xxvi I will be with you
喫茶店
「あらあら
「お、また模様替え?」
今までは水色のカーテンやテーブルクロスだったが、淡いペパーミントグリーンのものに換えられていた。ついこの間水色系統に換えられたばかりのはずだが、まめに店の模様替えを行っているということなのだろう。
「今回は娘の趣味」
「みふゆちゃん?」
「そ」
「あそっか、娘さんいるんですよね」
最初の頃は、涼子が夕衣よりも年上だというのは勿論判っていたが、その時はまさか娘がいるほどとは思っていなかった。
「いるわよー。もう十二歳!」
「え、もう十二歳!そら私も十八になる訳かー」
「十八なんてまだまだ若い若い」
うらやましいわー、と大して羨ましそうには見えない笑顔で涼子は言った。
「涼子さんも十代に見えるけども……」
「あらあら、ありがと」
まったくもって莉徒の言う通りだと思ったが、十二歳の娘がいてこの外見からすると、その娘は涼子が十代の時に産んだ娘だろうか。
「え、失礼ですけど涼子さんて何歳なんですか?」
「今年で三六歳になりますのよ」
口元に手を当てて涼子は言った。
「さっ」
これこそ衝撃の事実というやつだろう。涼子は夫である
「見えないよねぇ」
見えないよねぇ、どころの話ではない。
「た、
「えぇそうよ」
にっこり。
「な、えと、それ、どうやって、三六歳で十二歳の娘がいて、だから」
「おちつけ」
苦笑しつつぽんと莉徒が夕衣の肩を叩いた。それにしても年を取らないにも程がある。本当に夕衣達と同じ制服を着て外を歩けば学生にしか見えない外見だ。
「そうそう、とりあえず座って座って」
「あ、は、はい」
ぽんぽんと背を莉徒に叩かれて、夕衣はテーブル席についた。
「で?」
「え、イキナリ?」
莉徒は注文も終えないうちから話を切り出してきた。
「あ、まずい?」
「うーん、まぁいいんだけど……」
あったことを話すだけだ。悲壮感もしんみりした空気も必要はない。親友、と言ってくれた莉徒には打ち明けておかなければいけないことだ。
「まぁ明るい話じゃないってのは何となく、ね」
「うん……。三年前にね、従姉を亡くしてるの。わたし」
「ふむ」
さして驚く様子も見せず、莉徒は頷いた。
「五つ年上の従姉で、そりゃまぁパワフルだわ、突進型だわ、背は小さいわ、細かいことは気にしないわ、時間にルーズだわ、恋愛経験豊富だわと、どこかの誰かさんに良く似ててね」
「ふ、ふむぅ……」
眉間に少々皺を寄せて莉徒が唸る。夕衣は少しだけ可笑しくなって笑顔になった。
「わたしは、その従姉とは凄く仲良しだったの。本当にお姉ちゃんみたいに慕ってて。お互いにホントの姉妹みたい、ううん、それ以上だって思ってた」
「……」
「でもその人、自分から死んだの」
やはり笑顔は消えてしまう。裕江の死の本当の原因は誰にも判らないままだ。遺書は、遺書らしき物はあった。けれど、それには決定的な死因となるようなできごとは記されてはいなかった。何故死んだのか、その本当の理由は裕江の命と共に消えてしまった。
「自殺?」
「うん」
手首に人差し指を当て、つ、と一文字に引く。本当は切った訳ではなく、刃物で手首を深く刺した後にその傷口を広げたのだという。アパートで一人暮らしをしていた裕江は風呂場で服を着たまま湯船に入り、シャワーを自分に浴びせかけたまま逝ったのだ。裕江の部屋から、あまりにも長時間シャワーの音が鳴り止まないことを不信に思った隣の住民が管理人に報告して、裕江の死が発覚した。
「細かいこととか気にしないって私が思ってたのは、そう思わされてたのね」
「まぁ表面上明るい人ってけっこうそういうこと隠してたりするしね」
何かの本でそういったことが良くあることだというのは夕衣も読んだことがあった。家庭で明るく振舞う子が学校ではいじめられていてろくに口もきかないような子であったり、ということはそれほど珍しい症例ではないらしい。
「莉徒がね、似てる、って思ったの」
「あぁ、なるほど」
夕衣の言いたかったことを、恐らく含みまで理解して莉徒は頷いた。
「わたしはその従姉とは、本当に通じ合ってるって思ってたから、ショックだった。死んだことも、ほんとに死ぬほど思い詰めた何かをわたしに隠し通したことも」
