xxxviii Long Night
走って、走って、中央公園にまで出た。公園に入ってすぐ、走るのを止め、息を整えながら中央噴水に向けて歩き出す。腕時計を見ると、時計の針は午前一時を指していた。流石にこの時間には誰も演奏はしていないのだろう。誰かが演奏をしていれば入り口近くからでも音は聴こえてくる。いつもと違う、暗く、しんと静まり返った公園は、いきり立った
(
夕衣にとっては初対面で、しかも
(そうだ、初対面なのに……)
(どうしよう……)
CD-Rを借りるつもりだったのに連絡先すら聞かずに、英介に激昂して飛び出してきてしまった。今更店には戻れないし、かといって沙奈と連絡を取る手段もない。
「……」
残された手段は、沙奈が英介にCD-Rを渡し、それを夕衣が受け取るくらいだが、今は英介の顔など見たくもなかった。
「おろ?そこにおわすは
中央噴水のある広場に差し掛かったときに、ちょうど広場から出ようとすれ違った人物に声をかけられた。
「え……あ、み、
「なした?こんな時間に」
夕衣の顔を覗き込むように、しかし能天気に水沢
「え、み、水沢さんは?」
「あたくしはちょいと気分転換に散歩がてら、後片付けに不備がないかなぁ、なんて見回り……つーかえ?泣いてたの?」
「え、泣いてないですよ」
貴に言われて、夕衣は慌てて目尻を手でこすった。
「……ほうほう」
「あ、あれ?」
うっすらと手が滲む。汗ではなかった。
「こんなおっちゃんにでも聴けることがあれば聴きますけれども?」
夕衣の頭に手を乗せて、貴は屈託なく笑った。
「……じゃ、じゃあ失礼なこと訊いても、いいですか?」
目をこすり、涙とは認めたくない水分を拭って夕衣は努めて明るく言った。
「ん。じゃあそこ、ベンチ座りますか」
夕衣の頭の上にあった手が跳ねて、貴は夕衣をベンチにと座らせた。
「真夜中にこんなに可愛い女子高生とデートなんて涼子さんに怒られちゃうなぁ」
夕衣が座ったのを確認すると、貴も夕衣の隣に座った。
「涼子さんのこと、ほんとに好きなんですね」
「え、ま、まさか恋バナですか?」
夕衣の一言で敏感に夕衣の気持ちを察知してか、貴は少し夕衣から離れた位置に座り直した。
「おじさんには聴けない話ですか?」
夕衣は笑顔になって貴に訊き返す。
「聴ける。聴けると、おもう、けど、有効なアドバイスは……難しいかもしれない」
むぅ、と腕組みをしながら貴は唸る。そんな仕草一つでも優しさを感じる。
「いいですよ、聴いてくれるだけでも」
「う、うむ」
煙草に火を点けて貴は再び唸った。
一部始終を話すと、貴は三本目の煙草をベンチのすぐ脇にある灰皿に放り込んだ。
「つまり、樋村英介の気持ちが判らん、と」
「はい」
「貴さんは夕衣さんの気持ちも判らんですよ」
「……」
貴が言うことは尤もだ。夕衣自身、自分の気持ちが判らないというのに。
「
考えてみれば、奏一は貴にとっては遠縁ではあるが親族になる。それとこれとは別の話だと判ってはいるが、やはり少々申し訳ない気持ちになってしまう。
「判りません」
「判んないのにブチ切れちゃったらだめでしょ」
苦笑して貴は言う。
「でも、態々あんな綺麗な人の前でばかにすることないのに……」
「照れ隠しですよ、そんなものは」
「違いますよ」
一度は普通に、彼女じゃなくクラスメートだ、とやんわりと沙奈に言って聞かせていたのだ。照れ隠しで否定するのならばそれで充分だと夕衣は思う。
「いやぁどうかなぁ。恋愛経験が豊富だろうがそうじゃなかろうが、男なんてみんなバカちんなもんですよ、夕衣さん」
「樋村のばかはハンパじゃないんです」
だから余計にあれは普通に否定したのだ、と夕衣は思う。本当に、夕衣みたいな女とは付き合えない、という、英介なりの結果なのではないだろうか。
「まぁそこは何となく判る気もするけど」
「水沢さんは?」
「貴さんとお呼びなさい」
「た、貴さんはどうなんですか?」
貴の注文通り、呼び名を変えて夕衣は二度訊ねた。
「何?照れ隠し?」
「はい」
「しないよ」
「ほら、しない人だっているじゃないですか」
