イレイザー(3)
N県警S署管内にあるS川の土手で、ひとりの男性が発見された。
年齢は四十代前後。髪はボサボサであり、額は少し後退している。無精ひげが伸びており、目はうつろだった。
服装は量販店で売られているような安物のスーツ。革靴を履いており、靴底はかなりすり減っていた。
男性を発見したのはパトロール中の地域課の警察官であり、職務質問をしたところ、名前、住所など、なにも答えられなかった。
男性は数日間飲食をしていないということで、かなり衰弱しており、そのままN県警警察病院へ入院することとなった。
所持品に男性の身分を証明するものは何もなく、携帯電話すらも持ってはいなかった。
N県警S署はこの身元不明の男性を行方不明者リストと照らし合わせたり、近県の県警へ照会したりもしたが、結局のところ、この男性が誰であるかはわからなかった。
N県警警察本部は、久我にある依頼をした。
それは、男性の所持品から男性の身元を調べてほしいということだった。
あまり乗り気ではなかったが、仕事ということで久我はその依頼を引き受けることにした。
病院へ向かうと、ベッドの上には聞いていた通りの男性が横たわっていた。
逃亡の危険性などがないからか、男性に警察官が付き添っているということもなく、一般患者と同じように扱われていた。
「はじめまして、久我と申します」
ベッドの上でうつろな目で天井を見上げている男性に久我は声を掛けた。
男性は目を少しだけ動かして久我を見る。
どうやら、言葉に反応することは出来るようだ。
しかし、それ以上の反応は無い。
「ちょっと腕時計をお借りしますね」
久我はそう断りを入れてから、男性の唯一の所持品ともいえる国産メーカーの腕時計を手に取った。
男性は久我に興味を失ったらしく、目はまた天井を見つめている。
何かがおかしい気がした。
久我は、ゆっくりと深呼吸をしてから目を閉じ、時計の残留思念を読み取ろうとした。
闇がやってくる。
いつもであれば、この後に光が見えてきて、その光の先にモノの記憶が見えてくるはずなのだが、いつまで経っても見えるのは闇だけだった。
何なんだ、これは。
久我は困惑した。
こんなことは初めてだった。
呼吸を整えながら久我は目を開けると、もう一度、その男性の顔を見た。
男性は相変わらず天井を見つめたままだ。
何が起きているというのだろうか。
嫌な感覚が纏わりついていた。
腕時計をベッドサイドのテーブルの上に戻すと、久我は病室を後にした。
「――――と、いうことがあったのが三日前のことだ」
注文した甘味を全部平らげ、店員を呼んで皿などをすべて片づけてもらってから、久我は仕事の話を片倉に聞かせた。
その仕事の話が始まるまでの間、片倉はコーヒーを三回おかわりし、トイレに一度立っていた。
語り終えた久我は、自分を落ち着かせるために追加注文したココアをひと口飲む。
「お前が記憶を読み取れないことなんてあるんだな」
「初めてのことだ。こんなことは一度もなかった」
「どういうことなんだ、それは。その腕時計には何の記憶も残されていなかったということか?」
「そういうことになるが、それはあり得ないことだ。すべて機械によって作られたモノだとしても、工場での記憶、販売店での記憶などが残るはずだ」
「そういうものなのか」
片倉は久我の話に感心したようにいう。
「人の記憶というものは、脳の海馬や大脳皮質に蓄えられるそうだ」
「なんだ、突然に」
あまりにも唐突な久我の説明に、片倉が困惑した声をあげた。
「海馬には短期記憶と呼ばれる短い時間の記憶が留まり、大脳皮質には何年間もの長い間の記憶が留まる」
「だから、何なんだよ、久我。俺に脳科学でも教授しようっていうのか」
「記憶が消えるというのは、その海馬か大脳皮質に対して衝撃などが与えられたことによるショックだったり、一部の脳機能を停止させることによって、海馬や大脳皮質が記憶していたデータを呼び出せなくなることを指すんだ」
「それで?」
片倉は諦めたように久我に言った。
「いや、記憶の話はここで終わりだよ」
「何のために、そんな話をしたんだ」
「本題に入るための前置きさ」
そこまで言って、久我はまたココアをひと口飲んだ。
片倉には久我が何がしたいのか、さっぱりわからなかった。
「前置きについては、わかった。本題に入ってくれ」
その言葉を待っていたかのように久我は頷くと、テーブルの上にスマートフォンを置いて、画像を呼びだした。
ベッドの上に横たわる男だった。ぼさぼさの髪には、白髪が混じっている。顔には多くの皺が刻まれており、聞いていた四十代前後という年齢よりも歳を取っているように見えた。
「この男について、片倉には調べてほしい」
「おいおい、N県警が調べてもわからなかった人物なんだろ」
「警察の捜査なんていうものは、たかが知れている。それはお前が一番わかっているはずだろ、片倉」
久我の言葉に片倉は反論の余地はなかった。
確かに久我の言う通りなのだ。行方不明者リストに名前や特徴などが無いか調べるくらいしか警察では行わない。捜し人のチラシなどを作ったりするのは、行方不明者を持った家族や支援者の方であり、警察から何かを提案したり、動いたりすることはないのだ。それに、この男が本当に記憶を失っているのかどうかも定かではない。本人が自分の意志で記憶を封印しているだけなのかもしれない。その見極めが警察では出来ないため、身元不明者の保護というのは難しいことなのだった。
「しかし、なんで俺なんだよ、久我」
「何を言っているんだ、あんたは探偵だろ」
「確かにそうかもしれないが……」
片倉は苦笑いを浮かべた。
探偵というのは都合の良い肩書きだった。元N県警捜査一課の刑事で探偵。それだけで仕事が沢山来るかと思っていたが、実際には月に一度か二度、行方不明になった犬や猫の捜索をお願いされる程度の仕事しかなかった。
ほとんど仕事はせず、だらだらと毎日を過ごしているだけ。それがいまの片倉なのだ。
金には困っていなかった。N県警は依願退職として処理してくれた。だから、退職金も多少なりともあった。それに例の1000万円の裏金の仕事で片倉に迷惑を掛けたと思っている人間が少なくともいる。そういった人間が片倉の生活は支えてくれているのだ。
久我の仕事など引き受けるな。
片倉の中にいる、もう一人の自分がそう囁く。こいつは疫病神だ、と。
「わかった。引き受けよう」
片倉は自分の中に入るもう一人の自分を押さえつけ、久我に言った。
もう一度、ヒリヒリした人生を歩みたい。
片倉は自分自身に喝を入れるように、冷水をひと口飲んだ。
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