「まぁ、ね」
信じられなかったけれど、自分に切っ先を向けてくる真実。避けようがない、逃げ場もない、どうしようもないほどの現実。何日も何日も、裕江が死んだという事実が夢だった、という夢を見た。眼が覚めれば突きつけられる、裕江がいないという現実。本当は通じ合ってなどいなかったという事実。その現実から目を背け、塞ぎこんでしまった夕衣に友達だと思っていた者達は誰も言葉をかけてくれなくなった。
「ずっとね、何でちゃんと言い出すまで聴き出せなかったのか、とか、わたしのことなんてどうだって良かったんだ、とか、色んなことを考えすぎて、わたしのせいで死んだのかもしれない、とか裏切られた、とか両極端なことばかり考えて、あぁ、裕江って言うんだけど、その裕江姉と過ごした時間が、全部無駄だったのかな、って思ったらもうどうしていいか判らなくなって……」
「人と自分の間に壁を作ろうとした」
「うん」
結果的に、ということもあった。苦しいのに誰も助けてくれない。友達だと思っていたのに誰も手を差し伸べてくれない。裕江も友達だと思っていた者達も、本当に通じ合っていることなど何一つなかったのだと、裕江を喪った大き過ぎる心の穴からにじみ出てしまった心の闇が、当時の夕衣をそう思わせた。それならば誰も必要ない。大切な人ができれば、その人を喪った心の穴に耐えることもできない。それ以前に、もう誰かを大切な人と思うことができそうもない。本当にどうしたら良いか迷った時、夕衣は一人で考え、一人で立ち上がることを選択してしまった。苦しい、と一言も口に出さないまま。それは、
「ばかねぇ」
「ホントにね」
夕衣は苦笑した。莉徒の言うことが尤もだということは今の夕衣にならば良く判る。「助けて」と口に出さなければ伝わらない。いくら心の中で苦しい、と叫んでも気付いてもらえる訳がない。裕江が夕衣には、いや恐らく他の誰にもそう打ち明けなかったように。
「私は外側の人間だからさ、その裕江姉を悪く言うつもりはないし、判った風なこと言うつもりもないけど、きっと悪くないとも思う。勿論夕衣だってちっとも悪くないと思う。……でもね、結果的にそういうのは死者に呪われてる、って言うんだよ」
「そう、なんだよね……」
前の街で友達だった人間も、裕江も、きっと悪くはない。ただ一度の思い違いでその考えに囚われてしまっていることに、夕衣は遅まきながらに気付き、そしてその呪縛から解放されていった。
「それに私は裕江姉じゃないよ。私は裏も表もなく能天気だからさ。そら人並みに考えて悩むことだってあるけどさぁ」
「うん、判ってる」
そうけらけらと笑う柚机莉徒という人間に依って。
「だよね」
「似てるところがっあったとしても、莉徒が裕江姉じゃないのはホントは判ってたんだ」
「言い訳に使ってたってことでしょ」
「人と自分の間に壁を作るためのね」
本当は判っていたのだ。最初から莉徒とはきっと仲良くなれる、という確信に似た思いが夕衣の中にはあったのだから。そして実際には夕衣を裏切った訳ではなく、独りで答えを出してしまった裕江の時のように、夕衣自身が無力だと痛感させられたあの辛い思いは二度としたくはなかったという気持ちから、夕衣は自ら壁を作ってしまった。
「裏切られたって思ってたら、そういう考えになるのも判るけどね」
「でも莉徒はそんなのも突き破ってきてくれたから」
「夕衣が壁作ってるのは何となく判ってたけどさ、でもま、嫌われるまでやってみてもいいかと思ったのよ。元々私もあんまり面倒な人付き合いとかはしたくないんだけどさ、あんたとはね、何だか判んないけどじゃあいいや、で終わりたくなかったんだ」
莉徒の方もきっと夕衣に何かを感じてくれていたのだろう。今となっては本当にありがたいことだった。
「ありがと」
「でもま、夕衣からも来てくれたじゃん」
「途中からね。裕江姉もそんなこと望んでないだろうなって思ったのもあったし、軽音の人達とか
「やっぱさ、夕衣が好きだったんなら裕江姉を悪者にしちゃだめだよ」