英介の行動パターンを考えると、あの場であのように否定するか、以前アコースティックライブの打ち上げで、勝手に夕衣を俺の物呼ばわりしたように、調子に乗って嘘をつくかのどちらかだと思う。
「そら人それぞれ性格ってもんがあるでしょうよ。それにうちは付き合う前の男女でもなんでもなく、れっきとした夫婦ですよ」
「でも」
いや、判る。本当は貴の言いたいことも。ただ、それを肯定しても否定しても、英介の気持ちが見えないことには変わりがない。
「まぁ、本人がいなきゃ見栄張って悪く言うこともあるよ」
「え」
「例えばさ、商店街のおっさん連中に、いやぁ貴ちゃんはいいね、あんなかわいい奥さんがいて、なんて言われたりするけど、涼子がその場にいなきゃ、いやー、あれで結構口煩いんですよ、とか言っちゃうもんなんですよ」
「へぇ、意外です」
貴と涼子の夫婦間のやり取りを喫茶店内でしか見たことがないせいかもしれないが、それでも貴は涼子にベタ惚れ、というイメージがあった。そのイメージのせいで貴が涼子のことをそんな風に言う事実は意外に思えた。
「そぉ?だってさ、例えほんとにそう思ってたとしても、いいでしょー可愛くて、なんて普通言えないでしょ」
「それもそうかもしれないですね」
うーん、と夕衣は唸る。夕衣が同じ立場でもそう言うかもしれない。所謂社交辞令のようなものなのかもしれないな、と夕衣は思った。「儲かりまっか?」「ボチボチでんな」というやり取りと同じようなものだろうか。例え物凄く稼いでいても、ボチボチ、と答える方がきっと角も立たないし、無難なのだろう。けれど、全く儲かってない、赤字続きで倒産寸前です、とまで言ってしまっては、相手に不安なイメージを植え付けるだけだ。本意はどこにあるかは別にしても、英介の先ほどの行為はそれと似ているのかもしれない、と思えるくらいには、夕衣も冷静さを取り戻しつつある。
「例えば、おれんとこはもう結婚もしてるし、付き合いも長いからそういうのは仮に涼子の耳に入っても喧嘩にはならないけどさ」
「ですよね」
「付き合う前とかだったらさ、涼子さんに嫌われちゃうかもしんないよね」
今の夕衣さん達みたいに、と付け加えて貴は四本目の煙草を口にくわえた。
「貴さん達って知り合ったのいつ頃なんですか?」
「中学ん時」
「えぇ!な、長いですね」
確か二人の年齢は三十も中頃だと聞いたはずだったが、中学生からともなるともう二十年近くの付き合いになるのかもしれない。夕衣が生まれる前から二人は一緒だったのだろうか。
「知り合ったのはね。付き合い始めたのは実際社会人になってからだから」
「え、そうなんですか」
「うん。まぁ当時のことを振り返るとさ、おれも涼子も最初からお互いに好きだったんだけど……時間かけちゃったんだよね」
自嘲して貴は言った。何だかその自嘲に言い知れぬ重みを感じてしまう。長い時間一緒にいて、娘がいて幸せに暮らしている家族でも、悔恨の念は色々とあるのだろう。貴の自嘲はそれを物語っているかのように見えた。
「へぇ……」
「今でも思いますよ。学生服着てた頃からデートとかしたかったなー、って」
「えー、意外です!」
「そんなことないでしょー。おれだって思春期はあったんですよ、夕衣さん」
自嘲を苦笑に変えて貴は言う。なんだか思春期という言葉を持ち出されると妙に気恥ずかしい。今夕衣達自身が思春期を過ごしている、という感覚はほぼ皆無だけれど、大人から見ればきっと思春期以外の何物でもないのだろうことくらいは辛うじて判る。
「かもしれないですけど」
「ま、おれの話はどうでもいいんですがね、夕衣さんの口っぷりからするに、おれは莉徒の勘は当ってると思うなぁ」
「樋村が、わたしのこと好きってことですか?」
信じられる要素は、夕衣には見つけられなかったというのに、どうやら水沢貴之には見つけることができたらしい。
「うん。でもねぇ、夕衣さんの気持ちは夕衣さんが判んねぇ、って言ってんなら仕方ないけど、おれから見れば昔の夕香と諒に似てるかなぁって思うね」
「えー、わたし夕香さんみたくかっこ良くないですよ!」
夕香に似てるとは光栄ではあるが、それもなんだか違う気がする。
