xl Melodies of Life

 タオルケット一枚かかっていないベッドの上で、じっとりと汗ばんだ身体のまま夕衣ゆいはむくり、と起き上がった。

(あっつー……あれ?)

 ふとカレンダーを見て気付いたが、今日は日曜だった。夏休みも後半に差し掛かり、すっかり曜日感覚が薄れていたようだ。時間は午前十時四五分。英介はまだ起きていないだろうな、と思いつつ、電気スタンドの脇に置いてある携帯電話を開き、メールを送る。

「えーっと……コーヒー、奢るから、今日どお?、っと」

 英介えいすけが起きれば自分の携帯電話をチェックするだろう。夕衣はベッドから降りて大きく伸びをする。両親が出かけていなければこんな時間に起きることなどできない。親が疎ましいとは思ったことはないが、こういった一種の自由がある一人暮らしにはやはり少々魅力を感じてしまう。夜中の内にタイマーで電源が落ちたエアコンの電源を入れ、風呂場へと向かった。


「お昼か……」

 シャワーを浴び、お気に入りの下着を身に着けて、洋服選びにかかる。お洒落な洋服をたくさん持っている訳ではないが、基本的には夕衣はスカートが大好きで、スカートならば結構な数がある。夏は薄着なので身体のラインが判りやすい。出るところが殆ど出ていない夕衣の身体のラインでは中々洋服選びも大変なのだ。もっと胸があれば着てみたい洋服はたくさんある。夏場のスカートはキャミソールが多いが、キャミソールも胸があるのとないのとでは見栄えも全然違う。基本的に女性の姿を魅力的に見せるためには夕衣のスタイルでは絶対的に足りない部分がある。が、しかし、気にしていても始まらないので、やはり気に入った洋服を着るしかないのである。

「んー……」

(まぁ、いっか……)

 ペパーミントグリーンのキャミソールワンピースを選び、薄手のサマーカーディガンを出す。英介からの返信はまだない。まだ寝ているのだろう。とりあえずは一人で昼食を済ませなければと思い、台所へ行くと。冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中身は悲惨だった。夕衣の料理の腕前では何か作れるほどのものは残っていない。一応食事代として、テーブルの上には三千円程置いていってくれたようなので、それを財布に入れて外で食事を摂ることにした。予定通りならば今日の夕方には両親は戻ってくるはずだし、お金はいつでも下ろせるので窮地に陥ることはまずない。

「うわー、今日もあっついなぁ」

 玄関を出て、日差しの強さに目を細める。本屋に寄って、何か本を買ってから涼子りょうこの店にでも行こうかと自転車にまたがった。


 本屋に入ったところで、携帯電話が震えた。一旦外に出て夕衣は携帯電話の通話ボタンを押す。

「もしもし」

 相手は樋村ひむら英介だ。

『おーぅ、カミナユイ』

「おーぅ、ヒムラエースケ」

 眠たそうな声が返ってくる。今の今まで寝ていたのだろう。

『今起きたんだが』

「だと思った。じゃあお昼まだでしょ?わたしもお昼、これから涼子さんのとこ行くつもりだけど、来る?」

(……これって)

『え、昼飯も奢ってくれんのか?』

「えー……。んー……まぁ、今回限りならいっか」

 つい考えてしまう。

(これってオサソイってやつかな……)

 つまり、夕衣が英介をデートに誘っているようなことになるのだろうか。ということは、つまるところそれは。

(オモワセブリ?)

『うわぉ、夕衣ちゃんアイシテルゼー』

「心無い告白ねー」

 それも英介の言葉で全くの杞憂だということを悟る。そうだ、英介には好きな人がいる。そしてこういった態度から察するに、それは夕衣などではありえないのだ。

(でも、それでも)

『ソンナコトネエヨー』

「今わたし商店街の本屋にいるから待ってるよ」

 他に好きな人がいるとして、好きでもない女と二人きりで出かけるようなことをするだろうか。夕衣ならばそれはないけれど、英介がどうだかは判らない。

『うぃー、んじゃ支度してすぐ行くわ』

「うん、じゃね」

(それもありえるかな……)

