xxix Running with the wind

 普段から勉強を怠っている訳でもなく、成績不良でもない夕衣ゆいの期末テストの結果や通知表は、とりあえず親に小言を言われるほどの物ではなかった。これで晴れてバンドとアルバイトに集中できると思い、勢い込んでアルバイトを開始したものの。

「あっつぅ……」

 海岸沿いの県道を夕衣はギターのソフトケース二本、左手にはラックタイプのエフェクターが入ったバッグ、右手には地図を持ちつつ歩いていた。前には秋山奏一あきやまそういち、後ろには樋村英介ひむらえいすけ、更にその後ろには柚机莉徒ゆずきりずが同じように大荷物を抱え、続いていた。

「もぉー!ちょっと待ぁってよぉー!」

 容赦なく照りつける日差し。強烈な直射日光を受けて上がる路面温度、四十度も超えようかという気温。正しく夏本番だ。海岸沿いの道路には高い建物もなく、日陰が全くと言って良いほどない。最後尾から夕衣とほぼ同じだけの荷物を抱えた莉徒が叫んだ。叫ぶほどの元気があるならまだ余裕があるということだ。

「うるせぇなぁー!さぁけぶな!暑苦しい!」

「なんだとばかこのぉ!」

「……」

 英介も充分元気だ。口喧嘩をするならばさっさと歩けば良いものを、と夕衣は思う。

「ちょっと休憩する?」

「……そうだね、ふー」

 前を歩く奏一が立ち止まり、夕衣に言った。夕衣は腕時計を見て、先ほど休憩してからどれほどの時間が過ぎたのかを確認してから頷いた。防波堤の下は砂浜だが、一応、僅かに防波堤が日陰になっている。すぐそばに浜辺に下りるための階段があった。一行は揃って浜辺に降りると、日陰になっている場所に腰を降ろした。

「ふぃーっ、大体さーなんでタクシーの一台も通らない訳?」

「しょうがねぇだろこんな田舎なんだからよ。駅にだって一台もいなかったじゃねぇか」

 ぐるりと周りを見渡す。背の低い防砂林と海。前後には今まで歩いてきた道と、これから歩いて行く道。チーバくんの部位で示すのならば足の裏。まさに房総半島最南端だ。

「それにしたって駅よ駅!ここらの人間はどういう交通手段を使ってる訳?」

「だぁからでけぇ声出すんじゃねぇよあっつ苦しい」

 アルバイトをするという話がまとまったときに莉徒もやる、と言い出したのは夕衣にとっては僥倖だった。奏一とのスタンスを巧く取る自信がなかったことと男二人に女が一人だったということもある。何にしても夕衣にとっては莉徒の存在はありがたかった。

「車、バイク、自転車、バス、電車、だろうなぁ」

「バスだってさっきから全然通んないじゃん!港に行くんでしょ?っつーか夕香ゆうかさんも送迎のタクシーくらい用意してくれればいいのに……」

「ぼやかないぼやかない。あと少しだって」

 ふぅ、と一息ついて夕衣は言う。気温は高いが湿度が低いので潮風は気持ちが良かった。今日一日で日焼けの跡が残ってしまうかも、と夕衣は自分のTシャツの袖をめくってみた。

(きゃあ!まだ午前中なのに、こ、こんなに……)

 見事にくっきりと日焼けの跡がついた腕を少しさすって、夕衣は恨めしく太陽を見上げる。

「今からじゃ駅に戻るのも同じくらい時間かかりそうだしなー」

「初めから駅員さんに頼んで呼んでもらえば良かったね」

 時計と地図を見て奏一が言った。時間と距離を気にしているのは夕衣と奏一だけだ。英介と莉徒はただ二人についてくるだけだが、先ほどからギャーギャーとやかましいことこの上ない。