「まぁ立ち振る舞いは似てないかもしんないけど、怒り方とかがさ」
「そ、そうなんですか?」
(お、怒り方って……)
一気に微妙な気持ちになる。
「まったくって訳じゃないですよ。少し、ね」
「あんなに激しかったかな……」
夕香が怒った時の状況は何度か見ている。背後に炎のオーラが見えるのではないだろうか、というほど激しい怒り方だった。
「夕衣さんは怒ったら怖そう」
「そ、そんなことないですよ」
言われてみれば今までに二度、英介に怒鳴ったことがあるが、確かにあの時は二度とも炎のオーラを纏っていたかもしれないな、と夕衣は思った。
「いやぁどうだかなぁ。ま、自分の気持ちが判んないなら樋村に訊き出してみるのも手だと思いますよ、貴さんは」
「訊き出す?」
「アタイのことどう思ってんのよ!つってって」
「そ、それは……」
最終手段ではないのだろうか。それを言ってしまったら、どう対処して良いか困る。何とも思っていないのならばそれで良いかもしれないが、もしも逆の答えだとしたら、夕衣はまた答えを持っていないことになる。
「ア、アタイは別にあんたのことなんかなんとも思ってないんだからね!っつってって」
「なんでツンデレですか……」
急に口調を変えて貴はおどけた。くねくねと動いて正直、気味悪い口調で言ったそれは果たして夕衣の物真似なのだろうか。莉徒といい貴といい、どこをどう見たら夕衣の真似でそうくねくねと体を動かすという行動が浮かんでくるのだろう。断じてそんなくねくねした動きはしていない。奏一にも英介にも明確な答えは出せないが、それだけははっきりと断言できる。そんなことを断言できたところで何の解決にもなってはいないのだが。
「夕衣さんめっちゃツンデレに見えますけど」
「ち、違いますよ……。と思いますよ……」
「わははは、なんだそりゃ」
言い淀んだ夕衣に貴は笑顔を返す。
「だって男の人と付き合ったこと、ないですもん」
「え、マジ?」
貴の言葉にゆっくりと夕衣は頷いた。
「あーあーあー、そうかそうか。んじゃま、ともかく樋村の気持ち訊いてみるのが一番かもな」
「で、できればやってみます……」
(できそうもないけど……)
「うむ。良きに計らえ」
言って貴は四本目の煙草を灰皿に捨てた。
「……なんだかこうして話してみると貴さんって話し易いですね」
「遅い、遅いよ」
くぅ、と悔しそうに貴は言った。最初に貴と会ったのは、貴が喫茶店の手伝いをしている時だったし、その次はアルバイト中だった上に貴自身も忙しそうだった。何よりもライブ会場という場所が、あの時は貴をベーシスト水沢貴之にしていたのだと思う。演奏直前の一種あの近寄りがたい集中力や格、覇気のようなものは凄い、と思ったものだ。それに夕衣達が店に行く時はあまり店に顔を出していないし、涼子と同じように、店の中でゆっくりと話す機会もなかったのだ。
「でも今までこうして話す機会もなかったですし」
「確かにね」
貴が答えた直後に夕衣の携帯が震えた。恐らく英介だろう。
「あ」
「お、樋村じゃないの?」
「は、はい」
携帯電話を開いて、名前を確認するとやはり電話をかけてきたのは英介だった。本当なら出たくはないが、貴の手前、無視する訳にもいかない。どうしようかと思ったところで貴が腰を上げた。
「んじゃ、おじさんは帰りますよ。あーとそうそう、帰り道になんか怖いことあったらすぐ呼ぶですよ」
ポケットからしわの入った名詞を一枚取り出すと、夕衣に差し出す。夕衣はそれを受け取って確認する。喫茶店の電話番号と手書きで貴の携帯電話であろうナンバーが書かれている。
「あ、ありがとうございます」
プロのミュージシャンのプライベートナンバーなど貰っても良いのだろうかと思ったが、いりませんとも言えない。
「んじゃ、頑張って良きに計らうが良いぜ!」
うはははは、と言って貴はきた道を戻って行ってしまった。
(……コレ、どうしよ)
しつこく夕衣の手の中で震えている携帯電話を見据えて、夕衣は心の中で呟いた。
「……何」
夕衣は通話ボタンを押すと、極めて、極めて突っ慳貪な声を出した。
