イレイザー(6)
電話が鳴っていた。
喫茶店で少し早いランチを済ませていた久我はテーブルの上で鳴り続けるスマートフォンの画面を見つめていた。
スマホのディスプレイには、姫野桃香という文字と数字の羅列が表示されている。
いまは手を離すことが出来なかった。両手はハンバーガーの包み紙を掴むことに使われているためだ。アボカドとトマトを挟んだテリヤキソースのハンバーガーである。もし、いま手を放してしまえば、ソースがハンバーガーを包むバーガー袋からこぼれ落ちてしまうだろう。
だから、久我は食事を優先して鳴り続ける電話を無視することにしたのだった。
もし、近くに他の客がいたりしたら迷惑だと苦情を寄せられたかもしれない。だが、まだ早い時間ということもあってか、久我の近くに他の客の姿は無かった。
しばらく着信音は鳴り続けていたが、電話を掛けてきている姫野も諦めたらしく、電話は鳴り止んだ。
久我はテリヤキバーガーをゆっくりと咀嚼してすべてを食べ終えた後で、一緒に注文したコーラをストローで一気に吸い上げた。
満足だった。ハンバーガーは嫌いではないが、頻繁に食べるものではないと久我は考えていた。特にファストフードチェーン店のハンバーガーには手を出さないようにしている。あれはどこか中毒性があり、一度食べ始めると、次も、また次も、と食べたくなる。ハンバーガーはそういう食べ物ではない。たまに食べるから美味しいのだ。そんな独自の理論を持ちながら久我はハンバーガーを食べる男なのだ。
コーラをすべて飲み終えたところで久我は席を立ちあがると、会計を済ませて、店の外に出た。あれから電話は掛かってきていない。一応、折り返してみるか。そう考え、久我は着信履歴から姫野の番号を呼び出した。
しばらくの間、呼び出し音が続いていた。しかし、姫野は電話に出なかった。
なんだ、特に急ぎの用事ではないのか。久我はそう判断すると、電話を切って、駅の方へと歩きはじめた。
どこかへ行くにしても、足が無かった。片倉は頼んだ仕事をしているところだろうし、姫野は電話に出ない状態である。そうなるとタクシーを捕まえるか、公共機関を使う必要があった。N県のタクシーは東京のように道端で手を挙げて捕まえるというのが難しかった。基本的には駅前のタクシー乗り場で捕まえるか、電話で呼ぶしか無いのだ。最初の頃、それを知らずにずっと幹線道路でタクシーがやってくるのを待っていたが、まったく空車がやって来なかった。その話を姫野にすると、タクシーは電話で呼ぶものだと教えられた。東京の常識はN県では通用しない。そう痛感したことであった。
しばらく歩いていると、またスマートフォンが着信を告げた。
妙な胸騒ぎを覚えた。
ディスプレイには知らない数字の羅列が表示されている。
「――もしもし」
「あ、久我さんですか」
聞こえてきたのは知らない男の声だった。
「誰だ?」
「N県警S署の――――」
男の話声の後ろで緊急車両のサイレン音が聞こえる。その音からして、救急車であるということが判断できた。知らないS署の人間と救急車のサイレン。久我の頭の中では、パズルは完成しない。まだバラバラのピースのままだった。
「――です。……あの、聞こえていますか」
「ああ。聞こえている」
一瞬、時が止まった気がした。電話の向こう側から告げられた言葉に、久我は我を失っていたのだ。
「すぐに、そちらへ向かう」
久我はそれだけを告げると、電話を切った。
駅前のタクシー乗り場では、運よく三台のタクシーが客待ちをしている状態だった。
その先頭の車両に久我は乗り込むと、N県警警察病院へ行くように運転手に告げた。
一体、どういうことなのだろうか。
タクシーのシートに体を預けながら、久我は考えを巡らせていた。
S署の刑事だという相手は確かにこう言った。
「片倉さんが病院の屋上から飛び降りました」
一体、どういうことなのだろうか。
入ってきた情報に対して、頭の中の理解が追いつかなかった。
片倉が飛び降りた、だと?
どうして、片倉が飛び降りなきゃならないんだ。
あの片倉だぞ。
右手を失っても生きることを選択した男だ。
そんな片倉がなぜ飛び降りなきゃならないんだ。
「おきゃくさん……」
「お客さん……」
運転手の声で久我は我に返った。
「お客さん、電話鳴ってますよ」
そう言われて、初めて自分のスマートフォンが着信を告げていることに気がついた。
「あ、ああ。すまない」
久我はそう言って慌てて電話に出た。
電話を掛けて来たのは、姫野だった。
「久我さん、いまどちらにいますか?」
「警察病院へ向かっているところだ」
「連絡が行ったんですね」
「ああ」
「片倉さんが……片倉さんが……」
「落ち着いて、姫野さん」
急に久我は冷静になっていた。
「もうすぐ、着くから」
久我はそれだけを告げると電話を切った。
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