「まぁ後悔先に立たずだ!二五分になったらまた出発な!」

「へぇーい……」

 そもそも何故こんなことになったのかといえば、当然夏休みに夕香の店、つまり楽器店兼リハーサルスタジオEDITIONエディションでアルバイトをすると言ったことに起因する。てっきり店内の清掃や荷物運び、レジ打ちなどの事務作業がメインの仕事かと思っていたが、とんでもない話だった。夕香ゆうかは店を経営しているだけではなく、夫である谷崎諒たにざきりょうが立ち上げた音楽事務所、株式会社GRAMグラムに所属する若手バンドのローディーの派遣の仕事もしていた。つまりこれは、東京都七本槍ななほんやり市にある楽器店から、千葉の最南端にまで必要機材を届ける、所謂ローディーのヘルプのような仕事だったのだ。それも手違いで、本来ならば茨城県にあるライブ会場に届くはずの機材が千葉県のライブ会場に行ってしまったらしい。千葉に行った機材車は超特急で茨城に向かい、東京にいるはずのスタッフも今日はあちらこちらのライブ会場に散り散りになっていて、空いている機材車も無ければ運転手もいない。非常手段として特別待遇を受けつつも、夕衣達が電車で機材を届ける、という事態に相成った。当然にして夕衣が最初に想像していた仕事も、手違いが無ければ割り当てられるのだが、いきなりこんな肉体労働をしなければならないとは想像もしていなかった。

「なんつーバンドだったっけ?ヘタクソだったら容赦しないわよ」

「ライブ見てるなんて時間ないぞ」

 がさがさと本日のスケジュールが書いてある紙を開いて奏一が呟くように言った。

「え、何で」

 一応その紙は全員に渡されているはずだが、莉徒は目を通していなかったのだろう。

「すぐ戻って夜のイベントの準備」

「うっそぉー!どこまでコキ使うつもりよ!つーか何、夜のイベントって!」

「中央公園の野音でなんかやるらしいじゃん」

「あぁー、そうだったそうだった」

 奏一が開いた紙を隣から覗き込んで英介が続けた。今は楽器類を届ける仕事をしているが、それを終えて、十五時までには再び七本槍市に戻らなければならない。夕衣はちらりと腕時計を見た。今現在午前十時だ。一応予定ではあと一時間も歩けば目的地の港には到着する。そこに先行しているスタッフがいるはずなので、楽器類を引き渡してすぐに戻らなければならない。電車でここまでくるのにも七本槍市から二時間強かかっている。

「えぇー!」

「んで明日はここのバラしだから、明日も五時起きとかだかんな」

「うぅ、無理ぽ」

 今晩行われるイベントの後片付けは明日の午前中に予定されている。夕香の店には夕衣達の様なアルバイトをしている者達が多くいた。隣の学校である七本槍高校からも多く雇っているのだそうだ。

「四の五の言わない。やるって言ったの莉徒なんだから」

「まぁバイト代高ぇし……やるしかねーぞ莉徒。うーっし、二五分だ!行くべ、奏一!」

 英介が重たい腰を上げ、気合を入れ直すように言った。

「よーっしゃ、行くぞー」

「へぇーい」

 持参していた水筒のフタを閉めて、莉徒も立ち上がった。


 港は見事なまでに、完全なる漁港、漁港オブ漁港!と莉徒が叫ぶほどで、町内会の催し物が開かれるためだけの広場のような場所がステージになっていた。ステージにはペンキで塗装したベニヤ板に大きく『よかんべ祭り』とこれまたペンキで丁寧に描かれていた。暖かな、アットホームな雰囲気で、こんなイベントに出演するのも楽しいかもしれないと夕衣は思った。スタッフに株式会社GRAMの片手持ちだと伝えて機材をすべて渡すと、あまりお目にかかれない、古いデザインの缶ジュースを貰い、すぐに解放された。港には人通りが殆どなかったが、午後にもなれば出店などが出揃うのだそうだ。よかんべ祭りの役員に駅まで送ってもらえたことは本当に幸運だった。予定よりも一時間以上早く東京に戻れるし、昼食もゆっくり摂れる。役員には丁重に礼を言って、別れを告げた。

「いやー助かったな」

「そうね、とりあえずお昼はゆっくりできそう」

 ちらり、と時計を見る。十一時三〇分を回ったところだ。ここまで戻ってくるのも徒歩を想定していたので、電車の中で何か食べようと考えていたところだが、これならば昼休みも取れそうだった。

「とりあえず東京戻ってからにしようぜ」

「そうね、ここじゃ何もなさそうだし……」

 駅の周りを見渡し莉徒が呟く。駅の周りにはコンビニエンスストアのような外装を施したスーパーマーケットのような、どちらなのかハッキリしない店が一軒あるだけだ。駅に売店もなく、腹は空いてはいても満足な食事もできない。

「明日もここってちょー憂鬱なんだけど……」

「でも明日は片付けるだけだから重たい荷物とか持たなくても大丈夫なはず」

 機材車が明日の午前中まで港に残り、機材を積み込んでから次のイベントへ向かう段取りになっているのだという。夕衣達は明日の午前中にこの港の現場を撤収したあとは、再び七本槍市に戻り、店の手伝いをするというスケジュールになっているはずだった。

