xxxvii Sweet Surrender
「とりあえずそこ、座っとけ。何か出してやっから」
カッターシャツに黒いベストに黒いスラックス。本当に映画の俳優と同じような格好をしている英介が煙草をくわえながら言った。悔しいが、すらりと背が高く、整った顔立ちをしている英介に良く似合っていた。格好良いね、とは何があろうとも絶対に口には出さない。
「あ、そっか煙草、吸うんだっけ」
「あぁ」
「見るの初めて」
煙草を吸う様も似合っているところを見ると随分前から喫煙はしていたのだろうが、夕衣達の前ではあまり吸わないようにしているのだろうか。
「そうか?まぁ外じゃあんま吸わねぇからな」
「いつもこんな感じ?」
カウンター席からは背後になる客席を振り返って夕衣は問うた。夕衣達は夏休みでも社会人にとっては平日となんら変わらない。
「あん?」
「お客さんとか」
「あぁ、そうだな。いつもの週末はもうちっと入ってるけど、今日は少ねぇかな」
ごそごそとカウンター内で動きながら英介は答える。
「な、なんだか落ち着かないなぁ」
何だかそわそわしてしまう。雰囲気が肌に合わないことは間違いないのだが、目の前に英介がいるおかげで、何とか安心感を感じている程度だ。こういった店に入るのは勿論初めてのことだけれど、英介がいなければきっとこんな感じの店に入ることなどまだまだ先の話だっただろう。
「そら夕衣がお子様だからだろ」
くく、と笑ってからかうように言う。店内は薄暗くお洒落だと思うけれど、どうにも座りが悪いような気がするのは英介が言う通り、まだ夕衣が子供だからだ。
「悪かったわねー、お子様で」
「でも考えても見ろよ、盛り場慣れしてるジョシコーセーってのも何かヤだろ」
「それは確かに……」
女子高生多しと言えど、夕衣の周りで盛り場慣れしている女子高生など恐らく莉徒くらいのものだろう。
「酒、呑めんだよな、確か」
「習慣はないよ。飲んだことあるってだけ」
「ん」
シェイカーの中に恐らくはオレンジジュースのような物と何かを混ぜて行く。蓋をしてシャカシャカとシェイカーを振る様はまるで映画のようだった。
「……おぉー」
「あ?」
「映画みたい」
「仕事仕事」
笑顔になって英介は言った。アルバイトという立場であってもお酒や料理を作ったりなどを任されるというのは英介がそれだけ仕事ができるということだろう。一人で生活をして仕事もきっちりとこなす英介の姿は、普段見慣れている、素っ呆けた無礼千万詐欺男、樋村英介の姿ではなかった。
「ちょっと見直したなー」
「遅ぇよ」
「そうでもないと思うけど」
笑顔を苦笑に変えて英介はシェイカーの中身をグラスに注いだ。カットしたオレンジと小さな花の飾りをグラスに設えて、それを夕衣の目の前に出す。
「おら、これなら呑めると思うぜ」
「わぁ凄い!綺麗!……こうやって女の子口説いたりしてんでしょ、イヒヒヒ」
いやイヒヒヒは言わなかったが、言っても言わなくても同じような口調だったかもしれない。
「酒にちょいと粉でも混ぜてな」
「誘拐する気?」
「お持ち帰りと言え」
確かに英介なら、いや女垂らしな男ならばやりかねないと思う。そしてもし先ほど莉徒が夕衣に言ったことが本当なのだとしたら、今英介が出した物にも……。
「……」
「入れてませんから!」
ついじっとグラスを見詰めてしまった夕衣に英介は何故か敬語で声を高くして言った。
「ですよねー」
(いくらなんでも、ね)
ほっとしたような、癪に障るような、複雑な気持ちになって夕衣はそのグラスを手に取った。その途端カウベルが鳴り、新たな客の入店を知らせた。
「あらぁえーちゃん誰?彼女?」
入ってきたのは大人の女性だ。年齢的には二十代も中頃だろうか。ふわりとウェーブのかかった髪を大きくひとまとめにして胸元へ降ろしている。仕事帰りなのか、スーツ姿のその女性に夕衣はつい見惚れてしまった。
「おぉ
なぁ、と言った英介に夕衣は何度も頷いた。
「えー、こんなに可愛いのにぃ?もったいない。あ、私、
香居沙奈と名乗った女性は言って屈託のない笑みを浮かべた。
「あ、え、えぇと……」
「モヒートな。随分と酔ってるみてぇだけど大丈夫か?」
何とか会釈は返すことができたが、何というか勢いのある女性だ。夕衣がその勢いに飲まれかけた瞬間、英介が口を挟んだ。
「ちょぉっとだけだから平気。ね、隣いい?」
「え、あ、はい」
「あんま夕衣に絡むなよ」
面倒臭そうな顔を作って英介は言う。客にその態度はないのではないか、とも思ったが、英介の周囲の人間は、こういった英介の態度を理解している人間が多いのだろう。