 樋村英介なら。

 英介のことはある程度判ってきたと思うが、女性との相対の仕方までは判らない。女性との相対というよりも、英介がきちんと異性として意識している女に対して、ということだ。夕衣がこの街に来たばかりの頃の英介の噂は女垂らしで、何人もの女と付き合っては別れて、ということを繰り返していたというものだった。それを踏まえれば好きでもない女と、特に夕衣との関係である、恋愛感情よりも友情の方が大きいだろうと思われる間柄の女と出かけることは何でもないことなのかもしれない。

(でもそれも一方的な考えか……)

 憶測をしたところで埒が明かない。けれども事実を確かめるには大きな一歩を踏み出さなければならない。その一歩がどうしても踏み出せない。今現在の夕衣と英介との関係はそれなりに心地良い物だと思う。それを壊してしまう必要性はないのではないだろうか。それに、英介の気持ちを確かめたとして、夕衣自身はどうなるのだろう。それも判らないままで行動は起こせない。

(あぁーもう、なんかぐちゃぐちゃ)

 ひとしきり頭をかき回してみたが結局何の解決にもならなかった。夕衣は本屋に入り、文庫本のコーナーへと足を向けた。


「っ!」

 ふぅ、と耳に息を吹きかけられた。

 全身に鳥肌が立ち、直後に硬直し、叫び声も上げられないまま夕衣は全身全霊の力をこめて、何とか振り返った。

「感じちゃった?」

 能天気に樋村英介は笑った。夕衣は英介の頬をつまみあげ、ギロリと睨み付けた。

「……今度やったらほんとにグーパンチだから」

「お、おぅ、すまん……。耳は感じなかったか……」

「そういう問題じゃないでしょ」

 ぱ、と英介の頬から手を離し、英介に背を向ける。

「お、何か今日服可愛いじゃん」

「え……。あ、ありがと」

 いきなりといえばいきなりの言葉に、夕衣は再び硬直してしまった。顔が熱くなってくる。

(ふ、不覚……)

「なんかいいにおいするし」

 すんすん、と鼻を近付けてくる。失礼極まりない行動だが、軽く香水を振っておいて本当に良かったという思いが先に立ってしまう。

「え、あ、さ、さっきシャワー浴びたばっかりだし……」

 とっさに嘘をついてしまった。多分赤面しているだろう。この顔は流石に英介には見せられない。が、恐らく耳まで赤くなっているのはばれているだろう。

「昨日のカッコも可愛かったけど、何か制服姿とバイトん時のデニムとかそんなんが見慣れてっかんなー、ちょっと新鮮ですよ髪奈さん」

「そ、そぉ?」

 俯き加減に夕衣は言って振り返った。ずっと背を向けているのも不自然ではないか、と誰かに言い訳もしておく。

「おぉ」

「どうせもっと胸があったらもっと似合ってるのにとか言うんでしょ?」

 それが樋村英介なりの褒め言葉なのだと思う。それを言われたところで夕衣も今更腹は立てない。いや、昨日の今日だ。状況が状況ならば腹も立つかもしれない。

「おまえなぁ」

「まぁいいけどー。とりあえず欲しい本は買ったし、行こっか」

「うぃー」

 何となくいつもの調子に戻れたような気がして、夕衣は出口に向かって歩き出した。英介もそれに続く。

「あぁ、そういや今日日曜だろ。沙奈さなに連絡取ってみっか?なんかCD借りるとか何とかなんだろ?」

 本屋から出た途端に熱気を感じる。憎たらしくもさんさんと光を放つ太陽を睨みつけながら、夕衣は歩を進める。それに続く英介がだるさを感じさせない声で言った。

「あ、そっか。沙奈さん日曜休みなの?」

「だろ。良く知んねぇけど、普通の仕事だったら日曜は休みだろうし。一応夕衣の連絡先は教えといたぜ」

「そっか、ありがと」

 後ろについていた英介が隣に並んだ。特に意識するような距離ではないのに、何故か少し間を空けてしまった。

「なんもだー。何せ昼飯までゴチソーしてもらえるんじゃこんくらいはなー」

「お昼はなし崩しでしょ」

 こうして並んで歩くと、夕衣の背が低すぎるのか、英介の背が高すぎるのか、とにかく親子のような身長差がある。まるで大人と子供だ。

「まぁそうだとしてもさ」

 苦笑しながら英介はポケットに手を入れた。この暑いのにブーツにジーンズ姿。英介はいつでもこの格好だ。ブーツカットのジーンズにTシャツ。Tシャツの上にはネルシャツやらを着ることが多い。Nirvanaニルヴァーナのカート・コバーンが確立したロックキッズのファッションだと言っても良いくらい、バンド者の男性には定番のファッションだが、慨してそういうファッションを好む人間は、あまり洋服などには頓着しない者が多かったりもする。