『何怒ってんだよ……』
「……自分で何言ったか覚えてないんだ」
樋村英介のばかもここまでくると救い難い。一体何を考えて生きているのだろうかと疑ってしまう。
『あ、いや、覚えてるけど……。あんなのいつも言ってんじゃねぇかよ』
「ふぅん」
いつも言っているからといって許されるとでも思っているのだろうか。確かにいつもならば冗談にしてうやむやにしてしまうことだし、夕衣としてもそれほど激怒することではない。けれどそれとこれとは話が違うのだ。
『……悪かったよ。ごめん』
「え」
あれ?と一瞬思う。まさか英介が素直に謝ってくるなどとは思ってもいなかった。
『だから、悪かったって。他人の……つーか初対面の人間の前であんなこと言って』
「う、うん……」
それもちゃんと夕衣が怒っている理由まで判っている。やはり英介としても言い過ぎたと思っているのだろうか。それとも、いつもなら怒らないはずのことで烈火のごとく怒り出した夕衣の心意を推理してみたのか。どちらにしても樋村英介にしては珍しく考えを巡らせているということだ。
『今どこだ?』
「公園」
もっと言いたいこともあったはずだが、何だか拍子抜けしてしまった。そこまで素直に謝罪されてはもう何も言えなくなってしまう。
『中央公園か?』
「うん」
『今行くから、動くなよ』
少し息が弾んでいる。外にいるのだろうか。まさか夕衣を探し回っていたという訳でもないだろうが。
「いいよ、来ないで」
『ばか、何かあったらどうすんだ』
心配してくれるのはありがたいことだが、そもそも英介が夕衣を怒らせなければこんなことにはならなかったのだ。
「……だって樋村、お店」
『今沙奈がやってくれてる』
「……」
とんでもないことをしでかしてしまったらしい。英介は良いとしても、沙奈にまで迷惑をかけてしまった。
『どした?』
一瞬考え込んで英介に謝ろうとしたが、そこでとんでもなく怪しい人影を見つけてしまった。Tシャツの首を通さず頭にほっかむった状態で、その人物は夕衣に近付いてきた。つい先ほど見た夕衣の記憶が確かならば、このTシャツは間違いなく水沢貴之だ。
「こんばんは……水沢ジャミラくんです」
訳の判らないことをとてもふざけた声音で言って、貴は夕衣に近付いてきた。両手をにぎにぎわきわきとしながら、にじり寄ってくる。
「え、ちょ、ちょっとなんですか?」
あまりの迫力に夕衣もつい後じさる。
『え?おい!夕衣!』
「え、ちが、樋村ちょっと待っ……やっ!やめてくださ!」
何やら激しく勘違いした英介が突然真面目な声を出す。そうしてる間にも貴は夕衣に近付き、夕衣の脇の下を突いた。続けざまに携帯電話を取り上げると、イヒヒ、と口だけで笑った。
『おい!夕衣!夕衣!』
「あ」
言うが早いか、貴は夕衣の携帯電話をぱくん、と閉じてしまった。これで英介との会話は途切れてしまう。
「おれ演出家になれるかも。ウヒヒヒ」
いやウヒヒヒは言っていないかもしれない。しかし全く持って何を考えているのかが判らない。これでは英介には夕衣が変質者に襲われたように聴こえてしまっていただろう。
「ちょっと貴さん!」
「大丈夫大丈夫」
Tシャツをきちんと着直して貴は軽く笑った。その軽い笑顔の意味が判らない。
「何が大丈夫なんですか!」
「え、ほら、これで樋村も謝りに来るって」
「盗み聞きしてたんですか!」
「ご、ごめんなさい……」
夕衣の大声に貴は身を縮め、かっくりと頭を下げて謝ったが、謝って済む問題ではない。こんな悪質な冗談とも取れない行為は冗談の域を超えている。
「ていうか電話返してください……」
「……今返したらすぐ樋村に電話しちゃうじゃないですか」
文字通り、ぶぅ、という顔をして貴は唇を尖らせた。
「あたりまえです!」
だん、と地面を踏みつけて夕衣はまたも声を高くした。今日は男難の相でも出ていたのだろうか。というか、ここのところ、男に翻弄されっぱなしのような気がして、余計に腹が立って、背に炎のオーラが立ち込めてくるのを自覚する。貴の言った通り、怒り方は夕香に似ているのかもしれない。。
「こ、怖ぇズラ……」
(ズラ……い、いや!)
