xxxix Love Me Do
(とはいうものの……)
「さ、
「あ、そうだな。乗ってけ、送っから」
倒した自転車はどこも壊れている様子はなかったようで、英介は自転車を転がし始めた。
「え、う、うん」
「とりあえず公園出てからな」
「うん」
店に電話をかけながら歩く英介の後について夕衣は歩き始めた。そういえば英介の自転車は荷台が付いていなかったはずで、店のものを借りたのだろうかと疑問に思ったが、それを訊くには今の雰囲気は少し場違いのような気がした。
「……」
「なんだよ、まだ怒ってんのか?」
「お、怒ってない……けど」
振り向かずに英介は言って、夕衣も後ろについたまま答えた。
「けど、なんだよ。あ、沙奈、俺。……うん、送ってからすぐ戻るわ。悪ぃ、んじゃ。……るっせぇよ。おー、んじゃな」
「何だって、沙奈さん」
言いかけた先を追及されないうちに、夕衣は沙奈との電話の内容を訊いた。
「店は何ともないからちゃんと責任持って送ってけって」
「うわぁ……。後で沙奈さんに謝っといて」
この先いつ合えるかも判らないし、謝罪できる機会もいつになるか判らない。未だに初対面の人間には名乗り出ることも中々できずに恥ずかしい思いをしたというのに、このまま黙っていては申し訳が立たない。
「自分で謝れよ」
「え、だって
英介の言うことも尤もだが、そもそもは英介があんなことさえ言わなければ何も起らなかったのだから、責任の一端は英介にもあるはずだ。
「わぁかったよー。で、連絡先も聴いといた方がいんだろ?」
「え、知らないの?」
意外な答えが返ってきた。いざとなれば英介にCD-Rを渡してもらって、それを受け取ろうと思っていたというのに。
「店のマスターの彼女のナンバーを、何故俺が知ってると?」
「あ、そうか」
そもそも英介はそういった点で気遣いを見せる人間だ。夕衣の携帯電話のナンバーやメールアドレスを聞く時も、便乗という形ではなく、自分が知りたいと思った時に、きちんと聞くタイプだ。
「まぁまた時間ある時にでも来ればいいじゃねぇか」
「……でも」
「もう言わねぇよ、あんなこと。……悪かったって」
ぽん、と夕衣の頭に手を乗せて英介は苦笑した。
(あれ……)
いつもの子供を諭すような感覚ではない。頭の上に乗った英介の手を払おうと思ったが、何だか調子が狂ってしまう。
「う、うん、いいよもう……。わたしも、なんかムキになりすぎちゃったし……」
「俺もさ、別に本気でばかにしてる訳じゃねぇよ」
「嘘」
こういう嘘をつくから夕衣が怒るのだと何故判らないのだろうか。だからきっと何度も同じことを繰り返すのだ。
「嘘じゃねぇって。言ったろ、世の中にはちっさい胸をこよなく愛する男がいるって」
「あんた違うって言ったじゃない」
「言った」
「なんなのよもう……」
元々表情や言動から行動が読みにくい類の人間であることは判っているが、ここまでくると夕衣にはもう何がなんだか判らない。
「言ったが、別にばかにしてる訳じゃないぞ」
「は?」
「別にキライでもない」
「まぁ莉徒と付き合ってたんだしね」
どうしても小さい胸が嫌いなら莉徒ともそんな冗談を言い合えないだろうし、そんなくだらないことが原因で別れたとしたら、夕衣にも軽はずみな言動はできないはずだ。
「俺が女と付き合う基準は胸の大きさかよ」
「今までの話を統合するに……」
「違うわボケ」
「ボ……」
何となく話しているうちに、公園の出入り口まで歩いてきてしまった。英介は自転車にまたがると、夕衣が荷台部分に乗るのを待った。
「おら乗れ」
「う、うん……」
荷台のある自転車に二人乗りをするなどいつ以来だろうか。スカートがタイヤやチェーンに巻きつかないように気をつけなければ、と思いつつ、夕衣は荷台に座った。
「あ、あひゃっ、や、ヤメローオマエー」
どこを掴んで良いか判らず、とりあえず目の前にあった英介の脇腹を掴んだ瞬間、英介が世にも珍しい声を発した。
「え、樋村、脇腹弱いんだ!」
思わぬ弱点を発見して、いびり倒してやろうかとも思ったが、これではいつまでたっても家に帰り着けそうもないし、走っている最中にそんなことをしたら転倒しかねない。
「そう言うてめえは強いのか?ん?」