確かにそうだ。夕衣が裕江のことで過去に囚われてしまっていたら、それは本当に呪いだ。裕江が望んで夕衣を呪っているのではない。だから、夕衣自身が裕江を悪者にしてはいけない。そう言ってくれる莉徒が、夕衣を親友だと言ってくれる。訊かなければ言い出さないことはきっと莉徒にもある。この先知らなかったことで無用に莉徒を傷つけてしまうこともあるかもしれない。だから、こうして莉徒が夕衣の話を聞いてくれたように、夕衣も莉徒の話を聞きださなければいけない。親友として。
「うん。だからね、莉徒にはほんとに感謝してるんだ」
「よ、よしなさいよそういう水臭いの」
やーね、と手をパタパタさせて、中年主婦のような仕草を莉徒はした。その直後、莉徒の背後、つまり夕衣の視線の先にある、テーブルに突っ伏していた男がむくり、と上体を起こした。見覚えがあるその後姿は、聞き覚えのある声を出した。
「すまねぇ、立ち聴きするつもりはなかったんだけど」
「はぁ?」
紛うことなき樋村
「英介……」
「ちょっと……」
「いやもうお前らきたの何となく判ってたんだけどよ、いきなり話し始めちまうもんだから……」
ばりばりと頭をかきながら英介は振り返る。明らかに寝不足な顔をしている。テスト期間中はロクに顔も合わせなかったが、恐らくテスト勉強をしていたのだろう。
「ま、でもいいよ。聴かれて困る話じゃないし」
夕衣は笑顔になってそう言った。今のこの状況になったのも、早く莉徒や軽音学部の仲間達と馴染めたのも、英介のおかげだと夕衣は思っている。
「でもお前俺に壁なんか作ってたかよ。トゲはあったけど」
「樋村に対しては壁以前にむかついてたし」
それほど前のできごとではないというのに、随分と時間がたってしまったような気がする。それくらい、今この瞬間まで夕衣が充実して過ごせたという証拠なのだろう。
「だからあれはお前のせいだっつーの」
「だとしても!」
原因がどうこうではなく、あの英介の物言いでは腹が立って当たり前の状況だったはずだ。相手に対して壁を作るも何も関係なく攻撃的な態度を取られては夕衣ではなくとも腹が立つというものだろう。
「まぁ英介はデリカシーないしねぇ」
「お前に言われたくねぇっつの」
「でも樋村にも感謝してるってば」
英介の良く言えば屈託のない性格のおかげで夕衣も素の自分を早くに出せたのだと思う。女にも男にも変わらない人当りというのは中々できるものではないと思うが、樋村英介の場合はあまり関係のないことなのだろう。
「涼子さーん、このテーブルの払い、あいつでよろしくー」
「あ?莉徒てめえ」
ひらひらと涼子に向けて振った手を英介は慌てて抑えたが、涼子はにっこりとしながらゆっくりと頷いた。考えてみれば涼子も裕江のことの顛末は知っていたのだと思う。夕衣がこの喫茶店に訪れたのは裕江に連れられてのことだった。この店に来る時はいつも二人だった。夕衣がこの街に来て、この喫茶店を訪れたとき、涼子はしばらく夕衣だと気付かなかったが、忘れられていて当然だと思っていた。しかし涼子は思い出してくれた。数年前に裕江と一緒に来ていた夕衣のことを。
「ちょっと涼子さん」
「まだ夕衣ちゃんに奢ってないんでしょ、二回分」
しばらく顔を出さなかったことや、裕江が店に訪れなくなった理由も、きっと涼子は知っている。だからこそさりげなく、夕衣が好きな音楽をかけてくれて、裕江のことも訊こうとはしなかった。
「あ、そしたらわたしと莉徒の分でちゃらにしてあげるよ」
「感謝感謝」
さして期待も込めず夕衣は言った。どうせ奢るつもりなどないのだろうし、そもそも夕衣も本気で授業料など取る気もなかったのだ。
「お優しいこってぇ。判りましたよ。奢りゃいんだろ」
「おお?」
「あれ、あんたお金あんの?」
言ってみるものだ、と夕衣は歓心した。莉徒が随分と現実的な突込みを入れたが、英介は随分と余裕のある表情で財布を取り出した。
「ま、最近はなー」
「あぁー、そうかどうりで最近女見ないと思った」
ぽん、と拳と手のひらを打ち合わせて莉徒が納得する。やはり恋人ができるとお金がかかるものなのだろう。奏一曰く、最近は女を連れて歩いていないことから特定の彼女もいないだろうとのことだったが、夕衣にしてみれば今この場を奢ってもらえることの方が重要だ。
「そういうお前だって最近大人しいじゃねぇか」
