i Moonlight Dance
二〇〇六年 五月
この街には母の姉家族がいる。父の仕事の都合やその他諸々、様々なことがあって、この街に越してきた。
(逃げないし、逃げたくない。きちんと受け止めなくちゃって……決めたんだから)
この街には工場地帯があって、河川敷があって、海がある。
小さな駅と商店街、それに教会。
とても良いところだ。だけれど、嫌なところがない街などきっとない。前に住んでいた街は嫌なことが多かった。この街でも嫌なことはあるのだろう。
それでも、嫌なことがあっても良い。ほんの少しだけ、前の街よりも良いことがあれば。
夕衣が引っ越してきた家から少々歩けば出ることができる河川敷周囲に民家は少なかった。自転車でも走れるコースになっている河川敷の土手の下には野球のグラウンドがいくつかあり、ベンチもあった。対岸の街の明かりは明るい。振り返ってみると、夕衣がいる側の街の明かりよりもいくらか明るく見えた。夕衣は深呼吸をして土と草の香りを体に馴染ませる。そしてコンクリートブロックが敷き詰められたの土手の斜面を降ると、グラウンドのベンチまで歩を進める。左手に持ったギターケースをベンチの上に置いてケースを開くと、アコースティックギターを取り出した。
「……」
時間にして二〇時。夕衣はアコースティックギターを抱えるとベンチに腰掛けた。ギターのチューニングを手早く済ませ、ポータブルミュージックプレイヤーのイヤフォンをつけて音楽を再生。
一つ、コードをかき鳴らす。手首と指先を伸ばし、軽く振って、耳に流れ込む心地良い音楽に合わせてギターを弾き始めた。土手の上の道も人通りは少ない。晴れていれば月明かりも明るくて、一人で練習するには良い場所だった。中学生になったと同時にギターを始めた。基本的にはアコースティックギターを弾いているが、エレキギターも持っているし、良く弾く。夕衣の演奏スタイルは一人でステージに立ち、弾き語るのが主だ。何度かバンドに声をかけられ、いわゆるヘルパーとして一緒に演奏をすることはあったが、夕衣自身、バンドメンバーになろうとは思わなかった。
ギターをかき鳴らし、声を上げる。
自ら作曲した曲をこうして毎日練習できる場所が、家の近くにあるというのはとても幸せなことだ。四曲目、自分が最も気に入っている曲を弾き終えたとき、ざり、と足跡が聞こえた。練習に夢中になっていたのと、音楽を聴きながらギターを弾き、唄っていたので気付かなかった。足音はすぐ近くでした。夕衣が振り向いた途端、その足音の主は拍手をしてきた。
「上手いねぇ!」
夕衣と同年代の勝ち気な目をした女性だ。背丈もかなり小さい夕衣と同じほどで、色を抜いた髪が月明かりに光っている。肩に恐らくはギターであろうセミハードケースをかけ、屈託なくその少女は言った。
「あ、ありがと……」
消え入りそうな声で反すのが精一杯だった。見知らぬ人と話すことはあまり得意ではない。それもいきなりのタイミングでは上手く話せる訳もない。
「私も音楽やってんだけどさ……。あぁ、私は
「えと、ゆ、夕衣……」
「ユイ、ね。綺麗な名前」
柚机莉徒と名乗った女性は屈託なく笑顔になった。丈の短めのキャミソールワンピースにベルボトムのジーンズ、少しヒールのあるブーツ。髪が邪魔にならないよう後頭部でまとめ、折り返したところをバレッタで留めている。見るからに夕衣とは対照的な、活発的な印象を受ける。
ゆずきりず、という名前の音も充分綺麗だと思ったが、それを言うタイミングを逸してしまった。こういう時にはつくづく口下手だと痛感するが、直そうと思ってはいてもそう簡単に直るものでもない。
「な、なにか……」
夕衣は言って、ギターをケースにしまった。それしか言えることはなかったし、人が見ている前で練習などできない。どう対応して良いものか、困る。
「うん?用事はないよ。ただ綺麗な歌とギターが聞こえてきたから寄っただけ。私も一応音楽やってるからさ、やっぱ上手い人の演奏聴くと気になっちゃうじゃん?」
頭を掻きながら莉徒は言った。音楽を通して友達ができるというのはこういうことなのかもしれない。それでも夕衣は莉徒に返す言葉が何も見つけられない。何をどう言ったら良いのか判らなくなってしまう。
「もうおしまい?あ、もしかして私邪魔だった?それなら帰るわ。ごめんね」
