第参章 第拾壱節:異形

 黒紅色の炎の勢いは凄まじく、たちまち一颯の身体を飲み込んでしまう。

 彼の身に突如として起きたこの異変に、みことは酷く狼狽した。

 とは言っても、どうすればよいのか皆目見当もつかない。

 消火しようにも周囲に水などあるはずもなく、それ以前にたかだか水如きで消火できるとは、みことも到底思えない。

 どうすることもできないまま、呆然と見守るしかなかったみことが「え……?」と、驚愕に表情かおを歪めた。



「…………」



 一颯が何事もなかったかのように起き上がった。

 黒紅色の炎の勢いが弱まったものの、小さな火種がまだあちこちでゆらゆらとくすぶっている。


「い、一颯さん……?」と、彼を呼ぶその声はわずかに震えていた。


 何故ならみことの眼前にいるのは、彼女の知る一颯とは遠くかけ離れた存在だった。

 三つの金色の輝きを発する眼に、鋭く細かな牙がずらりと並ぶ異形の形相は、あまりにも人間離れしすぎている。


 まるで黒狐みたい……、衣装も現代的なスーツとは打って変わって、燃え狂う焔のような赤い模様が印象的で闇夜に溶けやすい、濡羽色ぬればいろの軽鎧とその出で立ちは忍を彷彿する。



