第弐章 第捌節:真夜中の邂逅
その日の夜、一颯は外にいた。
時刻はとうに深夜帯で、いよいよ今から怪異が活発に活動する時間である。
一颯は現在、フリーランスのような雇用形態なので特に決まった就業時間は彼の中では定まっていない。今日は一つ、大きな仕事を終えたばかりで疲労の方は言うまでもなく蓄積されている。
報告書の作成もままならない状態だった。ならば猶更のこと、早急な休息が必要であるのに一颯は眠りに就いた街を徘徊していた。
これといった理由はなく、強いて言うなればなんとなくという、なんとも曖昧すぎる理由だったが、今の一颯にはそれで充分事足りた。
「なんか、今日はなかなか眠れそうにないな……」
大きな欠伸ばかりがこぼれるのに、一颯は顔はしっかりと覚醒している。
時間が時間なので、当然起きている人間はいない。
半年前ならば少なからずいた通行人でさえも、【現代の神隠し事件】があってすっかりそれも見かけなくなった。
「今じゃ、午後9時にはコンビニでさえも閉店するもんなぁ」と、不満そうに一颯はもらした。
人気も娯楽もない、街灯だけが寂しく照らす町中を、一颯は一人徘徊を続ける。
予定がないはずの一颯の足がぴたり、とそこで立ち止まったのは一人の女性が進行方向先に佇んでいた。
「こんな時間に珍しいな」と、一颯は不思議そうに小首をひねった。
その女性は、色鮮やかな朱色の着物を纏っていた。
和服姿とはなかなか珍しく、同時に警戒心を一颯の胸中に芽生えさせる。
誰しもが神隠しを恐れて外出を極力避けているにも関わらず、夜分遅く女性が、しかも着物姿で歩くと言う光景はなかなか不気味さがある。
一颯の勝手な思い過ごしという可能性も確かにありえなくはない。
しかし現状証拠だけでも、彼女に警戒するのに越したことはあるまい。
「…………」
一颯は前へと進んだ。
引き返すこともむろん、彼の選択肢の中にはあった。
あえてそれを選択しなかったのは、またしても己の勘を信じてのことである。
あの女に背を向けるのは危険だ……。第六感が告げる警鐘を、一颯に拒む道理は微塵もない。
近く付くにつれて、どんどん鮮明になっていく女の顔を一颯は見た。
傍から見れば怪しさ満載の不審人物であった彼女だが、街灯に照らされた姿は「きれいだ……」と、無意識の内に口にしてしまうほど。
彼女の絵に描いたような美しさに、一颯の視線は完全に彼女へと釘付けとなっていた。
「私の顔に何かついていますか?」と、着物の女性が静かに尋ねる。
「あ、いえ。すいません、つい綺麗でしたから見てしまって……」と、一颯はすかさず女性に謝罪した。
いくら目立つシチュエーションだからと言って、ジロジロと見てよいものではない。
いささか自分の行動は不謹慎だったと一颯は猛省した。
「そ、それじゃあ俺はこれで」
一颯は女性に会釈してそそくさとこの場から立ち去る。
「お待ちください」と、呼び止められたことに一颯の心情は穏やかではなかった。
さっきの件について、何か言及してくるに違いない。
悪気はない一颯だが、女性が不快だと捉えればそれまで。
どうにかして弁明しようと思考を激しく巡らせる一颯だったが「心配しなくてもいいですよ」と、彼女からの言葉に内心でホッと安堵の息をもらした。
「別にわたくしはあなたを訴えようとか、そんなつもりはまったくありませんので」
「え、そ、そうですか。いや、重ね重ね本当に申し訳ないです」
「ですから気にしていませんってば」
くすっ、と笑う女性に一颯も苦笑いを小さく返した。
「えっと、それじゃあどうして俺を呼び止めたんですか?」と、一颯は尋ねた。
「えぇ、実はあなたに一つ、お話ししたいことがありまして……」
「お話?」と、ここで一颯は再び警戒心を露わにした。
「……宗教とかそう言うのは興味ないので結構ですよ?」と、一颯は牽制した。
霊感商法という手口はもう、あまりにも古すぎる。
特に一颯はその手のエキスパートだ。怪しげなグッズにのめり込むことは断じてないし、寧ろ笑ってしまわないかが不安だった。
