xii Harmonia

「絵?」

「うん、そう、絵」

 年の離れた従姉はそう言って笑った。

「元々そんなに嫌いじゃないし、ちょっとホンキでやってみようかな、とか思ってんだ」

「そっかぁーやりたいこと見つかったんだ、裕江ゆえ姉」

「いつまでも腐ってる訳にはいかないしね。動き出せるものを見つけて、やっていかなくちゃ」

 夕衣ゆいがギターを始めたばかりの頃、陸上選手だった裕江は練習中に半月版を損傷した。何度か手術も行い、走るぶんには差し支えないほどにまで回復はしたが、それ以降一切記録は伸びず、それどころか、どんどんと記録も酷く落ち込む一方だった。そして自己の記録にまるで手が届かなくなってしまったことを認めると同時に陸上競技を断念した。真夏の暑い日に、小高い丘の上にある教会で裕江は久しぶりに笑顔になっていた。

「今度さ、あたしの描いた絵で曲創ってみるとか、夕衣もやってみてよ」

「えー、まだ始めたばっかりで曲なんて創れないよ」

 ギター教室に通い始め、満足にコードチェンジもできなかった頃だ。好きなアーティストのコード譜を見て、弾語りすらも苦戦していた。

「そっかぁ、じゃあ慣れてきたらで良いからさ、そのうち」

「うん、判った」

 そうしてその一年後、後に夕衣自身がイシュターシリーズと呼ぶようになる女神の名を冠した初めての一曲が完成してすぐに、裕江は死んだ。

 裕江の前で、唄って聞かせた初めてのオリジナルソング。その時にわざわざマルチトラックレコーダーで唄とギターを別録りして曲を編集した。裕江はそのデータを持って帰って何度もその曲を聴いたと言っていた。子供の頃から裕江が大好きだった。

 優しかった裕江。本当の姉のようだった裕江。

 いつもどこかに翳りがあった裕江。

 もしもできるのならば、夕衣は、夕衣の歌で裕江を救いたかった。悩みを打ち明けて欲しかった。何かを話して欲しかった。裕江が、明らかに何か、重たい何かを背負っていることは判っていた。けれど、裕江は決してそういう姿を夕衣には見せなかった。夕衣がそのことに気付いていたことすらも裕江は知っていただろう。当時中学生だった夕衣に、何ができた訳ではないと思う。話してもらえたとしてもきっと何の力にもなれなかったし、理解すらもできなかっただろう。自分から裕江の心の内に踏み込むこともできなかった。自身の無力さと、子供さを夕衣は毎日のように嘆き、呪った。

 その当時していた裕江の指輪を圭一けいいちから貰って、それをシルバーチェーンで通した。それを身につけることで、裕江を忘れないようにしようと思った。

 指にはめることは何故だかできなかった。これは裕江の右手ではあるけれど、薬指にはめていた物だったこともある。裕江が想い、裕江を想ってくれた人から貰った物なのかもしれない。そう思うと、夕衣がしてはいけない物のように思えた。

「裕江姉……」


 は、と目が覚めた。いつの間にか眠ってしまったらしい。慌てて時計を見ると十分も寝ていなかったようだけれど、夢を見ていた。僅かな時間しか寝ていなかったというのにひどい寝汗だ。喉の調子は少し良くなってきたところなので風邪をこじらせる訳にはいかない。夕衣はすぐに風呂場へと向かった。時間という薬が少しずつ効いてきているのだろうか。裕江のことを忘れたことはない。けれど、思い出して涙することももう殆どなくなってしまった。

「冷たいのかな……寂しいのかな……」

 脱衣場の鏡に写る自分の顔を見て小さく呟いてみた。良くは判らない。ただ、それでもそれは必要なことなのだ、と思う。思えるようになったのだろうか。忘れられるから前に進んで行ける。それは確かに事実だと思うし、理解もできる。けれど忘れてはいけないこともたくさんある。見えなかったことも、見えないこともまだまだたくさんある。そしてその全てに、理解も納得もしながら進むことなどできないことも判っている。

(それでも、わたしは、生きるね)

 夕衣を仲間だと思ってくれている人達ができた。一緒に歌って、一緒に笑って、時間を過ごせる。そんな仲間がいる。

(ほんとは……)