「おぉ、夕衣ちゃんっていうんだ、私香居沙奈!よろしくね!」
ばんばんと夕衣の肩を叩いて沙奈は再び名乗った。なるほど確かに酔っているのだろう。先ほどは機会を逸したが、今度こそ、と夕衣は意気込んで口を開いた。
「あ、あぁ、は、はい、
言って英介が入れてくれた恐らくはカクテルだろう飲み物をく、と飲んだ。酒独特の苦味は殆どなく、素直においしいと思えた。
「え」
「え?」
たった今まではしゃいでいた沙奈が凍りついたように動きを止めた。夕衣には何のことだか判らなかったが、何か、夕衣の名で沙奈の動きを止めるほどの衝撃があったのだろうか。
「今何て……あ、夕衣ちゃんの苗字」
「えと、髪奈、ですけど」
「髪奈、夕衣、ちゃん?」
ゆっくりと確かめるように沙奈は言った。そこで判ってしまった。沙奈が夕衣の名で凍りついた理由が。
「はい」
夕衣も沙奈にゆっくりと答えた。思えば彼女の年齢はそのくらいなのだろうということにも気付いた。
「えと、知り合いとか親戚に髪奈
「従姉です……」
想定内の沙奈の言葉に、夕衣は落ち着いて応えたが、心拍数は一気に跳ね上がった。沙奈は裕江と知り合いだった。なんという偶然だろうか。いや、この街に来た以上、こうしたことももしかしたらあるかもしれないと想定はしていたものの、こうして現実になってみると、ことのほか心への衝撃は少なかった。
「そっか……」
先ほどまでの陽気な酔いは吹き飛んでしまったかのように沙奈の表情は真剣だった。
「裕江姉を知ってるんですか?」
動転とまではいかなかったのは事実だが、驚いているのは確かだ。つい判りきっていることを訊いてしまった。
「親友……のつもりだったのよ」
「そう、なんですか」
自嘲気味に沙奈は言う。そんな表情を見て、似ているな、と夕衣は感じた。
「……」
きっと夕衣と同じ気持ちだったのだ。夕衣も裕江の妹同然だと思っていた。裕江のことは良く知っている、そう夕衣一人が、思いこんでいた。何も打ち明けず、一人きりで逝ってしまった裕江に思い知らされたのだ。お前ではない、と。
いや、きっと世界中の誰一人、本当の意味で裕江の理解者には成り得なかったのだろう。従妹も、兄も、親友も、きっと恋人すらも。夕衣が勝手に置いて行かれたと思っていた気持ちを、きっと沙奈も感じていたのだ。
「もう三年になるんだね」
「はい」
香居沙奈という人物にとって、その三年は長かったのだろうか。短かったのだろうか。
「あいつの残した遺書にね、あなたのこと書いてあった」
「遺書、多かったみたいですね」
「夕衣ちゃんにもあった?」
「遺言、っていうのは親族にはなかったみたいです」
親族個人個人に宛てたものは何も遺されていなかった。ただ、何かを儚んだ言葉はたくさん遺されていた。夕衣達親族に残されたのはそれだけだった。
「そっか……。夕衣ちゃんのこと、自慢げにね、唄が巧いんだって、あいつは絶対大成するって」
「え……」
遺書として遺すようなことだろうか。一瞬そう思いはしたが、そういうところは裕江らしいと思ってしまう。死ぬ準備をしている最中に夕衣の未来を語る、という行為は尋常ではないと思うが、何故だか、どうしてだか、裕江らしい。
「何か、音源とか渡されました?」
「えぇ。CD一枚だけね。いつも聴かせてもらってるわ」
(
裕江に聞かせた、大切な曲を聞いてくれる人がここにいた。夕衣は深々と頭を下げる。
「や、やめてよそんな!私は普通にその曲が好きだから聴いてるだけなのに!」
「でも、それが本当に、凄く嬉しいんです」
裕江には伝わらなかったのかもしれない。だけれど、裕江を通じて、この曲を聴き続けてくれている人がいる。それだけで今までディーヴァのコピーだとかオリジナルだとか、そんなことに拘っていたことなどどうでも良くなってしまった。
「今もありますか?それ」
「勿論!ここに入ってるわ」
ポータブルミュージックプレイヤーを内ポケットから取り出して、嬉しそうに沙奈は言った。
「あ、えと、CDの方なんですけど」
「あ、そっちね。うん、もちろんあるわよ」
それを聴いて夕衣は内心ほっとした。夕衣の部屋にあるCD-Rの山のことを考えると、一枚を探し当てるのは至難の業だ。しかしきちんと整理整頓している人はまた別なのだろう。きっと人種も違うはずだ、と自分に言い訳も忘れない。
「あの、申し訳ないんですけど、一度貸していただけませんか?」
「え、でも夕衣ちゃんの曲なんでしょ?」
尤もな疑問を沙奈は口にした。