「何、そんなカツカツなの?」

「そういう訳じゃねぇけど、一応まぁ進学するつもりだし、貯金はしてんだよ。セコい話だけどメシ代は浮くならそれに越したこたねぇしな」

 苦笑を笑顔に変えて、難なく英介は話す。多少の仕送りがあるとはいえ、高校生が一人暮らしをして、進学のために貯金までするのは大変なことだと思う。そういう面では樋村英介という人間は非常に真面目なのだろう。

「ま、それもそうね。あてにされても困るけど」

「ヒモかよ」

 再び英介は苦笑した。

「女の稼ぎあてにする男なんてサイテー」

「バイトして、貯金までしてますけど」

「樋村がそうだとは言ってないでしょ。まぁ不本意ながらそういう点では樋村は凄いなーって思ってるんだから」

 何となく、考えてしまう。英介の女性遍歴がどんなものかは知らないけれど、ここまで忙しければ彼女とも巧くいかないことも多いのかもしれない。

 本当に、心の底から癪だと思うけれど、夕衣も英介の見た目はかなり格好良いと思う。だから別れてもすぐに彼女ができて、またすぐに上手くいかなくなって、というパターンの繰り返しをしている内に、とっかえひっかえ、などと言われているのではないだろうか。

「なん、不本意って」

「普段がばかじゃなかったら素直に尊敬するんだけどねー」

「ばかじゃねぇだろー」

 そこも癪に障るが、確かに英介は勉強もできる。それでも英介を攻める言葉はいくつだってあるものだ。

「じゃあスケベ、変態、無礼者」

「おまえなー。性格も生真面目でガッチガチのやつなんかつまんねぇだろ」

 英介の言う通り、確かにそれは一理あると思う。完全に合致する訳ではないが、秋山奏一あきやまそういちとの距離を感じてしまうのはそれもあるのだと思う。奏一は生真面目で優しい。見た目で判断するのは良くないけれど、見た目も悪い訳ではないし、今までの付き合い方やお互いのスタンスが少しでも違かったら、好きになっていてもおかしくはなかったのかもしれない。ただそれでも、英介のような一種いい加減とさえ言ってしまえるほどの気さくさや、歯に布着せぬ物言いは、奏一にはないものだ。

「だからバンドとかやってんの?」

「反抗期でバンドなんかやってられっかよ」

「それもそうね」

 ただ単に音楽が好きなだけだ。夕衣も英介も。莉徒りずや奏一、すみれや公子こうこ英里えり二十谺はつかも、みんなただ音楽が好きなだけなのだ。何かのせいで音楽に逃げた訳ではない。自分にとってそれが一番だと思えるから、今もこうして続けている。

「でもバンドは金かかるよなぁ……」

「ほとんどタダで路上でできる分、他よりはマシなんじゃない?」

「まぁな」

 以前の街にいた時の夕衣のように、一人で弾語りをするだけならアコースティックギターが一本あれば良いが、バンドともなると機材の運用やメンテナンス、運搬やレンタル等、何かと金がかかるものだ。しかしこの街には、そんなお金がないバンドマン達を助けてくれる楽器屋がある。

EDITIONエディションがあそこまで協力してくれなかったらやっぱり路上でやるのだって大変だと思うし」

「んだなー。まぁでもバンドやんなくなっちまうと、ホント俺、学校行って勉強してバイトに明け暮れるだけになっちまうからなー」

「そっか……」

 自分にとって一番だと思えるもの。それを続けることで自分らしさを発揮して、自分らしさを保ち続けることができる。

 そのをなくしてしまうことは、自分をなくしてしまうことと同義なのかもしれない。一番をなくしてしまって、それでも足掻いて一番を探そうとして、それでも一番が見つからなかったとしたら。

(その一番が、命にも代え難いほどのものだったとしたら……)

 つ、と胸元に手を当てる。

「なんだ?」

「あ、これ、裕江ゆえ姉の形見……ていうか遺品なの」

 シルバーチェーンに通したリングを英介に見せつつ、夕衣は言う。ほんの僅かだけれど、裕江の気持ちが判ったような気がした。掴みかけて、するりと手から零れ落ちてしまうような感覚。