「今日の教訓を生かして、駅員にタクシー用意してもらうこともできるしな」

 英介がそう言ったが、晴れやかではない。何だかんだで夕衣や莉徒よりも重たい荷物を進んで持ってくれていたのだ。疲れもするだろう。

「それならいくらかマシかー。それにしてもあんたら去年も一昨年もこんなことしてたの?」

 切符を買い、無人改札を通る。二十一世紀になってもこんな田舎の駅があることに夕衣は少々驚いたが、こういう場所もなくなってしまっては寂しいのかもしれないな、とふと思った。

「おー、もっときちぃこともやってたぜ。そのうちくるかもな、そういう仕事も」

「な、なにそれ……」

 セミが喧しく鳴いている中、ベンチに腰掛け、莉徒がため息と共に言った。先ほど貰った缶ジュースを開けて、喉を鳴らしながら飲んでいるのを見ると、夕衣も強烈に喉の渇きを覚えた。

「え、フツーに諒さんとかのローディーとか死にそうだったぜ」

「そんなのヤダ……」

「去年のあれはキツかったなー」

 英介の言葉に奏一が同意した。男にしかできない仕事ではないだろうかと夕衣も聊か不安になる。今回のように楽器や機材、それもさほど大きくない物の運搬程度ならばなんとかこなせるが、通常のライブイベントなどで使う大きなアンプやモニターを運ぶことはできそうもない。

「なー。でもまぁ諒さん、バイト代とは別に小遣いもくれたしな」

「あぁ、メシも奢ってもらったし」

「あんとき食った焼肉最高だったなー」

「おれあんとき初めてビールうまいって思った」

「まぁ、きつかったけどな……」

「きつかったな……」

 なにやら勝手に回想モードに入ってしまった二人を置いて夕衣は時刻表を見た。

「……どうする?あと二十分くらい電車来ないけど」

「えー、そんな?」

 莉徒も自分の腕時計を見て言った。

「これじゃ向こうついてもゆっくりメシ食えねぇなぁ」

「さっきのお店でなんか買って行こうか」

「そうすっかぁー」

 気は進まないがそれなりのものは売っているだろう。英介や奏一は判らないが、夕衣としてはパンが二つもあれば充分だ。

「あぁーファミレスでもいいからなんか甘いもの食べたかったなぁ」

「夜はそうしよ、莉徒」

 夕衣も全くもって同意見だったが、状況がそれを許してくれない。先ほど夕香には連絡を入れてあるので、夕衣達がどのくらいに七本槍市に戻るのかは夕香も把握しているだろう。給料を、それも特別手当まで付けてもらったものを貰う分、時間をごまかすことはできないし、やってはいけない。

「何にしても仕事終わらせなきゃね」

「んだー」

 揃ってため息をつきながら一行は腰を上げた。


 英介の携帯電話が急に鳴り出した。軽食と言っても良いくらいの食事を暑い暑い駅のベンチで済ませ、あとは電車を待つばかりだったのだが、電話の相手を見て、英介は怪訝な顔を作った。

「うぃーおつかれっす!え?は?なんすか?……はぁっ?だって、俺らバンドったって……」

 夕香さんだ、と夕衣達に言って、英介はすぐ会話に戻る。なにやら会話の内容が尋常ではない気がするのは夕衣だけではないだろう。

「シャガロックは?……じゃあIshtarイシュターだってだめじゃないすか」

 知っているバンド名どころか自分達のバンド名まで上がるということはいよいよもって普通の電話ではないことが判る。

「え、即席って……ちょっとメンバーに連絡とってみますわ」

 うへぇ、と口に出して英介は言った。大体の予想はついたが、その予想が当たっていたらとんでもない話だ。

「うぉ、マジすか!何とかします!んじゃ!」

「何?」

「これから準備する公園のイベント、バンド足んなくなったらしい」

 やっぱり、と夕衣は思ったが、この非常時に出られるバンドなどあるのだろうか。Ishtarとしては確か二十谺はつかが親の実家へ帰省しているので出演は不可能だ。英介もそれが判っていたから、シャガロックとIshterは無理だ、と夕香に答えていたのだろう。

