第参章 第漆節:今は亡き想い人

「うわぁ……」と、その声には若干の落胆が混ざっている。


 入ってすぐ、みことはがっかりとした。

 彼女の中にあったイメージはもっと、豪華絢爛な内観だった。

 実際のところ一颯が居を置く、この高層マンションの値段は軽く5000万円以上はいく。

 安易に手を出してよい物件ではないし、ローン返済するにせよ何年になるか想像もつかない。

 それらをすべて解決できる術があるからこそ、大鳥一颯おおとりいぶきはここでの生活を可能としている。

 つまり彼は金持ちなのだから、もっとキラキラとした部屋だったとしてもなんらおかしな話ではない――あくまでも、これらはみことの勝手な思い込みにすぎないのだが。



「なんか、思ったよりも普通の部屋ね……ちょっとがっかり」



 勝手に評価をして落胆するみことだったが、ふとある物が彼女の視界に留まった。



「これは……?」



 何気なくひょいと写真立てを手にした。

 写真には10人の男女が写っていて、一様に黒のスーツと赤のアンダーシャツに黒いネクタイと、同様の恰好で統一していることから、みことは瞬時に被写体が【衛府人えふびと】であると察した。



「これ、もしかして一颯さんかな。髪も赤いし……今よりもちょっと若い感じがするかも」



 写真をしばし眺めて、みことは知った顔を二人見つけた。

 羆のような大男――六車次郎と、昨晩因縁を吹っ掛けてきた杵島舞姫きしままき。彼女に関してはここでもニタニタと不気味な笑みを浮かべていて、よくよく見やれば一颯と思わしき少年の裾を後ろから掴んでいる。

 それと同様にもう一人、みことの視線を釘付けにする人物がそこに写っていた。


 はじめて目にするその女性・・に「きれない人……」と、みことは無意識にそう口にした。


 温厚そうな優しい顔立ちと濡羽色ぬればいろのきれいな黒髪が印象的な彼女だが、その右手は一颯の左手としっかりと結ばれている。俗に言う恋人繋ぎを堂々とする両者の関係に、みことの顔はたちまち赤らんでいく。



「い、一颯さんに恋人いたんだ……」



 未だ驚愕の渦中にあるみことだが、同時に納得もしていた。

 大鳥一颯おおとりいぶきははっきりと言って、とてもかっこいい。

 同年代の男子とは比較にもならないぐらい、頼りがいもあるしそしてとっても強い。

 後は財力があるなどなどと、とにもかくにも一颯ほど優良な物件は早々ないと断言しても過言ではないだろう。ならば彼女は優良物件を見事に手にした勝ち組にして、しかし一度もその存在を目にしていないことに、みことははたと気付いた。


「それにしても、きれいな人だなぁ……」と、みことは何気なく、全身鏡を見やった。


 写真の恋人と比べて自分は、まだまだ幼さが目立つ。

 胸については雲泥の差だ。もはや勝負にすらならない己のプロポーションに、みことはがくりと膝を着いた。別段、写真の相手と勝負しているわけではないのに、みことは敗北感を憶えずにはいられなかった。



「わ、私ももうちょっとしたらこれぐらいになる、よね……? 牛乳も飲んでるし」

「人の部屋に勝手に入ってお前は何をやってるんだよこのアホ」

「はにゃっ!」



 背後からの声と頭頂部に走った衝撃にみことは奇声をあげた。



「い……いったーい。いきなり女の子の頭叩くなんて、男としてどうなんですか一颯さん!」

「拳骨じゃないだけ感謝しろ、後手刀だって昨日の舞姫に比べたらかわいらしいもんだろうが」

「そう言われると……確かにそうですけど――」

「だいたいお前、人の部屋に勝手に入る方がどうかしてるからな?」



 一颯の言い分は正論でしかないから「それは……すいません」と、みことも素直に謝罪した。



「それで、お前は人の部屋に勝手に入って何を見てたんだ?」

「えっと……これです」と、みことは写真立てを見せる。

「……あぁ、それか」

「その、その写真に写ってるのって一颯さんですよね?」



 写真を見やる彼の優しく、それでいてどこか悲し気な眼差しにみことはおずおずと尋ねた。

 懐古の情に浸っているのだろう、だとすればどうして悲しそうな瞳をしているんだろう。

 みことは、どうしても気になって仕方がない。



「あぁ、そうだぞ。これは俺が【衛府人えふびと】に入ってまだ数か月って時の集合写真だな」

「へぇ、そうなんですねぇ――一颯さんの隣にいるのって、あの人ですよね?」

「……あぁ、杵島舞姫きしままきだ。そして隣にいるのが――」



「バディーさんですか?」と、みこと。


 二人が恋人同士なのはもはや明白だが、ここはあえて表現をぼかした。

 ほしい情報は焦らず少しずつ白日の下にさらす。今は焦ることは愚行でしかない。

 しばしして一颯は、ふっと小さく笑った。その笑みでさえも相変わらず悲しみを帯びている。



「……こいつは草薙飛鳥くさなぎあすか。俺より後に入ってきた、まぁ後輩みたいなもんだな。でも入った時期は数か月程度の差だったし、歳も俺と同じだったから先輩後輩っていうよりは友達みたいな感じだった、かな」