「あぁ、前に言ってた従姉のか」

「うん。あ、続きは中でね。……ていうか、聴く?」

「とーぜん」

 気が付けば喫茶店は目の前だった。


「はい、夕衣ちゃん、これ」

 英介の呼び出しの後、三〇分ほどしてから現れた香居沙奈かいさなは、バッグから一枚のCDケースを取り出すと夕衣に渡した。

「ありがとうございます。済みません態々呼び出したりして……」

「いいのよ別に。涼子さーん、私アイスティーで!」

 言いながら夕衣の隣に座ると、沙奈は小さなポケットアルバムを出した。

「アイツと撮った何枚か。見てもらっていい?」

「あ、すみません」

 ポケットアルバムを受け取ると、英介にも見えるようにテーブルの上でそれを広げた。生前の、いつも無邪気だった髪奈かみな裕江がそこにはいた。夕衣に見せていたのと同じ笑顔だ。文字通り、死ぬほどに苦しんでいたなどとは微塵も思わせない、明るい笑顔。きっと沙奈も裕江が死ぬなどとは思ってもいなかったのだろう。

「あんま似てねんだな」

「そうだね。小さい頃は似てたんだけど」

 姉妹ではなく従姉妹だ。似ているところもあれば当然似ていないところも多くある。裕江は学生時代に陸上競技をやっていて、それで邪魔にならないのが気に入ったのか、いつも髪を伸ばさなかったので、髪が長い夕衣とはそれだけでも印象は違ってくるだろう。

「でもまぁ夕衣より……。なんでもねぇ」

「何」

 じろり、と英介を睨みつける。

「いや何でもないです」

「わたしよりスタイルは良さそう?」

 絶対にそう思っていただろうことはほぼ確信だったが、白々しい敬語で英介は夕衣から視線を外した。

「そんなこと言ってませんです」

「ばかじゃないの?昨日それで夕衣ちゃん怒らせたばっかでしょうよ」

 ばし、と意外と痛そうな音を立て、沙奈が英介の頭に手を置いた。全く持って沙奈の言う通りだ。が、そういうところを学習しないのもまた英介なのだ。

「言ってません」

「絵は……。いっぱい描いてたんですね」

 とりあえず英介は無視して、恐らく大学時代に使用していたアトリエなのであろう場所に写っている裕江を見て、夕衣はそう言った。

「そうね、私も描いてもらったことある」

「そうなんですか」

「えぇ。部屋に飾ってあるわ」

 あまり嬉しそうではない気がする。吐息混じりのその声は、何か、後悔の念を表しているような、そんな風に夕衣には思えた。

「何か彼氏の人とかいたんですよね」

 夕衣が持っている裕江の指輪は恐らく裕江が自身で買ったものではないだろうと思っていた。最期の時まで身につけていたものだったから、という安易な理由でしかないが、もしも夕衣ならばどうするだろうと考えたとき、やはり大切な人から貰ったものであれば、最期のその時まで身につけていたい、と思うだろう。

「えぇ。まぁアイツ、男付き合いとか下手だったから、あんまり長続きとかもしなくてね」

「その辺も色々疲れちまったのかもな」

 実感がこもっている言い方だ。

「樋村も?」

「あぁ、たまにあるぜ」

 胸ポケットから煙草を取り出そうとして、それを止めつつ英介は言う。

「えーちゃんも前までは結構お盛んだったよね、そういえば」

「お盛んっつーか、俺も長続きしねんだよ。何かと忙しいし、いろいろ鬱陶しいこともあるし」

 夕衣の感は案外当っていたのかもしれない。忙しくて相手ができなくなってしまえば、やはり長続きしないのだろう。

「まぁ、そうなのかもねぇ」

 英介は働きすぎなのではないだろうか。生活はかかっているし、進学の為の貯金もしなければならないとなれば、大変なのだろうことは判る。その上バンドまでやっていては確かに彼女の相手もできなくなってしまうだろう。夕衣や莉徒の様に英介の事情をしっかりと判っていれば、多少の我慢もできるとは思うけれど、事情を知った上でも我慢ができない人間だって今までに何人もいたのだろう。

