならない。
「まぁバイトも真面目にやったし、その甲斐あったかな」
「かもね」
にこ、と莉徒と笑い合って夕衣も立ち上がる。
「よぉし、んじゃ……」
莉徒が言いながらす、と手を出してきたので、夕衣はすかさずその手に自分の手を重ねた。公子、すみれ、英里、二十谺がそれに続く。莉徒は息を吸い込む。
「がんばろー!おー!」
「おー!」
全員が声をそろえて莉徒に続いた。その途端。
「あー」
気の抜けた声。直後にべし、どがしゃ、どすん、ばたばた、がらんごろん、という派手な物音。
「な……」
メンバーは全員楽屋の入口に視線を集中させた。
「あ、あ、ご、ごめ……すいませぇん」
何もないところで転んだ人物は、夕衣や莉徒と背丈の変わらない、しかしその顔はどう見ても中学生ほどの可愛らしい女の子だった。女の子が夕衣達に謝罪をした直後、鼻血が右の鼻の穴から垂れた。夕衣の記憶が正しければトリのバンドで
「た、大変!」
英里がすぐに駆け寄って、すみれがティッシュペーパーを出す。公子は倒れてしまった機材や、その女の子が持っていたギター等を起こし始める。
(あわわ、あわわ)
「あ、あの、イシュタルさんですか?」
流れる鼻血も気にせずに女の子は言った。恐らく鼻を強かに打ち付けての鼻血だろうに、その女の子は笑顔でそんなことを言った。
「ちょ、ちょっと待ってね」
英里は言いながらすみれからティッシュを受け取って、女の子の鼻血を拭いた。まだ止まる様子がないのを見て、すみれが更にティッシュを取り出して丸め始めた。
「はぃー」
「……」
暢気なのか物事に動じないのか、抜けているのかともかく間延びした返事を返し、英里とすみれにされるがままになっている。
「ちょっとまだ止まってないから、激しい動きはしないでね」
「はぃー、あの、すいばせん」
鼻の穴にティッシュを詰められて聊か間抜けな顔で女の子は恥ずかしそうに笑った。
「あの、トリの、Lumiliaさんですか?」
「はぃー」
二十谺の問いに、何だか調子が狂ってしまうほど気の抜けた返事を返してきた。やはりLumiliaのメンバーだ。
「同じ女神同士だね」
二十谺が優しくそう言って笑顔になる。
「え?」
「ルーミリアってローマ神話だったっけ」
「そうですそうです」
Ishtarはバビロニア神話だというのは夕衣も調べて知ったが、他の国の女神のことまでは良く知らない。というよりも元々それほどそういったものに詳しい訳ではないのだが、最近になってあまりに知らないというのも、女神の名を冠する曲を創っている手前まずいと思い、少し調べるようになった。それもまだまだ付け焼刃で二十谺の知識には遠く及びそうもない。
「へぇーすごいはっちゃん」
「えへへへ」
何故か女の子が褒められたように照れ笑いをして頭を掻いた。
(か、変わった子……)
「もう私ら出番だしあと三十分で鼻血止まるかしら」
「あ、だいじょぶです」
莉徒が言って時計を見る。もうそろそろ前のバンドも最後の曲を始めるころだろう。殆ど時間はない。他のLumiliaのメンバーはまだ楽屋には来ていないようだが、この女の子を一人にするのは激しく不安だった。ちょっと躓いて大惨事にまで被害を広めてしまうという人間は漫画の中の住人だけではなかった。
「とりあえず横になってた方がいいかも」
「しつれいしまー……あぁっ!ちょっと
「あ、リノノン。うえへへへ」
「褒めてないしっ!」
(先輩?)
恐らくLumiliaのメンバーでベーシストだったであろう女性、リノノンが部屋に入ってきた。夕衣よりは若干年上だろう。公子と同じ年頃かもしれないその女性は入ってくるなり、女の子の名を呼び、駆け寄ってきた。どう見ても転んだ女の子、南奈の後輩には見えない。聞き間違いだろうか。
「あの、すみません、Lumiliaの
「あ、Ishtarの
すみれが言って、とりあえずティッシュペーパーを入ってきた璃野に渡した。璃野はすみれに言われるまま、楽屋の地べたに座り、自分の膝の上に南奈の頭を乗せた。
「はい、すみません……」
「ギターの方、大丈夫?」
派手に転んで、肩にかけていたギターのケースが結構な勢いで壁に激突したのを夕衣は思い出した。
「あ」
「すみません、ケース開けてもらってもいいですか?」
「あ、はい」
咄嗟に倒れた機材などを元に戻した公子に向かって璃野は頭を下げた。
「あぁ、弦切れちゃってるね」
莉徒がケースの中を覗き込んで言った。流石にギター本体が壊れるほどではないとは思うが、一度チェックはした方が良いかもしれない。
「変え弦は?」
「あるよ」
璃野が訊ねて南奈が即答する。
「あぁ、あとやりますから、ほんとすみません!本番がんばってくださいね!」
「ありがと!」
ぐ、と莉徒がサムズアップしてそれに答える。リハーサルではかなりレベルの高いバンドだと夕衣は思っていた。トリを務めるのも頷けるスリーピースバンドだ。ドラマーも女性で、Ishtar同様全員女性で構成されていた。それがこんな中学生ほどのギターボーカルの女の子だとは思わなかったが、音楽は年齢や見た目でやるものではない。
「ちょっとスタッフさん呼んで来るね」
「あ、私やりますから!」
英里が言って、楽屋のドアに手をかけた。
「あぁいいのいいの、見ててあげて」
「すみませぇん」
「すぃばせぇん」
本当に悪いと思っているのかどうかは判らなかったが、璃野に続いて南奈も謝る。
「なっちゃんもう二六なんだからもうちょっと落ち着いてよ……」
少し、叱咤するように璃野は言って、ぺし、と南奈の額を叩いた。その璃野の口調からもやはり南奈の後輩には見えない。見えないが、見えないのだが、璃野の言葉はあまりにも想像を絶したものだった。
「はいぃ?」
夕衣だけではなかった。莉徒も公子もすみれも英里も二十谺も、揃って南奈の年齢を聞いて頓狂な声を上げた。
「に、にじゅうろく?」
「あたしより年上……?」
愕然として公子が言う。これはもはや若く見えるだとか若作りだとかいうレベルではない。南奈には本当に失礼な話だが、成長が止まっているのではないだろうかと思ってしまう。
「えへへへ」
「あ、でも精神年齢は七歳です。……ちょっと何してんの!」
「お、お茶。……うぃっ」
ごそごそと動いて自分のバッグからペットボトルの茶をなんとか引っ張り出す。まるでペットと飼い主のような関係だ、ととことん失礼なことを思ってしまう。
「……」
「……」
自分でペットボトルのキャップを開けようとして、何度かチャレンジした後に自分では開けられないと悟ったのか、無言でペットボトルを璃野に手渡す。璃野もそれを無言で開けると、ぐり、っとペットボトルを捻って再び南奈に手渡した。
(な、なんか……。なんか……。可愛い生き物?)
動物番組を見ているような、一種癒しさえ感じ、Ishtarの全員が動きを止めてしまっていた。夕衣は過去に小動物のように可愛いと言われた経験が何度かあったが、この南奈を目の前にしてしまってはそれを言われることすら全力で否定しなければならない。そう、世界は広いのだ。
「あ、え、英里!」
「あぁ、は、はい!」
は、と公子がいち早く我に帰り、ドアノブに手をかけたまま動きを止めていた英里を促した。
xliii Ready to Love END
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