金魚と莫迦者

美作みまさかは常々、「おれは莫迦じゃない、絶対、ない」と思ってきたが、家の前にずぶ濡れの女がぽつねん、と立っていたときは、目が莫迦になったかと思った。カンカンに晴れた、夏の終わりに近づいた日の事だった。

「──嗚呼、っと······」

口も莫迦になったかと思った。碌なことばが出ず、眼鏡の位置を意味もなく正した。何をいえばいいのか分からなかったのだ。目をすぐ側の家壁へ逸らして、また前を見ても、女がいる事実は変わらなかった。

女は真っ赤な髪をしていた。晩秋に見る楓の如き赤だった。よもや異人かと思うも、着物は本国の浴衣であるし、肌も世間が云うほど青白くない。顔の平らさはニッポンの人間のものに思えた。

首を伸ばして女がぼうっと見ている家を見た。美作の家だった。美作はウッと喉を鳴らして、ことばを捻り出した。

「もし。そこで、何をなさっているのか」

女はしばし沈黙して動かず、やがて美作へ顔だけ向き直った。うつくしい女だった。

女は美作をジッと見て、ゆったりとして、口を開いた。

「ア、あの······」

美作は厭な予感がした。なんとなく、この先にあまり好ましくない事態が待ち受けているような、そんな感じがした。首裏で鎖がジリジリ絡まっているような音がした気がした。

「ア···あたし、宿を、探しているのです」

美作は気の抜けた声で返事をした。美作の住んでいる土地は、工場務めの男衆が一人暮らしをしているか、親子が少し広めの部屋を借りているか、そんな長屋暮しの人間が多い。斯く言う美作も、一人暮らし用の狭い家を借りて細々と生活している。美作は売れない文字書きであったから、家賃のために、やりたくもない学び舎の非常勤講師を粛々とこなし、今日も自分の巣に帰ってきたところであった。このあたりには、そうやって何とか日銭を稼ぐ世帯が多い。宿場を探したいのなら、こんな余裕のない地域ではなく、宿が建ち並ぶ温泉街にでも行った方が幾分か探し易かろう。

「宿場なら、もっと向こうに在ります」

「いえ、いえ······あの、」

女は水に濡れた真っ赤な髪を耳にかけ、髪や着物以上にしっとりと濡れた瞳で美作を見た。

「貴方様の家に、入れて欲しいのです」

美作はまた、気の抜けた声で返した。


***


女は部屋の隅に置いておいてくれればそれでいいと言った。飯も風呂も自分でなんとかするから、家のことも一通りできるから、とにかく家に置いて欲しいと。

美作の厭な予感は恐らくこれしかないと思って、重い息を吐いた。女は奇天烈な色彩をしていようとうつくしい女であったので、そのままにしておくのも何かあったら寝覚めが悪く、かと言って、いかにも訳ありで御座いと言いたげな女を家に置いておくのも面倒事の予感がした。とりあえず家に置いて、外に出る気が起きたら駐在にでも言い付けに行けば良いと思った。

女に手拭いを渡して、ずぶ濡れの図体をどうにかしてくれと頼んで、しばし。

「貴女」

美作は女に目を合わせることなく、尋ねた。

「名は」

女は着物や体を拭う手を止めた。衣擦れの音が止んだ。

「キン······と」

「キン」

繰り返して、美作は本日幾度目かの溜息を吐いたのだった。


***


キンはよく働いた。真っ赤な髪が目立つので買い物にはやれなかったが、せかせかと動いて髪が揺れる様が、祭りの金魚のようで、見ていて心地が良かった。

飯や風呂は要らぬというが、口だけではなかったようで、どこで調達して、いつ湯に浸かっているのか、美作の知らぬ所で済ませているのか、美作に何かを要求することはなかった。美作は買い物と、時々講師に出かけるくらいで、元々嫌いだった家事労働をしなくともよいようになって、未だに駐在の元にキンのことを言いに行くことは無かった。

キンを見つけた日から、カンカンに晴れた日は続いていて、道端でミミズが干からびて死んでいることが多くなった。最後に雨が降ったのが、キンの来る日の少し前、祭りの日であったことを思い出した。

美作は己のことを莫迦ではないと思っていたが、その実、自分に自信が全く無い男であったので、周りを見て、周りは自分より莫迦だと思って、気を保っていたのであった。

祭りの日にも、莫迦騒ぎをしている人間を見て、おれはこんなに莫迦じゃないと思いたくて、人々を見下すために夜市へ行った。そこで、たらいに囚われた金魚を見た。ちょうど、キンのように晩秋の楓の色をした、真っ赤な金魚たちだった。美作はやがて人に飼い殺される金魚を見て、哀れだと思って鼻で笑った。口角すらあがっていたかもしれない。

夜市ではしゃいで、羽目を外す人間を見て、莫迦だ莫迦だと満足して布団に入った。

キンが来てから、美作の生活は充実していた。そんなふうに人を見下す必要が無くなった。キンは家事労働に加えて、美作の書く話の誤字脱字の確認までしてくれて、必ず賛美を口にした。美作を、とても人の出来たお方だと云うのであった。


***


ある日美作は、キンが注いだ酒を煽っていた。その日一日も、とてもよく晴れた日だった。しかしそれまでの日々と違ってその日は冷たい風が吹いた。買い物帰りに、トンビが空を旋回していた。明日には雨が降るかもしれない。そんな話をキンに話して聞かせていた。

キンはふと悲しい顔をして、酒を注ぐ手を止めて、膝の上に落ち着かせた。

「どうしたのだね」

「美作さま」

美作も猪口を傾ける手を下ろして、キンの話を聞く姿勢をとった。

「明日」

「うん」

「明日、わたしはかえります」

美作は呆けた。

「なんだって」

「そういう約束なのです。次に雨が降ったら、わたしは、もどります」

「どこへ」

「······どこにも」

キンは要領の得ない話しかしなかった。どこに戻るのでもなく、ただ、元に戻る、帰るのだと、それだけを言った。

美作は絶望した。

キンが来てから健やかになった心が、キンが居なくなった後も健やかで居れる自信がなかった。

「雨が降るまでの約束だったのです」

キンは、ただそれだけを言い張っていた。


***


翌日、それまでの日照りが嘘のようなやさしい雨が降った。激しいわけではないのに、美作の心は野分の中にあるかのように荒れていた。

美作はキンが土間に立つまで、言葉をひとつも掛けなかった。

「美作さま」

美作は返事をしない。だがキンは続けた。

「お祭りの日、貴方様のお姿をお見かけしてから、お慕いしておりました」

美作はキンと目を合わせた。

キンはしっとりした瞳に溢れるほど水を湛えていた。

「貴方様の笑ったお顔を見て、どうにか、貴方様と過ごせないかと、祈ったのです」

美作はそこで、何かに気づいた気がした。

「美作さま、ありがとう。左様なら」

キンが引戸をカラカラと鳴らして、外へ出ようとしたとき、漸く美作は声を出した。

「おまえが、もし、ひとであれば······」

キンは応えない。

「この雨のなか、帰ってくれるなと······」

キンは肩越しに美作を見て、微笑んだ。無言のままだった。

「······」

美作は何も言えないまま、キンが出ていくのを見送った。

そして耐えきれず、自らも戸の向こうへと足を踏み出した。

誰も、居なかった。

サァサァと降る雨とは違う、トプンとした水音がして、端の溝に流れる水を見た。ひらひらとした金魚が、悠々として、美作を置いて泳いで行った。

「この、ひとでなしが」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浪漫巣 明星浪漫 @hanachiri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