第参章 第陸節:禁断の領域へ
心地良い眠りについたみことにやんわりと覚醒を促したのは、顔に掛かる眩く温かい輝きだった。
「ん……眩しい……」と、のそりと起床したみこと。
意識はまだぼんやりとしていて、大きな欠伸が自然ともれる。
ひとまず今が朝である、それだけは未だ微睡の中にある意識でも理解して「……朝!?」と、覚醒するまでにおよそ5秒ほど。
飛び上がるように起きたみことの顔には、焦りが色濃く滲んだ。
何故なら今日は平日であり、学生である彼女は当然学校に行く義務がある。
はたと見やった時計の短針は、既に9時を差していた。
一時間目の授業はもうとっくに始まっている。
「うわぁぁぁぁぁん! 遅刻遅刻遅刻ぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
ドタバタとみことはリビングの方へ向かった。
「もうお母さん、どうして起こしてくれなかったのー!? いっつも私のこと優しく起こしてねって言ってるじゃん!」
「誰がお母さんだ、誰が。どんな寝ぼけ方してるんだお前は……」
「へっ?」
素っ頓狂な声をみことがもらしたのは、母のソレとはまったく異なる声だったから。
男性の声である。かと言ってその声質は彼女の父のものとも違う。
幸い、みことはこの声についてすでに知っている。
故に不審者であると狼狽することもなかったのだが、違う意味でみことは激しく驚愕することとなる。
如何に彼が知人にして恩人であろうと、招いたことのない実家にいれば誰だって自分と同じ反応をするに違いない。
狼狽したままでみことは、声の主に疑問をぶつけた。因みに当の本人は新聞片手にコーヒーと、酷くリラックスした様子である。
「どどどどど、どうして一颯さんがここにいるんですか!?」
「どうしてって……自分の家なんだからいて当たり前だろ」
「え?」
ここでようやく、みことは改めて周囲を
時間にしておよそ6秒ほど。呆然とした状態で「ここ、家じゃない……」と、みことはぼそりと呟いた。
家具や間取り、内観そのものが自宅のそれと全然違うとようやく気付いた途端、たちまちみことの顔は紅潮した。
「そう、ここは俺の家だ。そして俺はお前のお母さんでも、お父さんでもない」
「あ……うぅ……わ、忘れてください……」
みことはそう言うのが精いっぱいだった。
自宅と間違えた挙句、一颯のことを母親と誤認してしまった。
誤認だけならば彼女の心の傷も差して深くはなかった。
よりにもよって一颯に、自宅での素面を見せてしまった。みことは、それがとてつもなく恥ずかしくて今すぐにでも穴に入ってしばらくジッと閉じこもっていたい。
そうすこぶる本気で思ってしまうぐらい、彼女の心を羞恥心が埋め尽くしていく。
「俺は気にしてないから、そう落ち込むな」と、一颯はからからと笑った。
「うぅぅ……恥ずかしいよぉ……」
「気にしすぎだ。俺だって昔、先生のことをお母さんって言ってクラスの奴らから爆笑されたもんだ。誰にだってミスはあるんだし、この程度なら笑い話にもできるかわいらしいもんだ。だからそうあんまり落ち込むなよ」
「はい……」
「ところで、体調の方はどうだ?」
「体調ですか? それなら、まぁ特には……」
みことは試しに身体を軽く動かした。
傷は昨日の内にきれいさっぱり完治しているし、それによる痛みなどもない。
唯一の被害は、お気に入りの服が台無しになったことぐらいだが、身体そのものについては至って健康である。
一颯も「ならよかった」と、そっと優しい笑みを浮かべて心底安心した様子だった。
「お前、昨日相当体力を消耗してたみたいだな。昨日俺が連れて帰ってからずっと眠りっぱなしだったぞ?」
「え? そ、そんなに私眠っちゃってたんですか!?」
どうりで、とみことは視線を落とした。
意識が覚醒したあたりから、猛烈に腹部よりぐrぐると情けない音が鳴りやまない。
それを見越して彼が用意した朝食も、前回と比較しても明らかに質量共にずっと豪華だ。
こんなに食べられるかな……? そんな心配も餓えの前には杞憂に終わり、みことはあっという間にぺろりと平らげてしまった。