「い、いや弱いですっていうか、それ女子にしたらセィクハラーよ!」
ぐるり、と上半身だけ振り向いて、手をわきわきしながら英介は言った。確かに英介の言う通り、あまり脇腹が弱くない人間などいないと思う。夕衣も例に漏れず、かなり弱い。事実先ほど貴につ疲れた時も珍妙な声を上げてしまっていた。
(あれもセィクハラーだ……)
いつか復讐することを誓い、一人頷く。
「男女差別……」
「こういうのは区別って言うの!」
「脇腹を狙いつつあわよくばその小さなお胸に手があ!っとか思ったらふくらみが小さすぎてかすりもしおぅふっ!」
言い終わるや否や、夕衣は英介の脇腹を今度は掴むのではなく、殴った。それもグーパンチだ。たまらず英介の身体は横にくの字に折れ、奇妙な悲鳴を上げた。
「あんたね……」
つい今しがたその手の話題で夕衣が激怒したことをもう忘れたのだろうか。元々悪意がないのは判っていることだが、失礼なことには変わりない。
「お、お前な、もう少し加減ってもんを……」
だんだん暴力的になってるよなー、とぼやきながらも脇腹をさすり、英介は言う。
「今のは樋村が悪いんですー。ほら行けー樋村英介号!」
「へぇーい」
今度は背中をぽんぽんと叩き、それを合図に英介は自転車を漕ぎ出した。
「ふー、本日二度目」
夕衣の家の前まできて、英介は呼吸を整えた。
「え?」
「店から出てってまさか公園行ってると思わねぇからよ。まずここにきた」
「そっか……」
時間が経てば経つほど、やはりあの行動は短慮だったかもしれない、と夕衣は後悔した。沙奈に店番をさせて、英介を翻弄させてしまった。
「たく、寄り道なんぞしやがって」
「だってさっきはむかむかしてたんだもん」
「何もなかったからいいけどなぁ、こんな時間に公園なんか女一人でうろつくんじゃねぇよ。あそこ、真夜中は危ねぇこともあんだからな、マジで」
ハンドルに肘をついて、英介は言った。額には大粒の汗が浮かんでいる。夕衣が平均体重よりもはるかに軽いとは言え、人一人乗せて自転車を漕いでいればやはり疲れもするだろう。
「へー、心配してくれてんだー」
「ったりめーだろうが」
「……え」
あまりにも意外な言葉が返ってきて思わず絶句してしまった。てっきりばーか、そんなんじゃねぇよ、だとかいつもの調子で返してくると思っていた。
「お前な、ホンットに俺の冗談真に受けすぎて女としての自覚、薄れてんじゃねぇの?大体バイトん時だって奏一がいなきゃ俺が送ってるっつんだよ」
「じょ、冗談て……」
すぐには思い浮かばない。普段から英介には散々なことを言われているような気がするのは夕衣の勘違いではないはずだ。
「女だと思ってねぇとか、あれ、お前が勝手に言ってるだけで俺はひとっ言もそんなこと言ってねぇし、思ってもねぇからな」
「嘘」
信用できない。莉徒の勘だって信じられないままだというのに。
「嘘じゃねぇよ」
「嘘ですぅー!」
わぁ、と喚き散らす。そんな夕衣を見て英介は一つ、嘆息した。
「あのな……。俺ぁさっき沙奈にホテル連れ込んだりすんじゃないよ、って言われたばっかだよ。ってぇことはそういう可能性も沙奈は考えてるってことだな。んで、今晩、お前んちは誰も帰ってこない訳だ。そんでもって、まぁお前はまんまとその状況で男を家に連れてきたということになる訳だが……」
英介は一気にまくし立てて、胸ポケットから煙草を取り出すと火を点けた。
「ちょっと……」
ふぅ、と煙を吐き出した後、英介は一気にまくし立てた。
「で?おまけに俺はどうやら顔だけは良いらしいが性格には難有りで、女たらしで何人もの女と付き合ったりやったりしてるしょーもねー男で、そんなしょーもねー俺の今までの経験上、つまりこれはGOサイン頂きましたっつーことで、お前を頂きたくなっちまったんだな、コレが」
「え、ち、ちが……」
夕衣の反駁もそこそこに英介は続ける。
「さらに、俺にはさっき、急ブレーキかけたときに背中に当たった夕衣の胸の感触がずーっと残ってて、すっげぇむらむらキててそんな挑発されたらもうたまんねぇよ、と。……さーてどうするよ」
夕衣の言葉を他所に英介は続ける。そこにいつもの軽口ではない雰囲気を同居させながら。深く煙草の煙を吸って、ゆっくりと吐き出すと、英介は真剣な眼差しで夕衣を見た。