 本当は夕衣が欲しくてたまらないと、心の奥底で思い続けたもの。失うことの恐ろしさに負けて、欲しいと口にできなかったもの。何と浅慮だったのだろう。

「おっ」

 下着を脱ぎかけたところで父の義弘がドアを開けた。

「いっ」

 ば、とその手を止めて、胸の辺りを隠してしまう。義弘も慌ててドアを閉める。年頃の娘への配慮を感じる。父親としても年頃の娘に嫌われないようにと気苦労をしているのかもしれないと考えたら可笑しくなってきてしまった。

「おぉ、悪い。今日は早いな」

「お父さんが遅いんじゃないの?」

 夕衣はいつも家族の中で最後に風呂に入る。夕衣と同じ年頃の女の子の中には父親の後に風呂に入るなど絶対に嫌だ、という者もいたが、夕衣は別段そんなことは考えない。義弘とも仲は良いし、不潔だと思ったこともない。あまりに無神経な態度を取られるようであれば夕衣も考えるかもしれないが、義弘に限ってはそんなこともないだろうと思える。

「え?あ、そうか、もうこんな時間か」

 恐らくは腕時計を見て義弘が言った。

「先入る?」

「夕衣が終わってからでいいよ」

「んじゃすぐ入っちゃう」

「あいよ」

 そろそろ気温も湿気も上がり始めている。シャワーでも良いかと思ったが、裸になってみるとまだ肌寒い。義弘には悪いが、まだ風邪もきちんとは治っていないことだしゆっくりと温まることにした。

「それにしても……」

 鏡に映る自分の姿の、胸を見て軽く溜息をつく。

(もうちょっとこう、なんとかならないものかしら)

 背が低すぎることもそうだが、幼児体系も気になる。この間ほんの少しだけ話した宮野木二十谺みやのぎはつかなど美人で背が高くて、出るところはしっかり出ていて、引っ込むところはしっかり引っ込んでいる、夕衣の目に写ったあの姿は正に夢のようなスタイルだ。中学生の頃は三年間毎日好きでもない牛乳を飲んだというのに、一向にその効果が現われない。身長にも胸にも。はぁ、と溜息をついて、夕衣は浴室のドアに手をかけた。


 風呂から上がり、自室に戻ると机の上に置いたままの携帯電話のLEDが小さく明滅していることに気付いた。Tシャツとジャージの下を身に着けて、夕衣は携帯電話を手に取る。

「莉徒」

 莉徒からのメールだ。

『ちょっと話があるんだけど、まだ寝てないようなら返信して』

 内容を確認してすぐに莉徒に電話をかける。

『おー夕衣。悪いね』

「ううん、ちょっとお風呂入ってて……。話って?」

『まだ実は全然本決まりじゃないんだけど、バンドやんないかなー、と思ってさ』

「バンド?」

 また突拍子もない話だ。突拍子もない話だが、興味はある。少し前まではバンドなど組む気はなかったけれど、莉徒となら面白いバンドができるかもしれない。

『そ』

「メンバーは?」

『私と夕衣とすーと英里と公子さん』

「五人?多くない?ていうか誰がベースやるの?」

 ギターが二名、ベース、ドラム、キーボードが各一名。そういうことになる。

『私やるよ。前にもやったことあるし。それに五人なら普通でしょ』

「そっかぁ……まぁそうかもだけど」

『ボーカルはこないだ英介んとこでやった感じで私ら、公子さんと三人で持ち回ってさ』

「それってどこまで話進んでるの?」

 まさかもう全員に話してあってあとは夕衣の返事待ちだということはないだろうが、夕衣が出演する弾語りライブはもう二週間後に迫っている。今色々と予定を立てられても対応できないだろう。

『まだ全然。私がついさっき思いついただけだから』

「そっか」

『まぁまだ誰にも話してないし、夕衣もライブ控えてるし、すぐにって訳じゃないんだけど』

水野みずのさんが前やってたバンドの音源とか持ってる?」

 すみれ達がバンドをやっていることは知っているが、各々がどういった音楽性なのかまでは判らない。莉徒が言い出すほどなのだろうから、大きなズレはないとは思うが、常に曲を創ってきた、所謂創り手の視点でも、各々の音楽性は知っておきたいと夕衣は思った。