「あ、そうだ。これ、沙奈さん判ります?」

 夕衣は裕江の指輪を見せた。

「裕江の?」

「はい」

「うーん……ごめん、ちょっと判んないな」

 友人のアクセサリーまでは流石に覚えていなくても無理はない。夕衣も莉徒や公子達のアクセサリーまでは流石に覚えていない。

「その辺の露店でも売ってそうなもんだしな」

「物の価値より気持ちだったんだと思うよ。あいつはそういう奴だったから」

「ま、そんな気はするな」

 確かに見た目からしてそれほど高価なものではないことは判る。値段よりもむしろデザイン性や物に込められた気持ちは夕衣も大切にしたいと思う裕江の気持ちは良く判った。だからこうして夕衣もずっと身につけている。

「この、人は?」

「あぁ、多分私が知る限りじゃ最後に付き合ってた奴だね」

「そうなんですか」

 アルバムの中に、仲睦まじそうにはにかんでいる三人の写真があった。沙奈と裕江と、その隣にもう一人。

「うん。そいつはね、ほんとイイヤツでさ。今でも付き合いあるけど……」

「まだ前に進めてない、ですか」

 夕衣でさえ三年以上も引きずっていたのだ。恋人であったのならば尚のことだろう。

「吹っ切った感じはあるけどね。大分前向きになったし。でもまぁ、陰りは、あるかな」

「わたしは……どうなんだろ」

 悪い意味ではもう引きずってはいないと思う。英介や莉徒、Ishtarイシュターの面々のおかげで。

「お前は進めてんじゃねぇのか?」

「かな」

「少なくとも俺はそう思うぜ」

 ぽん、と夕衣の頭の上に手を置いて英介は言った。何故だか今日はそれに腹が立たない。

「だったらいいな」

「引きずられるのと、忘れないっていう気持ちは別物だからね。私も色々あって、留学とかしちゃったけどさ」

「沙奈さんは裕江姉が陸上やってた頃から知り合いだったんですか?」

 沙奈もそれは相当なショックを受けたのだろう。きっと沙奈も夕衣と同じく、裕江とは誰よりも判り合えていたのだ、と思っていたのだろうから。

「うん。大学入ってすぐだったからね。あいつと仲良くなったのも」

「やっぱり、それだけのものだったのかな……」

「かもしれないね。その時は裕江も判ってなかったと思うよ。怪我する前はよく部活サボってたりしてたから」

 陸上を諦めて、絵を描き始めて、違うものを見つけて自分の一番にするのはとても大変なことなのだろう。労力を費やして、身も心も削りながらそれでも真剣に向き合えるほどのものと決別しなければいけなくなった時、夕衣は答えを出せるのだろうか。その時になってみなければ判らない。

「できなくなって初めて気付いた、ってことか」

「だろうね」

 無くしてみて気付くことはきっと、どんなことだって大きなものだ。そして大きな後悔を残す。後悔してもやり直そうとしてもそれが適わなくなってしまったら、もう背を向けるしかない。それがどれほど辛いものなのかは、やはり夕衣には判らない。

「俺らもそうなのかもな」

「うん?」

「いや、苦しんで曲創って、練習して、全然巧くなんなくて、サボったりスランプとか言い訳使ったりしてっけどさ」

「樋村……」

 夕衣と同じことを考えていたのだろう英介が言った。

「なんでこんなカンタンなのができねんだよ!とか、もっと練習してこいよ!だの、あぁもうてめぇとは二度とやんねぇよ!だの酔った席で本気でブン殴り合いんなったり、ビョーイン送りにされたり……」

「も、もういいから」

「えーちゃん落ち着け」

 一人エキサイトし始める英介の背をさすって、何とか落ち着かせる。好きで始めたはずのバンドでも、長く続ければ続けるほどに好きな気持ちだけではいられない。嫌な思に駆られるのはきっと誰でも同じなのだろう。

「そんなんでも、できなくなっちまったら、すんげぇ後悔すんのかもな、と思って」

「……それは、そうだろうね」

 それができなくなるその瞬間まで、夕衣はそれに向き合っていたいと思う。それが突然にできなくなって、堪えきれないほどの後悔の念が襲ってくるのだとしても。いや、だからこそ。