「もしかして出ろって?」

「あぁ。ちょっとKool Lipsクールリップス、出れるか訊いてくんね?あと奏一、清志きよしわたるに連絡頼む」

「あいよ」

 奏一は携帯電話を取り出して連絡を始めるが、莉徒は電話をかける様子がない。

「連絡するのはいいけど多分無理」

「なんで?」

たくさんが夜の仕事だからねー」

「あぁなるほど」

 確かKool Lipsのドラマーだ。ドラマーがいなければ、というよりも誰かが欠けていればそれはバンドとして成り立たない。いくら夕香の依頼とはいえ流石に現実不可能なことまでは受けられない。

「ギャラ弾むって言うからさー、何とかしてぇんだよなぁ」

「え、ギャラ出んの?じゃあ私らで出ちゃうのは?」

「曲どうするの?」

 莉徒が急に目を輝かせて言ったが、夕衣は尤もな疑問を口にした。

「なんかテキトーにコピーは?」

「全員できるのなんてあるかな」

 ここにいる四人は一応は似通った音楽を聴いているはずだったが、演奏できるかどうかとなるとまたそれは別の話だ。

「つーかドラムどうすんだ」

「谷崎」

 莉徒はきっぱりと言い切った。

「おめー強気だよな……」

「渉はいいけど清志はだめだわ」

 通話を終えて奏一が嘆息した。

「そっかぁドラムいねぇなぁ……。うーん、莉徒、すーは?」

 名前まではしっかりと覚えてはいなかったのだが、渉がボーカルで清志がドラムなのだ、と夕衣は記憶した。

「すーも今帰省中」

「まじかー、俺らもうアテねぇぞ」

「そっちだめなら私らで考えようよ」

 即席バンドでやるとなるとコピーしかなくなる。一日あればもしかしたらオリジナルソングの一曲くらいはできるかもしれないが、今晩のステージに出るとなるとコピー曲ですらも練習する時間が足りない。

「そうすっかぁー。コピー何できる?」

「私はG'sジーズ系と早宮響はやみやひびき岬野美樹さきのみき、あとロジャアレ」

 奏一が小さなノートとペンを取り出して、なにやら書き始める。まめな性格だなぁ、と思う。

「夕衣は?」

「ロジャアレとG's系はちょろっと。響は殆どできる」

「じゃあできそうだな」

 ROGER AND ALEXロジャーアンドアレックスと早宮響を入れてくれれば夕衣も助かる。一通りはコピーもしたし、問題は覚えているかどうかなのだが、一度弾けば思い出すこともあるだろうし、未経験だった曲を一から覚えるよりは余程まともな演奏ができるはずだ。

「おけ、曲選ぼ」

「んじゃまずロジャアレ」

「俺と奏一はロジャアレはDistortionディストーションLettarレターそれとー……Blue Roadブルーロード、トランジスタの四曲はいけるな。響も何曲かいけたか?」

「覚えてっかなぁ。Gratitude to youグラティトゥードトゥユーは多分できると思うけど」

「おっけおっけ、G's系は?」

「限定すっか」

 所謂G's系と呼ばれているロックバンドThe Guardian's BlueガーディアンズブルーThe Guardian's KnightガーディアンズナイトThe Spankin'スパンキン Bacckusバッカス BourbonバーボンPSYCHO MODEサイコモードそして-P.S.Y-サイの五つバンドから一つをチョイスするということだろう。

「わたし-P.S.Y-とG's Blueはいくらかできるけど、やるとしても歌、どうするの?」

「夕衣歌っちゃいなよ。それに-P.S.Y-かG's Blueなら諒さんも楽だろうし」

「う、歌はいいけど……。本気で谷崎さんに叩かせる気?」

「とーぜん」

 何か谷崎諒の弱みでも握っているのだろうか。莉徒の強気の根拠が全く見えない。

「じゃあロジャアレのDistortionとトランジスタ、それに響のGratitude to you、G's BlueのROCKIN' ROLLINGロッキンローリングKEEP ON BLUEキープオンブルーで決まり!」

「できっかなぁ。つーかさ諒さんのドラムでG's系コピんのって何様だよ」

 確かに、と思う。元々諒はThe Guadian's Blueのドラマーだったのだ。プロのドラマーにかつて自分が所属していたバンドの曲を叩かせてコピーをやるなど、常識では考えられない。

「気にしない気にしない!もうとにかく早く戻って少しでも練習しようよ」

「んだな」

 莉徒の声に英介が頷いた。

「でも電車こないけどね」

「んだな……」

 夕衣の言葉に英介は再び頷いた。


 xxix Running with the wind END

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