死の芸術家(6)

 その日の捜査会議で、事件の被害者の名前が発表された。

 坂井リカコ。N県内にある飲食店で働く女性だった。なぜ被害者が坂井リカコであるということが判明したかについては、捜査本部長ははっきりと口にはしなかったが、昨日遅くに久我が本部長のところを訪ねていったのを姫野は知っていた。

 しかし、坂井リカコが被害者の方だというのは、姫野にとって予想外なことだった。あのような絵を描くのだから、犯人に違いないと勝手に思い込んでいたのだ。先入観は良くないな。姫野は今回の件でつくづく考えさせられた。


「――――班は、坂井リカコの身辺を洗ってくれ。以上」


 捜査本部長がそう言うと、捜査員たちは会議室から一斉に飛び出していった。

 その様子を久我は会議室の一番後ろの席から眺めており、全員が出ていったことを見計らってから、捜査本部長である渡瀬刑事部長のところへと歩み寄っていった。


「あれで良かったのかな、本当に」

「ええ、問題ありませんよ、渡瀬刑事部長」

「しかし、味方にまで嘘を吐くというのはなあ」

「敵をだますには味方からっていう言葉があるじゃないですか」


 そんな久我と渡瀬の会話を聞いていた姫野は嫌な予感を覚えていた。

 まさか、被害者の氏名が坂井リカコであるというのは、嘘だということなのだろうか。いや、でも捜査会議で捜査本部長自ら嘘をつくなんて、そんなことはあり得ない。姫野は自分の邪推を考え直そうとした。


「まかさ、被害者ではない人間の名前を被害者だと伝えるなんてな……」


 その言葉を聞いた時、姫野は膝から崩れ落ちそうになった。何を考えているんだ、この人は。まさか、本気でN県警を潰そうと思っているんじゃないのか。

 ちらりと自分の横に立つ久我のことを姫野は見たが、久我はいつものように無表情で渡瀬刑事部長と話していた。


「どちらにせよ、坂井リカコの身辺は洗う必要があります。もしかしたら、本当に坂井リカコは殺されているかもしれませんし」

「そうなのか?」

「ええ。その可能性はあります」

「可能性ねえ。それと例のキミが天使と呼ぶ被害者の方は一体誰なんだい」

「それは、まだ教えられません」

「なんだよ、それ。キミは私だけを悪者にしようってつもりか」

「大丈夫ですよ、刑事部長。すべては私が解決しますから。刑事部長は、この捜査本部の本部長席に座っているだけでいいんです」


 久我はそう言って笑って見せたが、刑事部長は硬い表情のままだった。

 本当に大丈夫なのだろうか。姫野は不安な気持ちになりながら、ふたりの顔をじっと見つめていた。



 坂井リカコは、N市最大の歓楽街である『一番街』で人気のキャバクラで働く女性だった。N市には、一番街、二番街、三番街と三つの歓楽街が存在しており、中心地にあるのが一番街である。

 姫野の運転する捜査車両で一番街へと向かった久我は、助手席のシートであくびを嚙み殺していた。

 この人の余裕はどこから生まれてくるのだろうか。ちらりと久我の横顔を見た姫野はそう思っていた。捜査本部に投入された100人以上の捜査員たち。その全員を久我は騙しているのである。坂井リカコは、N大学で発見された被害者ではない。そんなことが知れれば大変なことになる。それにも関わらず、久我はどこか呑気な顔をしているのだ。

 一番街のコインパーキングに車を入れようとすると、少し離れた場所に同じ捜査車両が停まっているのが目に入った。久我からの情報をもとに、捜査員たちは一番街に投入されているのだ。姫野は胃が痛くなるのを覚えながら、捜査車両を駐車した。


「どこへ行きますか」

「そうだな。きっと、被害者が勤めていたキャバクラには誰かが行っているだろうから、我々は昼食を取ろう」

「はい?」

「昼飯だよ。もういい時間だろ」


 そう言って久我は腕時計へと目をやる。

 時刻は11時45分。確かに昼食にはいい時間だった。しかし、捜査もしないで昼ごはんを食べるというのはどういう考えなのだろう。姫野はそんな久我にちょっとイライラしながらも、一緒にとんかつ屋の暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ」


 とんかつ屋に入ると、そこはすでに大勢の客で埋め尽くされていた。

 久我はキョロキョロと店内を見回して、空いている席を見つけると、そこへ足を運んだ。

 店内にいるのはスーツ姿のサラリーマンや現場作業員、ちょっとオシャレをした女性など多種多様な人たちだった。

 店員がやってきて温かいお茶を置き、注文を取っていく。久我は特上ロースかつ定食、姫野はランチセット(とんかつとメンチのセット)にした。


「どういうことなんですか、久我さん」


 料理が出てくるまでの間に話をしておこうと思い、姫野は口を開いた。


「この店は美味いらしいぞ。一度来てみたかったんだ」

「いや、そうじゃなくて」

「わかっているよ、そうカリカリするな。例の件だろ」


 公共の場であるため、久我は言葉を選びながら話しはじめた。


「天使は別人だ。ただ、彼女が天使と繋がっていた可能性は高い」

「でも、別人がマル害っていいんですか」

「彼女もまた、マル害になっている可能性は高い」


 マル害というのは、警察用語で被害者のことを指す隠語だった。


「彼女は天使が発見される一週間前から姿を消している。マル被は彼女に近い人物であることは確かだ。だから、彼女の作品を模した」

「久我さんはあの日、なにを見たんですか」

「あの日か……」


 久我がそう言いかけた時、店員がふたつの皿を持って席に現れた。


「はい、特上ロースかつ定食とランチのセットです。キャベツ、味噌汁、ごはんのおかわりは自由となっていますのでお声がけくださいね」


 にっこりと微笑んだ店員はそう言って、料理を置くと去っていった。


「とりあえずは、食べるか」


 久我はそういって箸を手に取る。

 事件の話は食事の後だ。久我はそう言わんばかりにキャベツへと箸を伸ばした。

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