人魚の足跡
「うぅみはァー、ひろいな、おっきぃいぃなァ」
焼けるほどの砂浜の温度を覚えている。
「つぅきはァー、のぼるぅし」
白く、砕けた貝殻たちが足の裏を刺激したと感じるより先に、熱が皮膚を貫いて、ギャッギャと騒いで、父にサンダルを取ってくれと叫んだ。蝉がジジジジと鳴いている。ジリジリと陽炎が立ち上る。遊泳可能なエリアでは多くの浮き輪が浮かんでいるし、砂浜に埋められて筋肉モリモリなマッチョにされてるおじさんもいる。帰省してはしゃいでいる学生も······いや、いた、ような気がする。毎年海開き後はそんな感じの海辺だし、あの年も、きっとそんな感じだったと思う。都会みたいにパラソルを立てている人は少なくて、砂浜ではお城を作り放題だった。泳いで、作って、泳いで、かき氷を買ってもらって、また泳いだり作ったり、する。
「ひは、しぃずぅむぅう」
私は昔から泳ぎが下手で、どこの海に行くにも浮き輪を手放せなかった。水ですぐ目を赤くするからゴーグルを首にかけっぱなしでいた。底まで透けて見える浅葱色の水越しにチラつく小魚を見つけては、捕まえようとゴーグルや手を水に沈めた。
「下手くそ」
人魚に出会ったのは、浮き輪の穴にお尻を突っ込んで歌っていたときだった。まだ浅いとは言え、当時の私たちの身長ならば足がつかないはずのそこで、少年人魚は器用に立ち泳ぎをしていた。
「······なに」
「お前、歌下手くそだな」
「······」
生意気な少年は肌が小麦色に焼けていてまさに、少年、といった様で、ゴーグルも、浮き輪もなく、水面の向こうには海水よりも濃い青色の水着が見えるのみであった。ただ、喋るたびに真っ白な歯が見えて、前歯が一本抜けていて、ふふん、私はもう二本も大人の歯なのよ、なんて考えていた。歌が下手だと言われて少なからずショックを受けたので。
「お前、およげねぇの」
「······泳げなかったらダメなの」
「ダメじゃねぇけどさァ」
少年人魚はくるくると私の周りを泳いだ。水中でばたばたと動く足が、そう、本当に人魚のようだった。それほどまでに滑らかだった。
「おれは泳げるよ。プール通ってるから」
「へえ」
「けど海がいい。海がいいぞ」
「ふぅん」
私は確か、興味無さそうに相槌を打っていたと思う。たまにお酒に酔っ払って面倒くさくなる父の話を聞いてあげるのは、末っ子の私であったので。少年は微妙そうな顔をして、私のゴーグルを指さした。
「人に指さしちゃいけないんだよ」
「ゴーグル」
「ゴーグル?」
少年はこっこっと頷いた。潜れはするんだろ、と言った。ちょっとだけならね、と私は返した。少年は私の浮き輪に手をかけて、ゴーグルを付けさせようとした。浮き輪が半分沈んで、ぎゃっ、と声を上げた。少年を押し返して、ドッドッドッと脈打つ心臓をゴーグルごと握りしめた。
「何すんの」
「ちょっとだけ、海ん中入ろ」
私は不承不承ゴーグルをしっかりとつけて、隙間がないようにきゅっとレンズのふちを押して、それから浮き輪の穴に片腕を突っ込んだ。少年が合図した。私は鼻を摘んで浮き輪の穴から海の世界へ飛び込んだ。
ごぽりと、泡が目の前を昇っていく。
別世界だった。
少年はぐんぐんと水をかき分けて、足を鰭のように波打たせて、私が捕まえ損ねた小魚たちを従えていた。彼の周りを纏う、波の軌跡が見えた気がした。水中にも流れがあるんだな、海の色って、青だけじゃないんだなと、そのときからずっと考えている。見蕩れていたら息が苦しくなって、もう上がろうと上を見た。キラキラしていた。水面に太陽が反射して、白だけの万華鏡を覗いている気分だった。自分の体質を憎んだ。ゴーグルのレンズ越しなんかじゃなくて直接網膜に焼き付けたかった。
顔を出したとき、少年は頭を振ってニカッと笑った。一本ない前歯がかっこつかなかった。けど、すごく眩しかった。
「すごい」
「だろ」
「すごかった」
「お前にも泳ぎ、教えてやるよ」
砂浜から母が呼んでいた。私は少年に浮き輪を引いてもらいながら、ひたすらすごいとばかり言っていた。子どもの語彙なんてそんなものである。父が水中を歩きながら引いてくれるよりも少し早くて、たいして深くなかった場所から砂浜に着くのは、あっという間だった。
そうだ、砂浜にあがったときに、少年に足があるのがいっそ不思議だったのを覚えている。
「次、いつ海行くの」
「······月から土は学童だからいけない」
「えー」
「再来週の日曜なら来ると思う」
「じゃあその日に教えてね」
「おう」
少年はいつでも私より先に海に入って、悠々と泳いでいたので、やはりこいつは人魚なんじゃないの、と私は半ば本気で思っていた。聞けば音楽の成績もそれなりに良かったらしい。やっぱり人魚なんじゃん、と言うと、馬鹿じゃねぇのと言われた。不幸にも当時は成績があまり芳しくなく、馬鹿と言われてもぐぅとしか言えなかったのである。
「で、そんときから海の絵描いてんの」
「そうよぉ。あれから歌の練習もしたんですからね」
「馬鹿じゃね?」
水泳部の練習が終わり、次々と生徒が上がってくるのを、ベンチから眺めていた。すぐ横に水筒とタオルはあるが、屋根付きのベンチであるにも関わらず、少し温くなっていた。
スケッチブックにザカザカと生徒たちを描き写して、時折プールサイドに肘を付く男と懐かしい話をしていた。
「お前ぇ、早く上がって片付けしろオ」
「やべ」
ザッパと水から上がって、ぼたぼた水滴を垂らしながら歩く男に、タオルを投げつけてやった。手を軽く上げて礼をするのにため息を吐いた。私も荷物をまとめて、更衣室横の出入口へ向かうのだ。
プールサイドに、私より大きな足跡が残る。それはかつて出会った人魚が、足を得て私の横に並んだ証であるのだ。
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