食事の最中、一颯はというと、唖然とした面持ちでみことを見つめていた。
驚きを声にして「すごいな……」と、口にするように一颯は心底驚いた様子だった。
「てっきり作りすぎたかと思ったんだけど……」
一颯からのこの一言に、みことはハッとした。
仮にも【聖オルトリンデ女学院】の生徒である。
常に気品に満ちた言動に慎むべしを
きれいに平らげてから「こ、これは違うんです!」と、いくら弁解したところでもう遅い。
やっちゃった……! 赤面したみことはあわあわと取り乱すが、一颯はふっと小さく笑った。
「いやいい。そうやってたくさん食う方が作った側としても悪い気分はしないからな」
「はぅぅ……一颯さんのご飯、おいしかったからつい……」
「いいから。とりあえずもう少し休んでおけ。学校の方にはすでに欠席するって言っておいたぞ」
「あ、そうなんです……って、えぇ!?」と、みこと。
あまりにもさらりと日常会話のようだったから、みこともつい流しそうになった。
改めて内容を聞けば、一颯のしでかした行動はとんでもないことである。
「な、なんて電話したんですか!?」
「普通に欠席しますって言ったぞ?」
酷く焦燥感に駆られたみことに、一颯は不可思議そうにはて、と小首をひねるばかりだった。
「そ、それで学校側からは!? いや、その前にどんな風に言ったんですか!?」
「学校あわかりましたって、至って普通な感じだったぞ。それにどんな風って、さっきも言ったように普通に――」
「そうじゃなくて! 私と一颯さんの関係性についてですよ!」
みことが危惧したのは、ここであった。
まず言うまでもなく、みことと一颯は赤の他人同士にすぎない。
家族でもない人間が連絡すれば当然不信感を与える。
仮にこの場で事なきを得たとしても、次回登校した際に質問攻めに遭うのも容易に想像が付く。
余計な厄介毎だけは是が非でも回避したい。
みことは一颯の電話対応について強く問い質した。
「変なこと言ってませんよね!? どうなんですか正直に答えてください!」
「落ち着けみこと。別にお前が思っているようなことは何一つ言っちゃいない。普通に遠縁にあたる人間だと伝えておいた」
「……本当ですか?」と、尚も疑いの眼差しを向けるみことに、
「嘘吐いて俺にメリットがあると思うか……?」と、一颯はほとほと呆れた。
「だったらいいんですけど……」
「心配するな、お前の担任だっていう先生も納得してくれてたぞ?」
「だけど、学校じゃ絶対に変な噂で持ちきりですよ。こないだ友達に見られちゃったし……」
「あの時のことか? あの時だったら俺も否定してるからそこまで心配する必要ないだろ」と、
「わかってないですねぇ、一颯さんは。今時の女子高生っていうのは、あれこれと噂を曲解するものなんですよ。だから最初はほんの小さな噂だったのが、いつの間にかとんでもなく誇張されていた、なんてこと珍しくないんですからね?」
「そういうもんなのか? まぁ大丈夫だろう」
あくまでも能天気に構える一颯に、みことはもう一度小さく溜息を吐いた。
「とりあえず今日は怪異の調査は休みにするから、もう少し休んで時間を見て帰ればいい」
「……私のせいで、ごめんなさい」
「ここで俺だけが行って後でお前に独断専行されるぐらいだったら、こうしてる方がマシだ」
「むっ。私、そこまで自制心がない女じゃないですもん」
一颯からの揶揄にへそを曲げたみことはリビングを後にする。
せっかくだからここは彼の厚意に甘えよう、そう判断したみことは扉の前でふと立ち止まる。
そこはさっきまで彼女がいた部屋ではない。
ここって一颯さんの部屋かな……? 好奇心がじくりと、みことの胸中で疼いた。
他人のプライペード空間に踏み入るなど、よっぽど信頼されていない限り単なる不法侵入とプライバシーの侵害でしかない。
そうとわかっていながらも、己が好奇心に逆らえなかったみことは「ほんのちょっとだけ……」と、自分に対して都合のいい言い訳をすると共に、中へとこっそり足を踏み入れた。
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