第参章 第参節:魔槍
茜色がとても美しかった空に雲が見え始めたのは、一颯と別れてからすぐのこと。
時刻はまだ午後5時をちょっとすぎたばかり。
帰路に着くみことはこの日、いつになく背後が無性に気になって仕方がなかった。
誰かに、後をつけられている。そんな感覚がずっと彼女の心にまとわりつき、みことの足を自然と早める。
コツコツと、自身が奏でる足音でさえも今のみことには十分すぎるぐらい恐怖を演出して、思わず「だ、誰!?」と、勢いよく振り返った。
もちろん、彼女の視界には人っ子一人いない。
周囲の住宅街から立ち込める良い匂いも、みことは感じるだけの余裕がなかった。
「…………」
みことはしばし、じっと前方を睨んだ後、踵を返して再び歩き出す。
もしかして、怪異……? みことの胸中に不安と恐怖が芽生える。
みことは一度、怪異に襲われた経験がある。そこで死と直面した恐怖と、救われたことへの安堵を憶えた彼女は、恩人である
彼はどこかぶっきらぼうだけどなんだかんだ優しくて面倒見がいい。
一つだけみことが不満なのは、彼という男はどうも女心がわかっていない。
「一颯さん……」
今、件の一颯はここにはいない。
やっぱり送ってもらえばよかったかも……、ほんの少しだけ後悔したのと同時。
「こんばんはぁ」
突然の登場にみことは「ピェッ!」と、奇声に近しい短い悲鳴をあげた。
次々と点灯していく街灯の下、一人の女が立っていた。
黒いスーツに赤のシャツ、極めて目立つその恰好に加えて、ニタニタとした不気味な笑みを、みことはよく知っている。
「あ、あなたは確か……
「どうも細川みことちゃん。ごめんねぇ、突然声かけちゃってぇ」
「な、なんなんですかいったい……私に何か用ですか?」
今朝の出来事がある。みことは自然と、舞姫に対し強く警戒した。
組織内一の変わり者にして、トップランカーの実力者と一颯から彼女のことを聞かされているから尚のこと。
なんだか嫌な予感しかしない……、身構えるみことに「まぁまぁ落ち着いてってばぁ」と、舞姫は相変わらずニタニタと笑っていた。
「まぁ、こうやってウチが細川みことちゃんに会いに来たのはさぁ、ちょっとしたお願いがあってきたんだよねぇ」
「お願い……? なんなんですか、お願いって……」
「とっても簡単なことだから心配しないでいいよぉ」
一呼吸分の間の後に、
「――、イブキッチから離れてくれない?」
それはみことははじめて目にした、不気味な笑みをしていない
喜怒哀楽すべての感情が完全に消失し、残ったのは無……鉄のように恐ろしいぐらい固く、冷たい無表情にみことも驚愕から目を大きく見開いてしまう。
こんな
一秒にも満たない、ほんのわずかな時間で姿を現したのは、一条の槍だった。
全長はおよそ
人工の光ながら穂先に宿るその白金の輝きはさながら芸術品のようで、みことはそれが村正の代物であるとすぐに察した。
「ど、どうしてそんなことをするんですか!?」
「それはもちろん、細川みことちゃんがものすご~く邪魔なだけだからにゃん~」
いつものニタニタとした笑みに、どこか他人を小馬鹿にしたような口調に戻った舞姫。
だが、細川みことを見据える瞳だけは変わらない。
殺意、敵意、そして嫉妬……負の感情をふんだんに込めた眼光がみことを容赦なく射抜く。
「ここで細川みことちゃんが、もう二度とイブキッチに絡まないって約束してくれたら見逃してあげなくもないけど~」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! どうしてあなたにそんなことを言われなくちゃいけないんですか!?」と、みことは強く反論した。
「私は、大切な親友を探すために一颯さんと行動してるんです! それに一颯さんは……怪異に襲われそうになった私を助けてくれた恩人でもあるんです! だから私は一颯さんに恩返しもしたいし、親友も見つけたい!」
「…………」
「だから、あなたにそんなことをとやかく言われる筋合いはありません!」
「ん~……そっかぁ。細川みことちゃんは、そ~んなこと言っちゃう悪い子だったんだにゃあ~……じゃあ、しょうがないっかぁ」
にこりと舞姫が笑った。
みことが彼女の言葉の真意に気付いたのは、鋭い風切音が鳴ってすぐのこと。
舞姫の手にあった長槍がぐんと伸び、穂先はあろうことかみことの喉へと狙いを定めた。
けたまましい金打音と共に激しく火花がわっと四散する。
みことは咄嗟に、村正の打刀で刺突を弾き飛ばした。
ほんの数瞬、彼女の反応が遅ければ、今頃喉は串刺しだったろう。
とは言え、無傷というわけでもない。現にみことの首筋にはうっすらと、一筋の血がじんわりと流れている。
それだけに
「へぇ、今の防いじゃうんだぁ。細川みことちゃんって、実はちょっとできる方なんだねぇ」
「い、いきなり何をするんですか!?」と、みことは切先を中段に留めた。
「ウチはずっと警告してたよねぇ? イブキッチから離れろって。なのに細川みことちゃんがぜ~んぜん、素直に言うこと聞いてくれないからさぁ。だったらもう、殺しちゃってもいいなぁって」
あっけらかんと恐ろしいことを宣う舞姫に、みことは顔を青ざめる。
彼女の倫理観はもはや崩壊しているに近しい。
目的のためならば、例え一般人でもいとも簡単に殺そうとする気概は普通ではない。
今更ながら、とんでもない女に目をつけられたと、みことは心底恐怖した。
「死んでも怪異に巻き込まれたとか、人質に取られちゃったからやむを得ずって言えば問題ないしぃ。それにウチもイブキッチともう一度バディーになれるから、良いこと尽くしだにゃん~」
「ど、どうしてそんなに一颯さんに拘るんですか!?」と、みことは尋ねた。
自身が
だが、どうしても気になる。
二人の間に過去、果たして何があったのか。
こうも盲目的に依存する理由は何か。みことの胸中を恐怖ではなく、好奇心が強く芽生えた瞬間だった。
「……細川みことちゃんにはわからないと思うよ? だって、とっても幸せそうなんだもん」
「え……?」
舞姫の言葉にみことははて、と小首をひねった。
何故なら今の言葉に、みことは自分への強い羨望の
確かに自分は、きっと幸せなんだろう……少なくともみことはその自覚がある。
優しい両親に恵まれ、自由気ままな生活は幸福そのものと言えよう。
「で、でも……それがなんだって言うんですか?」
「あったかいお家もご飯も、友達もいーっぱいいて、羨ましいのに更に人の物まで持っていこうとするんだもん。これってずるいにゃあって、細川みことちゃんはそう思わない?」
「…………」
みことは答えない。打刀を構えたまま、じりじりと舞姫から間合いを取る。
これでもみことは、剣術道場の娘だ。
女人であるが剣の稽古を強制された彼女だから、敵手との力量の差を測ることができた。
あれは、到底勝てる相手ではない。真正面を切って挑んだとしても勝利する結末がいくらやってもみことはイメージできなかった。
故にここは逃げることこそが、正しい選択なのである。
「ねぇ、ウチからイブキッチを取らないでよ? 取るんだったら、もうここで死んで? ねぇ死んでよねぇぇええ?」
舞姫の目がぎょろり、と大きく見開かれた。
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