かえりみち

硝水

第1話

 かえりたい、と彼女が呟いたのを私は無視できなかった。小さなコタツの天板に顎をのせた彼女は虚ろな目で酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくしている。丁寧に筋を取り除いた蜜柑をゴールポストに放る。

「帰ってきたばっかじゃん」

「え? うん」

「これ以上どこに帰るつもり」

「うーん」

 と唸ったきり、コーヒーを啜る音だけがしばらく聞こえている。実家とか言い出すんじゃないだろうか、とそれだけが心配だった。

「土とか海とか、そういうところが還るべき場所だって郁美は思う?」

「あんまり」

「母の腹は」

「もう一度母に負担をかけるのは……」

「現実的」

「私の帰る家はここだし、死んだら空に還るんじゃないの」

「星になるタイプかぁ」

「バカにしてんな」

「してないしてない」

 合間合間にもにもにと蜜柑をつまみながら電話台(とは名ばかりの棚)にのせられた写真立てを眺める。シーリングライトのまるい光が反射してその顔を隠しているが、私達はそこで笑っているのが誰なのかよくわかっていたし、確かめる必要もなかった。

「志帆はさ、どこにかえるつもりだったんだろ」

「さぁ」

 どこにかえるかは、そのひとの信じるものや価値観によるし。志帆に会いたいと思ったって、志帆に会いたいという理由以外で『そこにかえる』意味を自分で信じてみつけていかないといけないから。

「会いたい時に会える時期は終わったんだよ、私達」

「しってる」

「年末年始帰省しないの」

「しないって何度も言ってるじゃん」

「帰りたいって言ったから」

「そういう意味じゃないもん」

「来年は志帆のお墓参り行かないとね」

「石と骨拝んでバカみたいって思わない?」

「石と骨しか志帆が残ってないんだから仕方ないんじゃない」

「志帆さぁ」

 彼女の目が床に散らかされた朝刊の上を滑る。派手な新刊広告が載っている。

「最終巻読みたがってたよね」

「そうね」

 栞を文章に添わせて読む癖があった。読んだ一文一文を視界から消して想像の世界に昇華する。志帆のノートはどのページも上隅が長方形に切り取られていて、それをぜんぶ、栞として使っていた。これ面白いんだよ、と読み終えて栞だらけの文庫本を貸してくれるその笑顔は憶えているのに、どこにかえったのか、知らない。

「どこにかえろっか」

「間違ってもかえり直せるとこから行ってみよ」

「ずりー」

「ノーヒントなんだから三回くらいチャンスがないと」

 向こうで会った時、一言一句違わず書き起こせるように。志帆が読みたかった本を、何度も何度も栞だらけにして読んでいる。

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かえりみち 硝水 @yata3desu

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