イレイザー(12)

 記憶を無くした男こと浅井啓一は、予想外なことに自ら久我のもとへとやってきた。

 それはちょうど久我がN県警警察本部の刑事部へ向かおうとして、ホテルから出た時だった。


「久我総さん……ですよね」

 声を掛けられて振り返った久我は、その人物が浅井啓一であるとわかり一瞬動きを止めた。


 どういうことだろうか。こちらの動きが全部筒抜けになっているということか。久我の頭の中に様々な疑念が浮かび上がってきていた。


「どこかで話しませんか?」


 浅井にそういわれて、久我はホテルの近くにある喫茶店へと足を運んだ。

 完全に向こうのペースになっている。久我は少し焦りを感じていたが、それを表に出さないように務めた。

 喫茶店に入ると、浅井はダージリンティー、久我はホットコーヒーを注文した。


「記憶が戻ったんですか、浅井さん」

 久我がそう言うと、浅井はじっと久我の眼を見つめてきた。

 その眼は、すべてを知ってしまったのだなと語り掛けてきているようだった。


「そうか……私の名前を知っているんですね、久我さん」

「ええ。色々と調べさせてもらいました」

「では、私の能力についても?」

「いえ、そこまでは知りません」

「なるほど。久我さんも確か、でしたよね」

「よく、ご存じで」

「たしか、記憶にまつわる能力をお持ちのはずだ」

 久我はその問いには答えなかった。


 何が言いたいのだろうか。それだけが引っかかっていた。わざわざ、久我が一人でいるところを呼び止めて、話がしたいと喫茶店に入った。だが、浅井が話すのは久我の能力についての話だ。本当に話したいことは別にあるはずだ。こんなに周りくどいことをせず、単刀直入に話せばいいのに、なぜだ。

 久我は疑念を持った眼で浅井の眼を見つめ返した。


「私もね、記憶にまつわる能力を持っているんです」

「それはどのような?」

「久我さんは読み取る力だと思いますが、私はその逆です」

「逆といいますと?」

「消すんですよ、記憶を」

 浅井はそう言うと、アイスコーヒーのグラスを手に取ってみせた。


「ほらね」

 何を言っているのか、久我にはわからなかった。


「先ほど私が注文したのは、アイスコーヒーではなくダージリンティーです。その記憶を消しました。だから、私のところにはアイスコーヒーがある」

 そんなの詭弁きべんだ。久我は黙って浅井の次の言葉を待った。


「私の力は個人だけに作用するというものではありません、空間すべての記憶を操ることが出来ます。例えば、防犯カメラの映像も」

 そこまで浅井が言った時、久我の脳裏に片倉が飛び降りた時の映像がどこにも残っていなかったことが思い出された。片倉の死はこの男の仕業だということだろうか。この男がすべての記憶を消し去ったため、防犯カメラの映像の記録も消去された。そういうことなのだろうか。


「あんたが、片倉を?」

「片倉……ああ、あの片手の探偵さんですか」

「あんたが、片倉をやったのかっ!」

 久我は立ち上がると浅井の胸ぐらへと手を伸ばしていた。


「落ち着きなさい、久我さん。冷静さを失うなんて、あなたらしくないですよ」

 浅井はそういうと、胸ぐらを掴んでいた久我の手を払った。


「私はすべてを終わらせたいと考えています。そのためには、あなたの協力が必要不可欠なんですよ、久我さん」

「何を言っているんだ」

 久我は意味不明なことを言い出した浅井のことを睨むような目で見つめていた。


「そのままのことを言っているんです。私はすべてを終わらせるつもりだと」

「それと、片倉の話のどこが繋がるというんだ」

「片倉さんはこちら側の人間です」

「何を言っているんだ、あんたは。もっとわかるように話をしてくれないか」

「わかるように話していますよ、久我さん。あなたが理解をしようとしていないだけだ。まあ、それも仕方のないことですね。あなたの記憶は消されているのだから」


 浅井の言葉を聞いて、久我は恐ろしくなってきていた。記憶を消されている。何を言っているんだ、この男は。記憶を消されているから、私が覚えていないというのか。一体、私から何の記憶を消したというのだ。


「冷静になりなさい、久我さん」

 そう言われて、久我は自分が震えていることに気づいた。その震えは自分ではどうすることもできないものだった。


「な、なにが望みなんだ、あんたは……」

「だから言ったでしょ。すべてを終わらせるんです」


 浅井はそう言うと、久我の手をそっと握った。

 強い力ではなかった。むしろ包み込むような優しい力だった。

 それでも久我は抵抗ができなかった。


「さあ、すべてを終わらせましょう」


 浅井がそう言うと、握られた手が一瞬冷たく感じた。

 それだけだった。

 何かが起きたという感覚はどこにもなかった。

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