「フォルダとかファイルのプロパティに何か残されてたかどうか、それが知りたいんです」
「あぁ、なんかWAVファイルの他にあったわね……。いいわ、それなら今度持って来るわね」
「ありがとうございます!」
今日出会ったばかりの人に変なお願いをしてしまったというのに、沙奈は快く承諾してくれた。その辺りは流石に裕江の親友だったのかもしれない。
「ホントにホントのオリジナルか」
「だと思う。裕江姉から香居さんに送ったものだったんだ……」
今まで黙って話を聞いていた英介が口を開いた。夕衣と沙奈の会話に水を差さないように気遣ってくれていたのは夕衣にも判った。
「それにしてもすげぇ偶然だな」
「だねぇ……。ってことは、えーちゃんも事情知ってんだね」
「ああ。触り程度だと思うけどな。他人が深く入り込んでいい話でもねぇし。ほら、モヒート」
元々は莉徒だけに話そうと思っていたことだが、なし崩し的に英介にも聞かせることになった話だ。あまり吹聴するようなことではないと判って、英介も莉徒も、特にこの話に踏み込んでくるようなことはしないのだと思う。それは莉徒の悪い噂になったことも、英介の家庭の事情のことも、夕衣にとっては同じことなのだろう。その話の事情を判っていれば、知らずに傷つけることも、傷つくことも、お互いにないのだから。ただ、話してくれればそれで判る。それだけのことだ。それだけのことで、お互いに理解を示せる、だからこその大切な話だ。
「なぁるほどね。あんがと、じゃ、夕衣ちゃん乾ぱ……献杯かな」
「はい」
チン、とグラスが鳴る。沙奈と一緒に一口お酒を呑むと、夕衣は話し始めた。
「……わたし四月にこの街に来たんです。それまでは離れたとこにいたんで」
「そうだったんだ。私はね、裕江が亡くなってから二年、留学行ってて、去年帰ってきたの」
目を逸らしたかったのかもしれない。夕衣がそうであったように、沙奈もまた、裕江に対する自分の有り様に苦しんだのかもしれない。
「樋村とは?」
「いつだったっけ?帰ってきたばっかの頃?」
「夏辺りじゃねぇか?」
うーん、と天井のどこかを見ながら英介は言った。去年の夏ともなればもう一年近くこうして英介と顔を合わせていたのだろう。
「あぁそうかも。ひと夏のアヴァンチュールを求めて場末のバーに……」
「え……」
嫌な想像が夕衣の脳裏を掠める。女にもてて、不自由しない樋村英介。なるほど、こんな綺麗な女性と付き合えば迫もつくというものだ。
「ばっ!夕衣信じるな!ここのマスター、先輩の彼女!」
「あらぁー、ごめんね、夕衣ちゃんからえーちゃん取ったりしないから」
「え、ちょ」
ぽんぽん、と夕衣の片を叩き、沙奈はけらけらと笑った。
「ったぁくおめーは緊張感のねぇ女だな!ツグさんの苦労が判るわ」
「ツグさんっていう人がマスター?」
「そ」
腕を組んで、偉そうに英介は頷いた。流石に大人の女ともなれば、英介をからかうのもお手の物なのかもしれない。今の夕衣にはできない芸当だ。学ばせていただくチャンス到来だった。
「そうなんだ」
「まぁここのバイトもそうだけど、他にも色々世話んなってんだよ」
「そ、だからえーちゃんが私の面倒見るのは当然な訳!」
先ほどの陽気な感じに戻って沙奈は胸を張る。とても、とてもご立派なものがぽよんと揺れた。
「な、なるほど」
どうりで立場が弱い訳だ。
「そーれにしてもえーちゃん、女の子の趣味変わった?」
「あのなー」
額に手を当てて英介は嘆息交じりに言った。こういう英介は中々普段見られない。その点に関しては素直に喜んでも良いかもしれないな、と夕衣は少々鼻息を荒くした。
「前に会った子と随分感じ違うからさー」
「え、前ってどのくらい前ですか?」
「んーと、クリスマスだったっけ?」
顎に人差し指を当て、沙奈は記憶を引っ張り出したようだ。
「あー」
クリスマスだともう随分前だ。
「何よその気のない返事はー」
「今更別れた女の話されたってなー」
夕衣が知る限りでは、英介の元彼女といえば一人しかいない。
「莉徒?」
「去年のクリスマスだっつの。莉徒なんかとっくに切れてるわ」
「あそっか」
確か莉徒とは一年生の時に付き合い始めて、その年の内に別れたと聞いていた。すっかりそのことを失念していた。
「夕衣ちゃん気になる?」
「なりません」
沙奈が言い終えないうちに夕衣は即答した。英介の女遍歴など全く興味はない。今もしも好きな人がいるのなら、とまで考えて、夕衣はその考えを無理やり打ち消した。
(そ、そういうのはなし!)
