第参章 第拾節:絶体絶命

 色鮮やかな茜色の空の下、みことは帰路に着いた。

 いつもとの相違点は、隣には一颯がいること。

 それだけならば、みこととしても差して問題はなかった。

 彼と行動を共にするのは、なにも今日がはじめてではないのだから。

 いつものように一緒に調査して、時に談笑する。帰宅する際もいつもと同じだ、とそう思っていたみことだったが、B沢公園を後にしてからというものの、二人は一切会話していない。


「あ、あの……」と、沈黙に耐えかねてみことがどうにか声を掛けようと試みるが、肝心の一颯は見向きすることなくすたすたと先行しては時折、周囲をきょろきょろと一瞥いちべつするばかり。


 話しかけにくい……! さっきまでのお出かけが嘘のように重苦しい空気に、みことは表情かおを強くしかめた。


「あの、一颯さん? もしかして……さっきのこと・・・・・・で怒ってます?」と、おずおずと尋ねるみこと。


 彼女の言うさっきのこと・・・・・・、とは言わずもがな給与に関する話題である。

 大前提として、細川みことに悪意はこれっぽっちもなかった。

 単純に知的好奇心からくる何気ない質問を彼にしただけにすぎず、しかしそれが一颯の機嫌を損ねた原因であるならば、非は当然みことにある。



「あの、本当に悪気というか、そんなのはなかったんですよ? 本当にどれぐらいもらってるんだろうなぁって気になっちゃって、つい――」



「みこと」と、途中で遮った一颯だがその声に穏やかさはない。



「は、はい! ほ、本当にごめんなさい!」



 みことは必死になって謝罪した。

 それさえも一颯は答えない。

 何故ならば彼は終始虚空を凝視して、かと思えば上下左右と、その挙動はまるで何かを追っている。みことの目にはそのように映った。


「え、っと……一颯さん?」と、おずおずと顔色を窺うみこと。



「みこと……構えておけ」

「へ?」



 みことが素っ頓狂な声をもらしたのと、ほぼ同時。

 それは突如として、何もない虚空よりぬっと姿を露わにする。

 身近なモノで例えるならば、蛇がもっとも近しいだろう。

 もっとも実在する蛇と比較すれば、サイズから形状と、何もかもが大きく異なっているが。

 胴周りは、とにもかくにも太い。2mはゆうにあろう胴体は後端が見えないぐらい非常に長い。

 そして顔は異形そのもの。形状は蛇のそれと酷似こそしているが、巨大な金色の目が一つと、後は剣のように鋭利で長い二本の牙が何よりも特徴的だった。

 これまで出会ってきたどの怪異よりも遥かに巨大にある姿形に、みことはすっかり呆気に取られてしまった。



「来るぞ! 呆けるな!!」



 一颯からの一喝にハッと我に返った、次の瞬間。

 耳をつんざく不快な咆哮と共に、怪異が鋭く牙を剥いて二人に襲い掛かった。

 住宅街であるにも関わらず、怪異がその巨体を遠慮なくうごめかせれば住宅は驚くほどあっさりと倒壊していく。

 そして夕刻ともなれば当然、家の中には人がいるわけだが何故か人っ子一人気配がない。


 みことが不思議がっていると「特殊な結界だ!」と、とても端的に一颯が答えた。



「基本怪異は、表で目立った行動は避けようとする知能がある。だが極たまに、後先考えない馬鹿で救いようのない怪異もいるわけだ。そんな奴が表で何も考えずに暴れまわってみろ、どれだけの被害が出るかわかったもんじゃないぞ」

「だ、だからその結界なんですか?」

「そういうことだ。詳しいことは後で説明するとして、今は戦闘に集中しろ!」



「は、はい!」と、みことはここでようやく打刀を抜いた。


 大蛇の怪異が再び大口を開いて二人へと強襲する。

 そのサイズからまず、噛みつかれれば一溜りもない。

 牙は剣のように鋭いし刺されば即死は免れまい。

 仮に牙でなくとも、人間一人分ぐらい楽々丸のみにできよう。

 防御は得策ではない。みことは辛うじてと言った様子ながらも、大蛇の怪異からの攻撃からひたすら回避行動を徹底した。とは言っても彼女への被害は差ほど大きくはなく、寧ろみことの分まで一心に怪異の注意を引き付ける一颯への攻撃の方が苛烈だ。


