イレイザー(8)

 久我と姫野は病院の屋上にいた。

 片倉はここから飛び降りた。そう聞いているが、屋上は金網で全体が囲われており、ここから飛び降りるには、その金網をよじ登っていく必要があった。


 死亡推定時刻から逆算すると、片倉が屋上から飛び降りたとされている時間、ここには大勢の人がいた。入院患者とその家族、そして病院関係者。

 しかし、その中の誰もが片倉のことを見ていないのである。では、片倉はどのようにして屋上から飛び降りたのか。

 片倉は屋上ではなく別の階から飛び降りたのではないか。様々な憶測が久我の頭を駆け巡っていた。


 鑑識係の姿は屋上にもあった。どこかに片倉の指紋が残されているのではないかと探しているのだ。もし、片倉がここから飛び降りたとすれば、必ず片倉の左手の指紋はどこかに残されるはずである。


 しかし、片倉の指紋は屋上のどこからも検出されることはなかった。

 では、片倉はどのようにして飛び降りたというのだろうか。


「久我さん、あれ」

 姫野に声を掛けられ、久我は姫野の方を見た。

 どこか疲れ切った顔。目は泣き腫らしており、化粧は崩れたままだった。


 姫野が指さした場所。そこは植え込みの中であった。

 その植え込みの中で何かが太陽の光に反射して光っている。

 覗き込むと、そこには眼鏡が落ちていた。

 その眼鏡に久我は見覚えがあった。

 片倉の伊達眼鏡である。


 久我はハンカチを取り出すと、その眼鏡をそっと拾い上げた。

 やはり、片倉は屋上に来ていた。

 そして、自分が殺されるかもしれないと悟り、久我にメッセージを残したのだ。


 片倉は久我の残留思念を読み取る能力を知っている。

 そんな片倉だからこそ、久我に残せるメッセージなのだ。


 片倉よ、お前の最後のあがきを見せてもらうぞ。

 久我は心の中でそう呟くと、眼鏡に残された思念を読み取るために目を閉じた。


 やってきたのは闇だった。

 闇の向こう側に、ほんの少しだけ明るさが見える。

 久我はその明かりに近づいて行こうとする。


 突然、誰かに肩を掴まれた。

 驚いた久我は後ろを振り返る。


 顔全体を隠せる黒いマスクを被った人物。男か女かもわからない。

 その人物は、首を横に振る。

 行ってはダメだ。

 その意思が伝わってくる。


 なぜだ。なぜ、行ってはいけないのだ。

 久我はその人物に問いかける。


 何も答えない。その黒マスクの人物はただ横に首を振るだけだった。

 徐々に明かりが近づいてくる。


 そして、明かりの中に久我が入ろうとした瞬間、黒マスクの人物は久我の肩を両手で突き飛ばした。

 急に押されたことで久我はバランスを崩す。

 そして、光の中に飲み込まれて行った。


 身体が落下する。ものすごい勢いで自分の身体が地面に向かって落ちていくのがわかる。

 そして、地面と衝突する。


 なんなんだ、これは。


 久我は地面の上に倒れながら、辺りの景色を見る。

 そこは片倉が倒れていた場所だった。


 これは片倉の記憶なのか。

 ぼんやりとした頭で久我はそのことを認識する。


 誰が片倉のことを落としたのか、それは残留思念にも残されていないということなのか。

 あの時、自分のことを突き飛ばしたのは誰なのか。あの人物が片倉のことも突き落としたのだろうか。


「――がさん。久我さん」

 姫野が自分のことを呼ぶ声で久我は目を開けた。


 目を開けると、青空が広がっていた。

 ここはどこだ。

 久我はよくわからず、目だけを動かして辺りを見回した。


 姫野の顔が見える。そして、鑑識の制服に身を包んだ男女の姿も見える。


「大丈夫ですか、久我さん」

「……ああ」

 久我は自分がどうなっているのかを理解して起き上がった。


「びっくりしましたよ。突然、倒れるんですから」

「私は倒れたのか」

「ええ。目を閉じたかと思ったら、急にバタンって」

「そうか……」

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。すまん、心配を掛けた」

 久我はそう言ってスーツを手で叩くと、近くにあったベンチに腰をおろした。

 残留思念を読み取りながら倒れるなんて、こんなことは初めてだった。


「なにか見えましたか」

「……いや、何も見えなかった。誰かが私の能力を妨害しようとしている」

 久我はそういうと、手に持っていた片倉の眼鏡をそっとベンチの上に置いた。


 片倉よ。お前を殺したのは誰なんだ。

 そう眼鏡に問いかけてみたが、答えは返ってこなかった。

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