ばつが悪そうに莉徒は言って手を振った。邪魔とまでは思いはしなかったが、このまま莉徒を目の前に練習を続けることなどできない。ステージ上やストリートライブであれば人が見ていることには何の抵抗もないが、今は練習をしていただけだ。聞かせたくないだとかそういうことではないが、結局は同じことになってしまうのかもしれない。
「もしライブやるんならそのうちどっかで対バンとかするかもね。私は結構この辺りのハコ出入りしてるし、公園でもストリート、時々やるからさ、それじゃね、夕衣」
そう言うと、莉徒はくるりと夕衣に背を向けた。
「あ、う、うん……」
音楽をやっている者であればこの辺りの楽器店やリハーサルスタジオ、ライブハウスの事情も知っているのだろう。それに公園で演奏できる場もあるようだ。訊いておけば良かったかもしれないと思いはしたが、見ず知らずの他人と長話もできないことに思い至り、夕衣は小さく嘆息した。昨日この街についたばかりで自室の整理すらままなっていないし、明日からは学校へも行かなければならない。まだまだ街に慣れるには時間がかかるだろう。
夕衣はギターケースにロックをかけ、肩にかかるほどの黒髪を掻き上げると立ち上がった。
「ただいま……」
玄関を開けると、引越しの荷物の整理を一段落つけた両親がリビングにいた。
「あら、早かったわね」
優しい笑みを浮かべ、母親の
「うん、明日から学校あるし……」
「そんなに焦らなくてもいいわよ。明日
(甘やかされて……)
この街に来ること自体が夕衣にとっては辛いことだった。辛いことだったが、この街に来ることを望んだのもまた夕衣だった。前にいた街に残り、一人暮らしをしても良いのだと両親は言ってくれた。高校三年生になり大学受験も控えたこの時期のことも考えてのことだったのだろう。けれど、夕衣はこの街に来ることを自分で決めた。親元にいて甘やかされることと、辛いことから引き離し、夕衣に無用な心労をかけさせないように甘やかすこと。どちらにしても甘えには変わらないけれど、夕衣がどこにいようとも現実はいつか受け止めなければならない。
「でも転入手続き済ませちゃってるんだしさ、大丈夫だから」
苦笑、になってしまったかもしれない。夕衣はそれでも笑顔を返した。
(それに)
決心はしたものの、今はまだ従兄である圭一には会えそうもない。
夕衣は自室に入ると、とりあえず父親が早急に組んでくれたベッドにギターケースを置いて、自身もそのまま寝転んだ。机もステレオもパソコンも梱包されたままだ。早いところ片付けないといけないけれど、今は何もする気が起きない。首にかけ、シャツの中に入ったシルバーチェーンのネックレスを軽く引っ張る。先にはシルバーリングがかかっている。
「決心したんだけど……もう、三年も経つのにね……」
そのリングを眺めて夕衣は一人呟いた。ここには同情する友達も、噂話をする他人もいない。夕衣を知る人間は母の兄家族だけだ。新しく、何もかもを一から始められる。そういう希望もあった。だけれど、過去に拘ってしまう最大の原因もこの街にはある。
「……」
先ほど河川敷で会った、柚机莉徒のことを思い出す。この街で音楽活動をしていると言っていた。恐らくはバンドを組んでいるのだろう。あのタイプの声はしゃべる時と歌声が変わるタイプだ。きっと唄ったら高めでハスキーな、綺麗な声をしているのだろう。
「さよならとつぶやいて、貴方の背中、見送った」
ここのところ気に入っている唄を、軽く口ずさんだ。前に住んでいた街を出る前に創った曲だ。この曲をこの街のどこかのライブハウスで弾く日もくるだろう。休みの日には駅周辺を散策してみようと夕衣は考えた。大体音楽スタジオ等は駅周辺にあるものだ。スタジオさえ判れば、ライブハウスなどの張り紙もしてあるだろう。柚机莉徒に再び会える保証もないし、あまり狎れ合う気もない。実際に夕衣のような人間相手では誰も友達にはなりたくもないだろうと後ろ向きな想像までしてしまう。
「夕衣、お風呂は入れるからね」
ドアの外から母親の声が聞こえてきた。
「うん」
引っ越してきて、少し部屋の片付けをしてからすぐに出てきてしまった。風呂に入り、さっさと寝てしまった方が良い。明日の転入初日のことを考えると憂鬱になるし、転入生というだけで周りを囲まれたりするのかもしれない。そういった扱いは鬱陶しいし、そういう人間達と狎れ合う気は、やはりない。