「……そ、そういうの、やだ」
自分の両肩を抱いて夕衣は一歩英介から遠ざかった。そんなつもりで送ってもらった訳ではない。確かに家に誰もいないからといって夜中に遊び歩いたのは夕衣だけれど、それは英介がそんなことをしない、と心のどこかで決め付けていたからなのかもしれない。本当に英介が自分を女として見ていたのならば、今この状況で英介が強行手段に出てもなんらおかしくはないのかもしれない。それでも、そういうのは嫌だ、と思う。仮に英介が夕衣を女として見ていて、夕衣のことを好きだったとしてもだ。
「何が」
「わたしGOサインなんて出してない!」
「ま、んだろうなぁ」
ジーンズの尻ポケットから携帯灰皿を取り出すと、その中に煙草の灰を落としながら、急に英介は軽い口調になった。
「え?」
「だから、そこだっつの」
ぴ、と煙草の火が点いた先を夕衣に向け、英介は笑顔になった。
「あ、自覚……」
「そ。まぁ妙に警戒されんのも嫌だけどな」
夕衣は確かに今まで英介をそういった目で、男性として見ていなかった。それは夕衣が勝手に英介も夕衣を女扱いしていない、と思い込んでいたからなのかもしれない。今英介が強硬手段に出なかったのは、女として見てはいても、抱くほどの魅力がないか、無理やりそういう行為をすることが好きじゃないかのどちらかだろう。
「それと、物のついでに言わせてもらうけどな、俺ぁこういう状況で女を連れ込んだり、無理に迫ったりもしねぇよ。……ま、信じなくていいけど」
「……ごめん」
「いいよ。ほら、入った入った」
いつの間にか夕衣の方が英介を色眼鏡で見てしまっていた。結局結果だけ見れば英介はこうして心配して夕衣を探してくれて、家まで送り届けてくれた。貴に妙な悪戯をされた時も本気で心配してくれていたことを遅ればせながら夕衣は思い出した。
「あのさ、樋村」
「あ?」
「男女の友情ってあるのかな」
夕衣と英介こそがそういう仲だと思い込んでいた。しかし、恐らくそれも夕衣の勝手な思い込みなのかもしれない。英介が今までに夕衣を送ってくれたり、こまめにメールや電話をくれたりしていたのは、夕衣に好意を寄せているからなのか、普通に仲の良い女友達だからなのかは判断できない。ただ、どちらの可能性もゼロではないことは理解できる。
「はぁ?」
「確かにあんたと
「そら誰のこと言ってんだ」
「え?」
夕衣の真意を読み取ってか、英介はそう言った。
「それは、
夕衣に迷いが生じていることを、きっと英介は感じ取っている。
「……やっぱりいい」
(やっぱり訊けない……)
この流れから自分のことをどう思っているか、などと訊いてしまったら、英介にも変に勘違いされてしまうかもしれない。
「んならいいけど。あんまぐだぐだ考え込んだってしょうがねぇぞ」
「うん……」
「なんかお前、今日おかしいぞ」
英介に言われるまでもなく判っている。そんなことは。いつも言われていることで激昂してみたり、殆ど個人的に話したことのなかった貴に相談を持ちかけたり。裕江の親友であった人と偶然に出会ってしまったことで、きっとどうかしている。
「だろうね」
「……ま、判らなくもねぇけどな」
そこは英介も慮ってくれているのだろう。
「樋村さ、自分の気持ち、判んないことってある?」
諸々の含みも込めてみる。英介への気持ちも、夕衣自身の気持ちも、はっきりどうだ、という答えは夕衣の中にはないままだ。
「だから今好きじゃねぇ、ってはっきり判ってんなら断っちまえって。そんなもんしょうがねぇし」
「樋村のこと聞きたいの」
「俺?」
今夕衣をどう思っているか、ではなく。夕衣のような状況になったことがあるのかどうか。恋愛経験が豊富な英介ならばその辺りの答えは何かしら持っているのではないかという期待を込めて。
「うん」
「俺が今、例えば誰かのことを好きかどうか判らない、とかそういうことか?」
「うん」
「確かめるさ。色んな方法で」
やはりそういった悩みは英介にもあるのだ。その解決法は英介なりのやり方があるとしても。
「例えば?」
「まず話すことだろうな。俺はそれで大体判る。何となくだけど、な」
「何となく?」