こうなると彼女がどんな怪しげな商品と話術を披露するのかが、かえって気になって仕方がないと、一颯は内心でほんの少し期待を抱いていた。
「あのぉ、先に申しておきますけどわたくしは怪しい壺も売りませんし、宗教の勧誘も一切致しませんよ?」
「あ、そうなんですね」
「さすがにその手の手法はもう古いかと……。精神が著しく不安定だったならわからなくもないですけど、あなたの精神には1mmも揺らぎがない。まるで炎のように熱くキラキラと輝いている……そんな感じがあなたからしますわ」
「あ、どうもです……」
どうやら霊感商法ではないらしい。一颯はわずかに落胆の
結局のところ、何用があって呼び止めたのか。一颯は女性に先を促した。
「本当ならもっと以前からお伺いするおつもりだったのですけど……なかなかわたくしも予定がうまくつかなくて……」
「はぁ……えっと、先にお尋ねしたいんですけど、俺達って初対面ですよね?」
「えぇ、わたくしとあなた……出会うのは今日がはじめてとなります。しかしわたくしは以前からあなたのことを知っております」
「俺のことを、知ってるだって?」と、一颯は眉間をきゅっとしかめた。
先の口ぶりから察するに、彼女とはどこかで出会ったことがあるらしい。
ただし、一颯にはそうと思わしき該当する記憶がまったくなかった。
ここ数か月の記憶を
怪異にならば散々命を狙われた彼でも、人間からストーカーされた経験は一度もない。
「……あなたは、何者なんですか?」と、一颯は確信に迫った。
怪異でないことはとうに一颯の中では証明されている。
怪異は時に人間に化ける。
もっとも、所詮は怪異。如何にうまく化けようとも一颯のような力ある者には、そんなまやかしは通用しない。
怪異特有の邪気もなし。よって白であると結論を下した。
「わたくしは、しがない一般人ですよ」と、そっと優しく笑った。
「……質問を変えましょうか。あなたは、俺の味方ですか? それとも敵ですか?」
「どちらでもありません。ですが、現時点であなたに危害を加えないし、やる理由もメリットもない……それだけは確かです。今回こうしてあなたの前に姿を晒したのは、他でもありません」
「……なんですか?」
「――、取り戻したくありませんか?」と、女性がそう言った。
一颯ははて、と小首をひねる。
言っている意味が全然理解できなかった。
取り戻す、とは果たして誰から何をなのか。一颯には思い当たる節がなく、結果余計に女性のことを強く警戒するに至ってしまった。
敵ではない、そう述べた女性だが信用するに値しない。現時点でも自分に対する殺意や敵意はなく、だが一颯は身構えるのをやめなかった。
「先程も申しましたけど、現時点であなたと敵対する気は毛頭ありません。あなたは、選ばれた
「資格のある……客? いったい何の話をして――」
「
「なっ……!」
次の瞬間、一颯は女性に大刀を抜き放った。
「どうしてだ……どうして彼女のことを知っている!?」と、一颯は切先を突きつける。
もしこれで彼女が単なる一般市民だったならば、などという考えは今の一颯にはない。
自分だけしか知らないはずの情報を、過去を、関係者でもない人間が知っている。これこそが異常で一颯が警戒するのは至極当然の反応だ。
「お前は誰だ!? 答えの内容によっては――」
「わたくしを斬る……ですか? 無抵抗の人間に刃を振るうことをあなたはしませんよ」
「だったら試してみるか?」
切先が喉を軽く押し当てる。一颯が後、ほんの少しでも力を籠めるだけで女性の喉は穿たれよう。命の危機的状況に一般人なら大声で助けを呼ぶか、悲鳴をあげるのか、いずれもなんらかの反応を示すところ、女性はまったく動じない。
不動の姿勢で、優しい笑みを崩そうともしない彼女に一颯は睨み続ける。
「……話を戻しましょう。
「――、なんだと……?」
「一颯さん……もし、どんな願いでも叶う権利が与えられたとしたら、あなたは何を願いますか?」
女の顔はやはり、優しい笑みを浮かべたままだった。
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