「いい男がいなくてねぇ」
過去に付き合っていたことがあってもこういう会話は平然とできるものなのだろうか。莉徒と英介の性格を考えればそれも不可能ではないような気がしないでもないが、付き合っていた当時、特に別れ際ともなればお互いに癇の強い性格だ、巧く話は進まなかったのではないだろうか。
「そんなもんだよなー。夕衣、伝票よこせ」
「あ、はい。ねぇあんたたちって喧嘩別れ?」
伝票を英介に手渡しながら夕衣は莉徒に訊いてみた。
「そうよ」
「莉徒にボコられたわ」
「で、今仲良いんだ」
冗談ともつかない英介の言葉を莉徒は特に否定もせず頷いた。
「昔の漫画とかであるじゃん、喧嘩した後に友情が芽生えるとか」
「それって男同士の話じゃ……」
学校の番長同士が喧嘩をして、お互いを認め合う、所謂「へへっ、お前強ぇな……」「フッ、お前こそ中々やるじゃねぇか……」というパターンは確かに古い、昔の漫画では見たことがあるような気がする。
「だって男みてぇな性格してんじゃん、こいつ」
「まぁ否定はしないけど」
やはり莉徒を恋人にする男は大変なのだなぁ、と実感する。
「ふぅん。で、お互い別れてから誰かと付き合ったりしてるの?」
「えー俺五人」
「ごっ……」
「私三人ー」
ぱたぱたと指折り数えて英介と莉徒は平然と言った。
「な、なんなのあんた達……」
「別れた人間に引きずられてもいいことないしね」
「そらそうだ。ま、関係は違うけどよ、そりゃおめえにも言えることなんじゃねぇのか?夕衣さんよ」
ぴ、と夕衣を指差して英介は言った。確かにその通りだ。裕江の死とそれに起因した夕衣自身の凝り固まった考えが、夕衣を縛り付けていたと思う。それを莉徒と英介が解いてくれたように思える。夕衣は笑顔になって頷いた。
「そうだね」
「ま、でもあんたの話は良く判ったわ。思わぬ立ち聞き野郎がいたのは計算外だったけど」
「お前ねー」
俺だってわざとじゃねぇんだよ、と英介は愚痴をこぼす。
「別にいいってば。今度は莉徒の話、聞かせてもらわなくちゃねー。樋村のいないとこで」
「別にいいけど面白くないわよ」
頬杖をついて莉徒は笑った。
「わたしの話だって面白くはないでしょ、別に」
「ま、そっか」
確かに笑える話ではないのかもしれないが、今までの莉徒を作り上げてきた経験談を聞くということはやはり面白いことだ。今現在の莉徒、今の莉徒の性格は大凡把握しているつもりだが、それで莉徒を知ったことにはならない。そして莉徒のその話を聞いたところで莉徒の全てを理解できないことも判っている。それでもやはり知らなければいけないことはたくさんある。
「まぁ好きに話してくれ。次はちゃんと俺がいねぇか確認した上でな」
「そうするわ。でも片側の目線じゃ考えてることも違うしね。別に話してもいいんだけどそれが全てじゃないと思うよ」
「そんなの判ってるよ。そしたら後から樋村の話も聞かせてもらえばいいんだし」
英介とも
「え、何?俺との関係メインかよ」
「そういう訳じゃないけどさ」
そこも是非聞きたいところではあるが、恐らく普段は誰も触れない、莉徒の悪名のことを聞かなければならない。夕衣がこの街にくる以前からの莉徒の友人達は皆莉徒のことを理解している。夕衣は莉徒を誤解していないだけであって、本当の意味では理解していないのだ。
「んじゃ今日のところは英介にご馳走になったことだし、帰ろっかね」
「そうだね、ご馳走様、樋村」
店内の時計に目をやって莉徒はかばんを手に取った。夕衣もそれに習うと、英介も席を立った。
「おー、これで貸し借りナシだからなー」
「借りた覚えないけど……」
「てめえの貸しはナシな!」
勉強はできるくせに言葉の使い回しを知らないのだろうか、と思う。聞くところによるとシズは勉強もできないらしいが、英介もシズもキャラクター的にはあまり変わらないような気がしてしまう。
「はいはい」
ひらひらと手を振って、夕衣は席を立った。
「えーちゃん毎度あり」
にこ、と涼子が笑顔でレジを打った。
xxvi I will be with you END
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