「はっきりしねぇことはあるし、判ったつもりで失敗、なんてこともあるさ。でも、相手のことはさておいて、てめえのことならさ、こいつのこと好きになれそうだなとか、好きかもとか、何しろまずコミュニケーションが取れなきゃどうしようもねぇよな」
(ふむ……)
英介なりのやり方で言うならば、それでも奏一はそういった、好きだとか嫌いだとか、所謂恋愛感情からは外れてしまう存在なのだろう。
「好きになれそう、って思ったら付き合っちゃう?」
「……こともあったけど、俺の場合は上手くいかなかったな」
人それぞれなのかもしれない。英介の場合はそれで上手くいくことはなかったけれど、それで上手くいく人もいるのだろう。何ごとも一例で考えを決めつける訳にはいかない。
「そっか……。莉徒とは?」
「お前ねぇ……。まぁいっか。元鞘とかいう話だったらゼロだ。あ、ちと待て」
何を言い出すのか、という口調で英介は言った。結論だけ言って、恐らくは沙奈からかかってきたのだろう電話に出た。英介が半ば呆れているのは判っていたが、英介と莉徒の復縁は英介は望んでいないことだけは判った。
二人の間に何があったかは判らないけれど、お互いにそういった気持ちがなくなるほどの付き合い方をしたのだろう。いつか、英介か莉徒かに聞ける日がくるかもしれない。
「あぁ、今送り届けたとこ。すぐ戻るわ、悪ぃ」
「あ、ご、ごめん……」
そうだ。英介は仕事を抜け出して夕衣を探しにきてくれたのだ。
そのことをすっかり忘れて夕衣が言いたいことだけを言っただけだった。
「いいって。んじゃな!」
そう言って英介はペダルを踏み込んだ。
「あ、樋村!今、好きな人いる?」
思わず夕衣は言っていた。本当に、いきなり口を突いて出てしまった言葉だ。その夕衣の言葉に英介はちりんちりん、と自転車のベルを鳴らした後に振り返って、笑顔で叫んだ。
「……いる!」
誰もいない家に戻り、自室に入る。深夜とはいえ部屋の中は熱気が篭っていた。夕衣はすぐに冷房の電源を入れると、ベッドに腰掛け、ぼうっと天井を眺める。高鳴った鼓動が先ほどから治まらない。はっきりと英介は言った。英介の好きな人というのがもしも夕衣だったら、夕衣はどうしたら良いのだろう。
「どうするも何も……」
相手を異性扱いしていなかったのは夕衣の方だった。恐らく英介に直接そういったことを言った覚えはないが、それでも英介には夕衣の考えていたことが判っていたのかもしれない。
ネックレスにした
「どうしたらいいかな、裕江姉……」
夏休みのアルバイトはもうあと数えるほどの日数くらいしか残っていない。夏休みもいつの間にか後半に突入して、ライブも近付いてきている。四人だけで顔を合わせる機会はもう少ないとはいえ、学校では奏一とは同じクラスで、夏休み前でも行動範囲がかぶっていたため、頻繁に顔を合わせていた。まずは奏一への返答をしなければならないけれど、この先顔を合わせるたびに気まずい空気が流れるだろうことは目に見えている。ネックレスのチェーンを外し、部屋の明かりに透かしてリングを見る。
「……」
生前、裕江も結構な人数の異性と付き合っていたようだ、と聞いたことがある。夕衣も直接裕江から幾度か恋の話を聞いたことがあったが、夕衣が中学生の頃だ。重苦しい話よりも、上手くいっている、楽しい時の話ばかりで、それほど踏み込んだ話は聞いたことはなかったが、裕江も恋に悩んでいたのだろう。
(そうだ)
過去の裕江を知る人物に出会えたのだ。元々裕江が住んでいた街だ。そんなこともあるだろうことは想像していたが、夕衣と裕江とでは年代が違う。沙奈と出会えたのは僥倖だったけれど、もしかしたら今までも裕江を知る人物と出会っているのかもしれない。
ともかく、沙奈とはもう一度会ってみたい。裕江が持っていたはずのCD-Rを借りたいこともあるが、裕江の話も何か聞けるかもしれない。夕衣は携帯電話を取り出すと、英介にメールを入れようと文字を打ち込んだところで、その手を止めた。
「あんなこと、訊くんじゃなかった……」
だけれど、やはり気になってしまう。莉徒ではない誰かに英介は想いを寄せている。それが誰かは判らないけれど、少なくとも夕衣の友達の中にはいない気がする。
(そうとも言い切れないか……)
(もう!)