『あるよ。すーのは英里えりと組んでた時の音源あるし』

「それ聴いてからのがいいかな」

『ま、そうだね。んじゃ明日にでも持ってくわ。あー、夕衣ってパソコンあんの?』

「あるよ。今週末くらいにはネットも繋がるし」

 やっと少しずつ片付いてきた自室を見回して夕衣は言った。

『おーおー、じゃあ全部データでCDに入れてくわ』

「了解ー」

『まぁどう動くにしても夕衣のライブ終わってからのがいいね』

 突拍子もない誘いかと思ったがどうやらそういうことではないらしい。夕衣の事情も把握した上での提案なのだろう。

「そうだね」

 各自の腕前やスタイルも気になるところだ。上手いから組みたい、下手だから組みたくないということではなく、自分達が好きな音楽、楽曲をどういったスタイルで演奏するのかは、バンドを組む、組まないに関係なく興味があった。

「音はできればライブで聴きたいけどすーちゃんのとこは今は活動してないんだよね」

『うん、私らもライブはまだ入れてないしねぇ』

「そっかぁ、じゃあ音源で仕方ないね」

 ライブ音源の録音形態が良くても悪くても、ライブハウスで見て聴いたものとは全く印象が違う。ライブは生で見るからこそライブという言葉が使われる。

『うん。まぁともかく夕衣に音源聴いてもらって、それからかな、皆に話すのは』

「その方がいいね」

 少しだけどきどきしてきた。莉徒の方から誘ってくれたことが嬉しい、と夕衣自身が判っている。現金なものだな、と自嘲しないでもないが、変に心を閉ざそうとしていた少し前の自分の方がきっと恥ずかしい。

『じゃあとりあえず夕衣的にはこのハナシ、OKね?』

「そうだね。面白そうだし」

 それにしても、莉徒はそれで掛け持つバンドが三つになるはずだが、時間的な余裕は大丈夫なのだろうか。夕衣ももしこのバンドが決まっても、一人で活動することは辞めないし、それはどのバンドも好きでやっているだろう莉徒も同じだろう。アルバイトをしてバンドを三つも掛け持ったとしたらそれだけで身動きが取れなくなってしまう。

『決まったらシャガロックに私とシズが入ってるバンドは辞めだなぁ』

「え、何で?」

『だってこっちのが楽しそうだもん』

 さすがに莉徒も三つのバンドを掛け持つのはきついということか。普通に考えれば誰もがそこに行き着く。二つならば何とかなるとは思うが、三つともなればアルバイト代だけでまかなえる物でもないだろう。

「そっか、まぁ三つも掛け持ちできないしね」

二十谺はつか達とは元々興味本位だったし、ライブもしたからね、今のとこたまぁに惰性でやろっか、って感じだったし』

「まぁ風野かざの君とか宮野木さんと話がつくならそれでいいんじゃない?」

『んだね』

 そのバンドが惰性であることが判っていたからこその提案だったのかもしれない。音楽をやっていればあれもこれもやってみたいという思いに駆られるのは当然だし、条件が揃えばすぐにでも実行に移したくなるものだ。

「じゃあとりあえずは音源、聞かせてね」

『おっけ。んじゃ明日ね』

「うん、おやすみ」

『すみー』

 そうして少しずつ莉徒を知っていくと、裕江との違いも判ってくる。当たり前のことではあるが、柚机ゆずき莉徒は髪奈かみな裕江ではない。裕江の時と同じように全てを知ることはできないだろうし、大きな影を心に持っているのかもしれない。それでも、今こうして莉徒と友達として付き合える今、そしてこれからの時間を大切にすれば良いだけのことだ。

 どんな付き合い方をしても、もしも決別する日がきてしまったのだとしたら、後悔をしない付き合い方などきっとない。誰かと出会い、楽しく過ごすということは、それが悔恨の情を残す準備期間になってしまう。

 だからこそ、裕江の時と同じように、もしもその時がきてしまったら、その時にまた後悔するしかない。

 そして、だからこそ、楽しいと思う今を目いっぱい過ごすしかない。胸元で揺れる裕江の形見を握り締め、夕衣は目を閉じた。

(喪うことは怖いけど、一人だけで生きていくことは、きっともっと怖くなるよね)

 そしてその怖さに押し潰されてしまったとしたら、夕衣も裕江のようになってしまうのかもしれない。それは誰にも判らないことだけれど、少なくとも、今の夕衣は新しい仲間達としっかり向き合って生きて行こう、と思っている。

(だから……)


 xii Harmonia END

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