転章:帰還《Return》

帰還(1)

 久しぶりの霞が関だった。

 スーツにネクタイという姿に身を包んだ久我総は、入館証となる身分証を一階の受付で提示して建物の中に入った。

 右手にはラップトップパソコンの入ったカバン、左手にはN県で買ってきた土産物の入った紙袋という状態でエレベーターに乗り込み、身分証をカードリーダーにかざしてから目的の階数のボタンを押す。

 しんと静まり返ったエレベーターの中には制服を着た人間もいれば、久我と同じようにスーツを着ている人間もいる。


 中央合同庁舎第2号館。この建物の二階と十六階の一部、そして十七階から二〇階の全フロアが警察庁が使用しているスペースであり、2号館には警察庁の他に総務省傘下の消防庁と国土交通省傘下の観光庁が入居していた。


 久我の乗り込んだエレベーターは、十六から二〇階にしか止まらない警察庁専用のものであり、他の官公庁の人間のIDカードでは乗ることが出来ないようになっている。


 二〇階のフロアに到着した久我は、顔も名前も知らない同僚たちがデスクワークに励む姿に目を向けながら背後を通り抜け、フロアの一番奥にある部屋を目指した。

 フロアの一番奥にあるガラス張りのオフィス。そこのドアには上級特別捜査官室と書かれており、中にはパソコンのモニタをじっと見つめるスーツ姿の女性がいた。


 久我総は右手で軽く握りこぶしを作ると、ドアをノックする。


「どうぞ」

「失礼します」


 中から声がかかり、久我はドアを開ける。


「久我総、戻りました」

「まるで戦地に行っていた人みたいね。まあ、あそこが戦地だったことは変わりないか」


 モニタから顔をあげた女性はそう言うと、久我の顔をじっと見た。

 長い髪を後ろでまとめ団子状にした黒髪。一見すると鋭い目つきにも見えなくはない切れ長のアーモンドアイに、筋の通った鼻とふっくらとした唇。ひと言で彼女のことを表すのであれば、美人という言葉が最も結びつくかもしれない。ただ、彼女を言い表すにはそのひと言だけでは全然足りないことだけは確かだった。


 相馬そうま美玖みく。警察庁上級特別捜査官。

 警察庁では、上級特別捜査官となると小さいながらも個室のワーキングスペースが与えられている。警察庁特別捜査官たちは、警察組織の中にいながらも、その組織に組み込まれていない存在である。階級は無く、特別捜査官の上に上級特別捜査官がいて、その上は全国の警察組織のトップでもある警察庁長官がいるだけといった特異な役職であった。


「休暇はどうだった」

「家の片付けで終わりましたよ」


 久我はN県警から戻った後、一週間ほどの休暇が与えられた。N県警にいた三ヶ月間は、ずっと休み無しで働いていたのである。


「これ、お土産です」


 そう言って、久我はN県で買い求めてきた土産物の入った紙袋を机の上に置いた。中身はN県の銘菓であったが、久我はその菓子を食べたことがなかったので、どんな味であるかまでは知らない。


「報告書、読ませてもらった。色々と大変だったな。右手はもう大丈夫なのか」

「はい。このとおり」


 久我は包帯を巻いていない右手を相馬に見せる。あの忌々しい赤黒い火傷痕は、の死と共に、何もなかったかのように消えていた。


「そうか、それなら良かった」


 相馬は安どのため息を吐きながらいうと、机の引き出しから何かを取り出した。

 それは、写真だった。写真には生真面目そうな制服を着た男性がいた。


「お見合い写真ですか」


 久我が冗談を口にすると、相馬上級特別捜査官の目がちらりと久我の方を見た。

 その眼には殺気は含まれていなかった。久我はそう思っていた。

 風を感じた。

 背後で何かが刺さるような音がしたため振り返ると、一本のボールペンが久我の背後にあったコルクボードに刺さっていた。


「口を慎め、久我」

「失礼しました」


 久我はそう言って、相馬上級特別捜査官に頭を下げる。

 やはり美人のひと言だけでは片づけられない、恐ろしい女性だ。久我は心の中で相馬のことをそう思っていた。


「次の仕事だ」

「はい」


 相馬上級特別捜査官は、手に持っていた写真とは別の写真も数枚机の上に並べた。


「またN県警に行ってもらう」

「え……また、ですか」

「ああ。わたしだって驚いている」

「あの県は何なんですか、伏魔殿ですか」

「出せるうみは、出しておいた方がいいだろ」

「まあ、それはそうですけれど……。今度は何ですか。もう組織同士のあらそいとかは勘弁してほしいんですけれど」


 久我は面倒くさいといった表情を隠さずに言った。


「違うよ。刑事部が担当する事件の協力だ」

「でも、前回もそういう話でN県警に行ったら、巻き込まれたんじゃないですか」

「今回は違う」

「断言しますね、相馬上級特別捜査官」

「ああ、断言するよ。もし、面倒なことになるようなら、呼び戻してやる」

「その言葉、忘れないでくださいよ」

「わかった」


 久我は相馬の言葉を聞きながらも、きっとこの約束は守られないだろうと思っていた。


「さて、仕事の話は以上だ」

「わかりました。では、さっそくN県へ行く準備を」


 久我がそう言って、上級特別捜査官室から出ようとしたところ、相馬が引き留めた。


「ねえ、総くん。久しぶりに戻って来たのに、もう行っちゃうの?」


 普段の相馬からは考えられないような甘えた声だった。

 ガラス張りのブースは、相馬が押したスイッチにより曇りガラスへと変化する。

 久我が振り返ると、相馬の顔がすぐ目の前まで迫っていた。


「ずっと寂しかったんだから」

「相馬さん……」

「ダメ。二人っきりの時は、美玖って呼んでよ、総くん」


 近くで見る相馬の瞳は潤んでいた。

 いまの相馬は、どういう感情なのか。それが久我には理解ができなかった。

 電話などで同じように相馬から迫られたことは何度かあった。しかし、その時は冗談だと言って終わっていた。このように面と向かって言われたのは初めてだったし、いつもならここで冗談と言われるところだった。


「ねえ、そろそろ……」


 相馬がそこまで言った時、電話が鳴った。

 鳴っているのは相馬のデスクに置かれている電話だった。

 相馬は舌打ちをすると、久我に背を向けて電話の受話器を取った。


「はい、相馬です。――――ええ、わかりました。その件はこちらで対処します」


 電話が長くなりそうだったので、久我は相馬に頭を下げた。相馬は何か言いたげな顔をしていたが、久我はそれに気づかない振りをして逃げるように、上級特別捜査官室を後にした。

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