「私にもできることをやらなくちゃ……!」と、みことも攻撃に転ずる。


 彼からの命令は『自分を守ることを徹底する』というもの。

 これを破ればみことの肉体はたちまち、“血化粧ちけわい”による激痛が伴うのだが、当の本人は至ってけろりとした様子でいる。大蛇の怪異に攻撃したにも関わらず、何故ピンピンとしているか――答えは、とても単純である。



攻撃は最大の防御・・・・・・・・って言うし、ね……!」



 倒すためではなく、これはあくまでも自分を守るための攻撃である。

 こう置き換えることで、みことは“血化粧ちけわい”の穴を突いたのだった。

 そして、彼女の得物は村正の作刀だ。怪異に絶大な効力を発揮する刃が、容赦なく太く長い胴体をばっさりと斬った。赤々とした鮮血が勢いよく噴出して周囲はたちまち朱色に染まり、むせ返る鉄の独特の臭いが鼻腔を強烈に刺激する。


 そのあまりの異臭に「うぇ……」と、みことがほんの一瞬だけ気を緩めたのと、ほぼ同時。


「みこと! 危ない!」と、一颯の叫び声の後に、みことは身体に強い衝撃がどんと走ったのを憶えた。


 衝撃の正体は一颯の右手で、彼が突き飛ばしたのだと理解した頃には、一颯の身体は空高くを舞っていた。

 大蛇の怪異の尻尾が、さながら鞭のようにしなって強襲したのである。


「い、一颯さん……!?」と、みことは彼の元まで走った。


 本来自身が受けるはずたった攻撃を、一颯に肩代わりさせてしまった。

 自分が油断をしていなかったら……、途方もない自責の念に苛まれながらも、みことは迫る大蛇の怪異からの攻撃をどうにかかい潜り、そして一颯の下へと駆け寄った。


「一颯さ……」と、みことは思わずハッとしてしまう。


 結論から言えば、一颯はまだ生きている。

 もっとも、その状態は決して良好ではない。風前の灯火といっても過言ではなかろう。

 息も絶え絶えで、右腕と左足については酷い骨折だ。

 衣服を突き破る白いそれが何かは、あえて確認するまでもなかろう。

 自らの血溜まりの中に沈む一颯に、みことは必死に呼び掛けた。



「一颯さん起きてください! 一颯さん……!」



 みことの呼び掛けに、だが一颯はまったく応えない。

 そうしている間にも、大蛇の怪異はゆっくりと牙を剥き二人に迫りつつある。

 片や虫の息で、片や戦力外……であれば警戒するに足らず。そう判断したのだろう、さっきまでとは違ってその動きには緩慢さすらあった。



「……一颯さん……ッ」



 みことは、すっと静かに立ち上がった。

 鋭く、強い意志を秘めた視線は大蛇の怪異をしかと捉える。


 ゆっくりと打刀を中段に構える傍らでみことは「私なんかが戦っても、きっと勝てない……」と、弱気な発言をしたすぐ後。


「それでも! 今度は私が一颯さんを守るんだから!」と、高らかに叫んだ。


 相手との力量の差は、もはや歴然でわざわざ今から確かめる必要もない。

 このまま挑んでも十中八九、みことは勝てないと確信していた。

 逃走するというのはどうか――これも、彼女の中では最初から除外されている。

 一颯の心情を組むとすれば、彼のことだからどうして逃げないときっと強く叱咤するに違いないとも、みことは理解している。

 それでも自分だけが、散々迷惑を掛けた相手を置いてのこのこと逃げるなど、みことはどうしてもできなかった。



「私だって、やる時はやるんだからね!」



 けたたましい咆哮の後、大蛇の怪異がみことへと襲い掛かった。

 咬撃こうげき……それは生命の大半が誕生したその瞬間から備わる闘法。

 単調な攻撃手段でこそあるが、特に修練の必要もないし咬筋力の有無によって絶大的な破壊力をも生む。大蛇の怪異の場合は、一撃必殺に匹敵する。


 みことはしっかりと、打刀の柄を握り締めて「待……て……」と、か細い声にはたと振り返った。



「一颯さん!!」

「お前は……自分を守ることだけに集中……」

「そんな傷で何言ってるんですか!? 一颯さんこそ早く――」

「少しばかり、暴れるから下がってろ……」



 次の瞬間、一颯の身体が赤みを帯びた黒炎に包まれた。

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