「へぇ……あっ! 一颯さんと手ぇ繋いでる! これってもしかして……」



 ここでみことは、今気付いたばかりだと言うように件の関係を指摘した。


 一颯はほんのりと頬を赤らめると「……余計なことに気付くな」と、ぷいと顔を背ける。


 照れ隠しなのは言うまでもなく、普段目にしない態度だけあってみことの中に加虐審が少しだけ疼いた。



「いいじゃないですか別に! いやぁ、一颯さんかっこいいですもん。恋人の一人や二人、至ってなんらおかしくないですってば! でも、あれ? だとするとあの舞姫さんって人とは……三角関係になるんですか!?」



 そんなの少女漫画みたいな展開じゃない! きゃあきゃあと黄色い声を上げて一人興奮するみことは、興奮冷めやらぬ様子でもはや遠慮の欠片もなくなっていた。


 彼女にしてみれば三角関係というものは、あくまで創作物フィクションの中だけの話である。現実だったら絶対と断言してもよいほどに起きないから、面白いし心惹かれる。

 事実は小説よりも奇なり、とは正にこのことだろう。みことはそう思った。


「……残念だけど、三角関係ではないな」と、一颯は静かに言った。



「え……? あ、も、もしかして……破局したってことですか?」

「いいや、彼女はもうこの世にはいないよ」



 一颯からの言葉に、みことは顔を青白くさせた。

 興味本位で聞いてよい内容ではなかった。もちろん細川みことが、そうと知る由もないので加害者ではない。しかし頭ではそうと理解しても彼女の心が、逃げることを許さない。

 他人の心の傷トラウマにずかずかと踏み込んだ挙句、抉ろうとしたのだ。決して心地良いものではなく、形容しようのない罪悪感にみことは表情かおを曇らせる。



「ご、ごめんなさい一颯さん……! わ、私そんなつもりじゃ……」

「いや、気にしなくてもいい。お前からすれば知らない事実だったんだ。知っていてやったわけじゃない」

「…………」



「だが、これだけは憶えておけ」と、一颯の顔に真剣みが帯びた。


 目を逸らすことを許さない鋭い眼差しには、みことも顔を強く強張らせる。



「俺も飛鳥も、そして舞姫も次郎さんも……全員、危険を承知でこの仕事についてる。最初から死ぬのが怖くて【衛府人えふびと】なんでハイリスクハイリターンな仕事を選ぶような馬鹿はいない。だからかわいそうとか、そう言った同情だけはしないでくれ」



 いつになく真剣な言動にみことは、ただ静かに首肯するしかできなかった。



「――、というわけだからこの話はもうこれでおしまいだ。さっさと俺の部屋から出ていってくれ」



 一颯に半場強制的に退室させられたみことだったが「あの、最後にいいですか?」と、みことは再び疑問を投げた。



「……今度はなんだ?」



 訝しむ一颯だったが、一応聞く姿勢だけはしっかりと整えている。



「一颯さんはどうして【衛府人えふびと】になったんですか?」



 これまでずっと自身の胸中にあった最大の疑問を、みことは遠慮なくぶつけた。

 大切な恋人を一颯は失った。それほどに危険であると承知していながら、何故あえて自らその危険に身を投じるかが、みことは理解できない。

 細川みことは、行方不明となった親友を探すと言う絶対不変の目的がある。

 この目的があるからこそ、こうして裏の世界に身を投じたにすぎず。国や人々のため、といった大義を彼女は欠片ほども持ち合わせていない。誰かがやらねばならない仕事、それはわかる。重要なのは何故自分であるのか。他人でもいいところをわざわざ【衛府人えふびと】になった理由とは何か――みことは、それが知りたかった。



「……俺には、そうなることしか選択肢がなかった。それだけだよ」



 そう一言だけ残して、先に退室する一颯をみことは黙って見送る。

 肝心な部分が未開示のままだが、もうこれ以上彼が語ることは恐らくあるまい。みことはそう判断した。



「…………」



 最後にもう一度だけ、みことは写真立ての方に視線をやった。


 そして「なんだろう、これ」と、もそりと呟いてはて、と小首をひねる。


 写真立てのすぐ横、一冊の本が無造作にポンと置かれていた。

 表紙に記された“日記”の二字にみことは少しだけ驚いてしまう。



「一颯さん日記なんかつけてたんだ……なんか、意外かも」



 何気なく日記を手に取ってみる。

 意外とずしりとして重く、それと同時にまたしても悪い癖がみことを悪事へとそそのかす。

 中を読んでみたい……、理性と好奇心の狭間に立ったみことはしばし日記を凝視して、とうとう表紙に手をつける――理性が好奇心に敗北した。



「――、おいみこと、いつまで俺の部屋に入り浸ってるんだよ! さっさと出てこい!」

「は、はーい!」



 一颯からの叱責に、いよいよまずいと思ったみことは日記を元あった場所にさっと戻すと、その場から離れた。

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