本当に大切な人など、もういらない。友達も恋人も望まない。そうして生きると決心した。だからこの街に来た。そう思えば、圭一に会うことも先延ばしにしない方が良いのかもしれない。
(それでも、できることがある内は大丈夫だから……)
指輪を眺めながら、夕衣は心の中で呟いた。
風呂から上がり、髪を乾かした後、夕衣は自室のもう一つあるギターケースからエレキギターを取り出した。夕衣が創る曲はエレキギターで弾き語る曲もある。本当はバンド活動をしていた時に創った曲なので、バンドとして演奏した方が完成度は高い曲なのだが。Fender Mexico社のストラトキャスターを取り出し、チューニングをするとベッドに腰掛けて軽く引き始めた。唄っている時やギターを弾いている時は余計なことを考えなくて良い。時計の針は十二時を指していた。アコースティックギターでは音が鳴りすぎて迷惑になってしまうので、遅い時間にギターを弾くときはエレキギターをアンプラグドで弾いている。いつもなら少しインターネットで時間を潰したりもするのだが、ネット環境はまだ整っていないし、部屋の中もまったく整理されていない。とりあえずギターを弾くだけ弾いたら寝てしまうしかない。
「はぁーもぉーめんどくさいめんどくさいおっおーいえー」
冗談めかして今の気分をコードに乗せて歌ってみた。歌ったところで部屋が片付く訳ではないが、少し気持ちは軽くなった。やはりギターを弾いて歌っている時間は幸せだと思う。
「あの子も、そうなのかな」
つい莉徒のことを考えてしまう。夕衣のギターと歌が気になった、と言っていた。中々ああして褒められることも少ないし、友達にはギターを弾いている女の子などいなかった。きっと莉徒も純粋に音楽が好きなのだろう。狎れ合うつもりはないが、もしも莉徒が楽曲を演奏しているのならば聴いてみたい。
「らららおっおーおーめんどくさぁいめんどくさいんだぜー」
じゃかじゃかとギターを弾いてごろり、とベッドに寝転がった。
転校というのは夕衣にとっては初めての経験だ。私立
「……」
小さく嘆息して夕衣は校舎へと向かった。時間帯はまだ部活動の早朝練習の時間帯で、生徒もそれほど多くはなかった。気分的には幾分楽ではあるが、この先のことを考えると不安になることには変わらない。
職員室、校長室、再び職員室と経由をして、諸々の説明を受けた後、夕衣は教室に案内された。Ⅲ-Aというのが夕衣のクラスになるようだった。教室はざわついている。授業前の教室などこんなものなのだろうが、転入生という立場である夕衣はつい自分のことが噂になって教室がざわついているのではないか、と不安になってしまう。
「じゃあ呼んだら入ってきてね」
担任の女教師、
「みんな噂は聞いてるだろうけど、転入生、今日からこのクラスに入ります」
何とも言いがたい歓声が廊下にいる夕衣にまで聞こえる。
「じゃあ入ってきて!」
声がしたので、夕衣は俯いたまま戸を開けて教室に入った。綾子は黒板に夕衣の名前を書く。夕衣は教壇の隣に立ち、視線を上げた。
(あ……)
昨晩河川敷で出会った女性がいた。見間違いではない。夜とはいえ月明かりは明るかったし、髪型も昨日と同じだった。窓際の一番後ろの席。色を抜いた髪が太陽の光を反射していて綺麗だった。
(柚机莉徒)
そう心の中で呟いた時に莉徒と目が合った。莉徒も驚いていたようだが、すぐに夕衣に向かって小さく手を振ってきた。
「じゃあ自己紹介よろしくね」
夕衣の視線と莉徒の小さな行動には誰も気付かなかったようだった。というよりも見ないようにしているとか、関係ない、と言う態度が見て取れるような気もした。夕衣はぽんと肩を叩かれ、綾子に促される。
「あ、今日からこの学校に通うことになりました」
視線を落としそうになる。ステージ上ではこれほどの人数ではないが、人前で歌うことだってできるというのに、挨拶一つも緊張してしまう。夕衣は落としかけた視線をもう一度莉徒に向けた。莉徒は窓の外を眺めていた。莉徒にとっては転入生がクラスメートになることなど瑣末ごとなのかもしれない。その莉徒を見て何故だか安心した夕衣は視線を上げた。
「
i Moonlight Dance END
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