結局夕衣は半ば自棄になりつつも、送信ボタンを押してしまった。
程なくして英介から電話がかかってきた。時間にして三時過ぎだ。今日はずいぶんと遅くまで働いていたらしいが、恐らく夕衣のせいだったのだろう。
『まだ起きてたか』
「う、うん」
『沙奈にお前の連絡先、教えといたぜ』
「あ、うん、ありがと。今日はずいぶん遅いね」
『まぁ、今日はしょうがねぇよ』
英介は苦笑したようだった。電話でも表情は何となく読み取れる。
「わたしのせいだね……ごめん」
『おー、んじゃ涼子さんとこのコーヒーな』
「う、うん……」
あくまでも能天気に英介は言っているが、沙奈や、間接的には
『なんだよ、気にすんなつったろ。俺も悪ぃことしたし、大した問題じゃねぇよ』
「バイト代とか減らされないかな」
『大丈夫だって』
今度は苦笑じゃなく、本当に笑いながら言った。本当に大したことではなかったのかもしれないが、それでも、と思う。英介への済まないと思う気持ちよりも、今は自分への嫌悪感の方が大きくなってしまっている。
「それならいいけど……」
『なんだよ妙に優しくなっちゃって』
くくく、と笑いの尾を引きつつ、英介は愉快そうに言った。
「わ、わたしがやさしいの、へ、変かな」
言われて見れば恐らく、樋村英介という人間に対して夕衣は優しくなかった。いつも辛辣なことしか言っていなかった気がする。英介が面白がって夕衣をからかうことも悪いのだが、その度にムキになって、まるで子供染みたやり取りしかしていない。
『や、多分さ、元々そういう性格なんだろうぜ、お前さんは』
「え?」
一瞬英介が言ったことの意味を掴み損ねる。そんな機会もシチュエーションもなかったように思うが、夕衣が英介に優しくする必要性は今までなかったはずだ。
『や、お前断んねぇじゃん。俺がいきなりスタジオ来いっつったり、モーニングコール寄越せつっても』
「結果的に、だと思うけど」
それでも文句の一つは言うし、コーヒーやケーキだって英介に奢らせた。小なりとはいえ、見返りを求めるのは優しさというのかどうか、今一つ夕衣には判らないが、確かに迷惑料の請求としては持ちつ持たれつ、微々たるものなのかもしれない。
『だとしてもさ』
「うーん」
『基本的に、お前はイイヤツなんだと俺は思うぜ』
「そんなこと、ないよ……」
か、と顔に血液が集中した。イイヤツ、というのは中々微妙なところだとは思うが、それなりの信頼感がお互いになければ、あまり軽々と口にできるものではないような気もする。それよりも女性としてだとかそういうことではなく、人として英介は髪奈夕衣という人間を認めてくれているのだ。
『ま、自分がそう思ってんならそれでもいいけどよ』
「でも樋村も案外イイヤツだよね」
『なん、案外って』
「だって絶対ヤな奴だと思ってたもん」
本当に最初のうちだけだったが。莉徒を介してではあったけれど、英介と仲良くなるのは本当に早かったと思う。そう思えば、英介も莉徒と一緒で、夕衣に身体ごとぶつかって付き合ってきてくれていたのだ。そしてそれはやはり、夕衣も同じだ。だからこうして話していても、自然体でいられて、疲れることがないのかもしれない。
『ま、今でもそう思ってる奴はごまんといると思うけどな』
「敵、多そうだもんね」
『は、莉徒ほどじゃねぇよ』
短く笑って英介は言った。学内での莉徒の敵は相当に多いのだろう。男と女の気質の違い、と言ってしまうと乱暴だが、男友達同士の喧嘩は女友達同士の喧嘩よりも、温度は高いが湿度は低いと夕衣は思う。
「明日、じゃなくてもう今日だね。樋村休み?」
『おー。夜はバイトあっけどな』
それならば、と夕衣は思った。この時間からシャワーを浴びて風呂に入って、眠って起きてざっと計算すると、大体十三時から十四時には起きるだろう。
「そっか。じゃあゆっくり寝なさい」
『そうさせてもらうわぁー』
語尾は欠伸交じりで英介が言った。
「うん。じゃ」
『おー』
通話を終えて、夕衣はベッドに寝転がる。シャワーを浴びようかとも思ったが、部屋の温度が下がってきていたので汗は引いていた。起きたらシャワーを浴びて、そして、英介を涼子の店に誘ってみよう、と夕衣は部屋の電気を消した。
(確かめるさ。色んな方法で)
これも、方法の一つ、なのかもしれない。
xxxix Love Me Do END
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