「怒られるようなことする貴さんが悪いんです!」
こんな旦那を持って、涼子は良くいつも平然としていられるな、と夕衣はまたしても涼子を尊敬してしまった。
「だぁってさぁー。今の会話、まるっきり恋人同士だったですよ」
「そ、そんなことない!です!」
怒りなのか羞恥なのか、ともかく顔に血液が集中して、夕衣はムキになって応えた。その時、自転車の派手なブレーキ音と、何かを叫ぶような声が聞こえてきた。十中八九樋村英介だ。
「あ、速い。愛の力か!じゃ、おじさんは帰りますよ!にんにん!」
「え、ちょ、ちょっと貴さん!」
さ、と夕衣に携帯電話を返し、百メートル走で金メダルでも狙えるのではないかと思うほどとんでもない速さで貴は走り去ってしまった。夕衣が貴を怒鳴りつける声をたどってきたのか、その直後に英介が夕衣の前に現れて、自転車のスタンドもかけずに殆ど飛び降りと言っても良い勢いで駆け寄ってきた。
「夕衣!」
「あ、ひ、樋村」
が、と両肩を掴まれて、夕衣は一瞬身を硬くする。今まで知らなかったが、思ったよりも英介の手は大きくてごつい印象だった。力強く夕衣の肩を掴んで、ぐいぐいと揺らす。
「大丈夫か!何かされてないか?」
「へ、平、気、だぃ、じょぶ」
ぐらぐらと揺らされる中、夕衣は何とか答える。
「何があった」
「おぉ、脅か、された」
嘘ではない。だが、まず誰に、と言うべきであった、と夕衣は後悔した。
「誰に」
「貴さん」
「は?」
そこでやっと英介の動きが止まる。あまりにも記憶にありまくりな名前で、思考回路も止まったらしい。が、それも一瞬ことだった。
「水沢貴さん」
「ってどこにいんだよ」
もう一度夕衣は貴の名を言い、それを受けた英介が辺りを見回した。
「逃げちゃった」
「嘘つくな!」
何をどうしたらこれが嘘だと思えるのだろう。例えば、変質者に襲われたことがない夕衣でも、本当に変質者に襲われたのならば、パニックに陥っているいだろうと思う。
「あのね」
「ちっきしょうどこだよ」
夕衣の肩を掴んだまま、英介は辺りを見回す。本当に夕衣が襲われたと思っているのか、夕衣の言葉もあまり耳に入っていないようだった。
「聴いて!」
「う、あ、はい」
ちょいっとジャンプして、ぼす、と英介の額にチョップする。
「さっき、店飛び出して行って、ここで貴さんに会ったの」
「あ、あぁ」
「で、貴さんに、なゃ……。愚痴聞いてもらってて」
悩み、と言いかけて慌てて止める。変に突っ込まれでもしたらまた面倒なことになる。
「樋村から電話あって、それで貴さん帰ったのかと思ったら、コッソリ後つけてて、盗み聞きしてたの、今の会話!」
「んで?」
冷静になったのか、英介が夕衣の話を促した。
「相手が樋村だって判ってたから、貴さんわたしのこと脅かしたんだよ」
「あぁ」
「で、樋村が来たの判って、すぐ逃げちゃったの!」
まだ判っていない英介に、更に夕衣が続ける。
「何で」
「樋村のこと騙したからに決まってるでしょ」
悪戯にしても性質が悪すぎるのだ。いくら相手が英介だといっても。
「だから、何で貴さんが態々そんなことする必要があんだって話だよ」
「そ、それは……」
貴にしてみれば英介の気持ちを量ろうとしたのだということは判る。しかし英介はそんなことに気付いた様子もない。莉徒の勘も貴の意見もいい加減だということだ。
「まぁそれが嘘か本当かは後で聞けるからいいとして」
「ホントだってば!大体さっきのことだってわたしまだ許してないんだからね!」
「あ、だから、ゴメンて……」
頭をかいて英介はその頭を下げた。ふざけた様子は感じられなかった。先ほど素直に謝ったのも、疑っていた訳ではないが、やはり本当に悪かったと思ってくれたのだろう。
「あ、ちょっと場所移動!」
「何で」
「また変な人に盗み聞きされたら嫌なの!」
「わぁかったよ」
ぐるぐると辺りを見回したが、あの俊足を持ってついてこないとも限らない。見通しの良い場所で話した方が良さそうだった。
「へ、変なヒト……」
すぐ近くの植栽の裏側で発せられた小さな呟きは誰の耳にも届かなかった。
xxxviii Long Night END
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