「今この時じゃないとできないこと、ってのを大事にしてたからね、あいつ」

「このCDに入ってる曲、そういう感じなんです」

 そう、その時にしかできないことなのだから。だからきっと夕衣が止まることはない。

Ishtar Featherイシュターフェザーだろ?」

「うん。裕江姉の前でね、初めて歌って聞かせたの」

「その時にしか出せない演奏と声だったんだね」

 それも勿論ある。けれどその曲は夕衣がギターを始めて、一番最初に作ったオリジナルソングだ。あの時の夕衣にしか創れなかった、大切な曲だ。

「下手ですけど」

「そんなことないよ」

 ついこの間まで見知らぬ人間であった沙奈もこの曲を夕衣の知らないところでずっと聞いてくれていた。あの時の夕衣の気持ちが詰まった曲を。

「だな。お前がIshtar Featherにこだわってんのも、そういうことがあったからなんだろ」

「うん……」

「沙奈には言ってなかったけど、この曲、ここいらでは有名でな」

「へぇ、すごいんじゃん夕衣ちゃん」

 最初に聞いた曲がその人の脳裏に焼きつく。莉徒も英介も、みんな最初はディーヴァのGoddesses Wingガッデセスウィングを聴いていた。それでも夕衣のIshtar Featherを聴いてくれた後はみんながIshtar Featherの方が好きだと言ってくれた。本当に嬉しかった。そしてその後に気付いたこともあったのだ。Ishtar Featherよりも他の曲が好きだという人がいたことにも。

「いや、有名になってんのは夕衣が唄ったもんじゃねぇんだ」

「え、なんで」

「誰かがカバーしてんのが有名になったんだよ。いつの間にかディーヴァって呼ばれるようになって、曲名も変えて」

「誰よそれ、ムッカツクわねぇ」

 ぱしん、とテーブルを叩きながら沙奈は言った。莉徒も初めは夕衣の正当性を強く押してくれた。だけれど、そういうことではないのだ。

「判りゃ苦労しねぇって」

「でもわたし、それが偽者で、わたしが本物です、なんて言うつもりないからいいんです」

「でもさ」

 釈然としないまま沙奈は夕衣の言葉を聴いた。夕衣の曲のことでこれほど真剣になってくれる人がここにもいた。本当に嬉しいことだ。

「裕江姉との大切な思い出の曲だったから、こんな風になってることに最初は驚いたけど……」

「そっか」

「ディーヴァが誰だかは判らないけど……。彼女もきっとこの曲を好きになってくれて、自分なりに唄ってみたかったのかな、って思えるようになったんです」

 夕衣も早宮響はやみやひびきの曲を勝手にアレンジしてみたことはある。良い曲ができたと思ったら、殆ど早宮響の曲と展開が同じだったこともある。思い入れのある曲であればあるほど、自分なりに唄ってみたい、自分なりに変えてみたいと思うことは、きっと音楽をやる者にとっては自然なことだ。最初は確かに腹も立った。しかし今ではそれはどうでも良いことになっていた。

「偉い!」

「何様よ」

 べし、と英介の頭を沙奈がはたいた。

「英介様だ!」

「沙奈さん、今度ライブやるんで、良かったら来てください」

「おー、絶対行く!」

 英介のたわごとを無視して夕衣はチケットを取り出すと、沙奈に渡した。

「何だよ俺らん時は来ねぇくせによー」

「だってあんたらの曲激しすぎるんだもん。私はもっと静かな曲が好きなの!」

 確かに英介達Unsungアンサングは激しい、攻撃的な曲が多い。アコースティックともなればまた全然違った装いを見せるが、基本的なUnsungのスタイルはやはり攻撃的なロックなのだろう。

「Ishtarだってどうなっか判んねぇぜ。何気にロック姉ちゃん達の集まりだったりすっからな」

「確かに……」

 夕衣は苦笑して言った。中でも莉徒と二十谺は激しい曲を好んで聴いているし、彼女達が創った曲はIshtarの中では一番激しい曲になった。全てが大人しい曲では三十分という時間の中でも退屈してしまう。折角貴重な時間を割いて足を運んでくれた人達に、退屈な思いはさせたくない。

「Ishtarってバンドなの?」

「はい。わたしの曲から取ったみたいで」

 頭を掻きつつ夕衣は笑った。何とも気恥ずかしい。

「いいじゃない、女神様。楽しみにしてる」

「ありがとうございます」

 そうか、沙奈はイシュターが女神だと判る人なのか、と思いつつ、頭を下げた。


 xl Melodies of Life END

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