「あら即答」
「樋村とは貸し借りだけで成り立ってる関係なんで」
「今はねーだろ!」
む、と一瞬夕衣は唸った。ない訳がない。
「あ、そう。じゃもう朝起こすのやめる」
「あ、それはちょっと……」
「いいじゃん、莉徒だって
そうだ。態々夕衣が起こす必要性はない。この間も夕衣が電話していたときには既に起きていたのだ。彼女でもない夕衣を保険に使うとはなんと図々しいのだろう。今更ながら腹が立ってくる。
「あははは!」
「なんだ」
「可愛いわねあんた達。付き合っちゃえばいいのに」
んちゅちゅ、と唇を尖らせて沙奈は言った。莉徒と同じようなことを言われて、押し留めていた考えがまた浮上してきてしまった。
「けっ!だーれがこんなちんちくりんのぺったんこと!」
「……」
浮上して、蹴落とされた。やはり莉徒の言うことなど嘘だ。もしも英介が夕衣のことを好きならば、こんなことを初対面の、しかも夕衣などと比べ物にならないほど魅力的な女性の前で言うはずがない。照れ隠しだとしてもこんな小学生以下の照れ隠しを、それこそ恋愛経験豊富な英介がするはずがない。
「あぁ、嘘です夕衣さんすみませんごめんなさい」
「夕衣ちゃん、お酒に何か仕込まれてるかもよ、気をつけた方がいいわ」
「イクラコレー」
グラスに残った酒を一気に飲み干して、乱暴にグラスを置く。もしかしたら少し酔ったのかもしれない。
「な、何で棒読みですか?」
「コレイクラダヨー」
ずい、と置いたグラスを英介に差し出す。いつも言われていることのはずなのに、何故だか今日だけは腹が立って腹が立って仕方がない。冗談ともとれる口調で言えたのはせめて怒りを顕にしないためのカムフラージュだったが、そう思っている間にも沸々と怒りがこみ上げてくる。
「お、おごり……」
「ごちそうさま!」
ばん、とテーブルを叩いて夕衣は一目散に出口へと向かった。
折角沙奈と出会えて良い気分になったというのに、英介のせいでぶち壊しにされた気分だ。
何も沙奈の前であんないつもの調子で夕衣のことをからかう必要はなかったはずだ。沙奈のような美人と比べられたら夕衣など足元にも及ばない。
そんなことなど判りきっていることなのに。
「あああああああ、おいちょっと夕衣!」
「あーあ、私知ーらなーいっと」
「沙奈のせいだろうが!変なこと言うからぁ!つーかなんであいつ……。最近怒りっぽいな」
「一ミリも私のせいじゃないでしょ……。ほら追っかけなさいってば、ほら!」
そんなやり取りが耳に飛び込んできたが、英介の顔など見たいとも思わなかった。
「だ、だって店……」
「私がやっとくから」
沙奈の言葉を最後に二人のやり取りは聞こえなくなった。
カウンターから入り口まで、他の客達が何ごとかという視線を夕衣に向けてきた。
ドアを閉めてもまだ何ごとかを沙奈と英介が言っていたのは判ったが、振り返ることなく夕衣は店から離れた。
夕衣にできる行動は逃げ出すように走ることだけだった。
xxxvii Sweet Surrender END
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