「い、一颯さん……なんですか?」



 みことの問い掛けに、一颯と思わしき異形の存在は答えない。

 終始無言のまま、不意に視線をふいと変えた。

 三つの眼が向く先には、大蛇の怪異がいる。

 さっきまでの苛烈な攻めも鳴りを潜め、ジッと一颯の方を睨む。

 やがて、再びけたたましい咆哮を茜色の空へと上げた。

 それに呼応するように、あるいは反発するように一颯もけたたましく咆哮をあげる。

 人間としてのそれよりも、獣の方に大変近しい。

 一颯が地を蹴った。ドンッ、という鋭く重みのある一脚は大砲のように大地を轟かせ、一颯をあっという間に大蛇の怪異の頭部まで運んだ。


 人間だった頃の彼からはありえない身体能力に「えっ? えぇ!?」と、みことはひたすら困惑するばかり。


 そんな彼女を他所に展開はどんどん矢継ぎ早に流れる。

 みことの頭上で、痛ましい咆哮が響き渡った。

 続けて赤黒い雨がざぁっと勢いよく地上を打つ。

 程なくして怪異の巨躯が、ぐらりとゆっくりと揺らぎ、そして周囲の建物や環境は破壊しながら崩れた。



「…………」



 みことは、口をぽかんと開けたままその場に立ち尽くす。

 あまりにも衝撃的すぎる出来事に彼女の脳は処理がまるで追い付いていない。

 辺り一帯を漂う濃厚な血の臭いさえも全然気にならない。


「一颯、さん……?」と、みことはおずおずと彼の名を呼んだ。


 一颯はやはり答えない。

 荒々しい呼気は本当に獣へと成り果ててしまったようで、みことはごくり、と生唾を飲んだ。

 たっぷりと返り血をその身に浴びた彼は、しばらくしてその場にどしゃりと崩れた。


「い、一颯さん!」と、みことは急いで駆け寄った。


 瀕死の重体でありながら、先の戦闘による酷使をして無事なはずがない。

 いつ、一颯の体力が限界に達してもなんらおかしな話ではなかった。

 黒紅色の小さな火種もいつしか鎮火して、姿格好もどろりと泥のように溶けたかと思えば、元の姿が再び現れる。他の誰でもない、正真正銘本物の大鳥一颯おおとりいぶきだ。



「一颯さん! 一颯さんしっかりしてください! 一颯さん……!」



 みことがいくら呼び掛けても、彼からの返答がくることはなかった。

 呼吸も耳を澄ませてようやく、微かに聞こえる程度のもの。

 そこから今正に尽きようとする命に、みことは更に焦った。

 とにもかくにも、一颯の人命救助が最優先事項なのは言うまでもない。

 みことがスマホを手に取った、のとほぼ同時である。


「あーいいッスよ君は、そこまでしなくても後はボクらが処理するッスから」と、背後から突如ひろりとやってきた女性に、みことはハッと振り返った。


 すらりとした高身長に、腰まで届く黄金のように輝く長髪がとても美しい。

 そして出で立ちは、彼女が味方であることを証明する。



「あなたも……【衛府人えふびと】なんですか?」

「そうっスよ。ボクの名前は時雨ときうカナデ。カナデちゃんとか、時雨しぐれっちとか、色々呼ばれてるけど君の好きなように呼んでくれていいッスよ」

「は、はぁ……」

「それにしても、君……」



 つかつかと歩み寄る女性――カナデにみことは自然と身構えてしまう。

 ジロジロと上から下まで、忙しなく視線を動かしてはうんうんと一人勝手に唸る。

 なんだか品定めをされているようで、みことにすれば心地良いものではない。


 程なくして「やっぱり、いい!」と、カナデは柏手を一つ打った。


 きらきらと瞳を輝かせ満足そうに微笑む姿は、まるで子供のようでまったく大人らしくない。



「いやぁ、一目君を見た時こうボクの中でビビッときたんすよぉ。やっぱりボクってば天才ッスねぇ」

「え、えっと……カナデさん?」

「あぁ、固い固い。そう言う固い呼び方はどうも苦手なんスよね。もっと気軽に、友達みたいな感じで呼んでほしいッス」

「えぇ~……」



 みことが困惑してしまうのも無理はない。

 二人の間には圧倒的の歳の差がある。

 目上の人間に対して友人のように接することは、さしものみこともためらってしまった。

 しかし、当人は彼女がそう接することに不服を露わにしている。


 子供っぽい人だなぁ……、みことは未だ戸惑いが隠せずにいるが「じゃ、じゃあカナデちゃん」と、恐る恐る彼女の名を口にした。



「いいッスねぇ。これからもそう呼んでくれると嬉しいッス!」

「あ、あはは……」



 満面の笑みに対し、みことの笑顔は酷くぎこちないものだった。



「え、えっとカナデ……ちゃんはどうしてここに?」

「ん? あぁそうそう。ボクがここにいるのはずっと君の後を追いかけてたからッス」



「私を?」と、みことはきょとんとした顔で尋ねた。



「ボクが作った衣装を着て歩くみこっちゃんの姿、いやぁとってもかわいかったッスねぇ! だから後をつけながらカメラこいつにばっちり収めたっす」



 そう言いながらも彼女が手にしたそれは、一眼レンズカメラだった。


 盗撮してたの!? 町中で堂々と犯罪行為をする方ももちろんだが、みことはよもや自分が盗撮の被写体となっていたというその事実に激しく驚愕した。



「あ、転売したりしないから安心してほしいッス。ちゃ~んと、ボクのアルバムだけに留めておくんで」

「そ、そうじゃなくてどうして盗撮なんか――」

「じゃあみこっちゃんは、その衣装を着てボクが“このポーズして!”ってお願いしたら、やってくれるッスか?」

「それは、ちょっと……」

「ほら、やっぱりそうなるじゃないっスか。だからこうして隠し撮りするのが一番なんスよ」

「だ、だからって……ってそんなこと言ってる場合じゃなかった! 一颯さんが……!」



 地に伏した状態ですっかり放置していた存在にはたと気付いたみこと。



「あ~忘れてたッス。まぁいぶきんのことだから、この程度のダメージじゃあしなないと思うッスけどね」



 仮にも仲間でありながらまるで心配しないカナデがひょいと、彼を俵担ぎした。



「とりあえず、いぶきんはボクが連れていくから。君はそのまままっすぐ家に帰るっスよ。後の処理はこっちがやっておくッスから」

「あ、あの……一颯さんは、大丈夫ですよね?」



 おずおずと尋ねるみことに、カナデは「ん~」と、人差し指を顎に当てて空を見やる。



「まぁ大丈夫と思うッスよ。いぶきんはこう見えて、ボクらの中じゃめっちゃ強い方ッスから」

「そ、そうですか……」と、みことはホッと安堵の息をもらした。



「だけど」と、真剣みを帯びた声に彼女の意識はすぐに緊張によって強張る。



「明日も君、いぶきんと会うだろうけど……ショックで倒れたりしないでね?」

「え? そ、それってどういうことですか!?」

「明日になればわかるッスよ。それじゃあ良い子は早くお家に帰るッスよ~」

「あ、待って……!」



 みことは制止するが、カナデはもう答えることなくすたすたと足早に去ってしまった。



「さっきの言葉……どういう意味なんだろう」



 なんだか嫌な予感がする……、みことは胸中に渦巻く不安に苛まれ、しばしその場から動けずにいた。



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