焔の女(13)
その男の死体が発見されたのは、S市内を流れる川沿いにある小さなマンションの一室だった。
元N県議会議員であった中西健三郎の秘書で、中西の娘婿でもある
現場となったマンションの一室には、焦げ臭い嫌な匂いが立ち込めていた。しかし、不思議なことに安住の身体以外に焼けているものは何もなかった。
これにはN県警の鑑識たちも首を捻るばかりであり、異質な事件として警察庁特別捜査官である久我に声が掛かったのである。
現場に入った久我は、その現場の異様さに顔をしかめた。
どこにも火災の跡は残されてはいなかった。床に焦げ跡すらも無いのだ。
鑑識から見せてもらった事件当時の写真には、広いリビング・ダイニングで焼け焦げ炭化してしまった真っ黒な死体が写っていた。周りの物を焦がすことなく、そのターゲットのみを焼き焦がす。そんなことが出来るのは、あの女しかいなかった。
「宣戦布告ってわけか」
焦げた臭いがまだ残っている部屋名の中で久我はひとり呟くようにいった。
マンションの部屋は空室だった。ここは賃貸マンションであり、オーナーは安住武雄であった。普段の運営は不動産管理会社に任せているということだったが、なぜ安住がこの部屋にやってきたのかはわかってはいなかった。
「こんなことが許されるのか」
久我と一緒に現場入りをした片倉が言う。本来であれば、片倉は現場に入ることは許されない立場にある。片倉は元刑事であり、現在は一般人なのだ。しかし、久我が自分の立場を利用して片倉の捜査への介入をN県警刑事部に認めさせていた。
「奴らは本気だってことだろう。これは
「それにしては、やり過ぎじゃないか。人を殺すなんて」
「確かにそうかもしれない。だが、それはあんたが一番よくわかっているんじゃないのか、片倉さん。あんたも
その久我の言葉に片倉は何も答えなかった。まだ、片倉の中で気持ちの整理がついていないのか、右手を失った真相については語ろうとはしていない。
「女が暴走している可能性も考えられるな」
久我はそう言うと、安住の遺留品である金の腕時計をビニール袋から取り出してそっと触れた。この金の腕時計だけは、焼け焦げることは無く残ったものだった。なぜ腕時計だけが残ったのかはわからなかった。
「罠かもしれないぞ」
遺留品である金の腕時計をそっと掌で包んだ久我に片倉は言う。
「だが、やるしかないだろ。私には、これしか出来ない」
久我はうっすらと口元に笑みを浮かべると、目を閉じた。
すべてのものに記憶が宿る。たとえ、それが無機物であったとしても。
ものの記憶。久我はそれを『残留思念』と呼んでいる。
久我には、その残留思念を読み取るという能力があった。
最初に出てきたのはタクシーを降りるシーンだった。
安住は現金で一万円を渡し、運転手から釣りを受け取った。
オートロックを管理人用のパスワードで解錠し、エレベーターホールでスマートフォンを確認する。新着のメッセージは来ていない。
舌打ち。
安住は、どこか苛立っているようだ。
エレベーターに乗り込むと、最上階のボタンを押した。
鏡に安住の姿が映る。
中肉中背の中年男。少しピンク色の入ったシャツに紺色のスラックス。ネクタイはしていない。髪型はサイドを刈り込んだ、七三分け。顔は浅黒く焼けている。おそらくゴルフか何かで焼けたのだろう。そのお陰で、どこか精悍な顔立ちをしているようにも見える。だが、どことなく田舎の金持ちといった雰囲気が抜けていないようにも見えた。
「なんで、私が確認をしなければならないんだ」
安住は独り言をつぶやいた。
再びスマートフォンを確認する。しかし、新着メッセージは無い。
エレベーターが最上階に着き、部屋へと向かう。最上階には管理人用の部屋ともう一つ部屋があるだけだった。
管理人用の部屋の鍵を開け、室内に入ろうとしたところで背後から声を掛けられた。
振り返ると、そこには女が立っていた。
あの女だ。
「管理人さんですよね?」
「はい?」
「突然、すいません。そこの部屋の住人の……」
女は最上階にあるもう一つの部屋を指さして言う。
「ああ。どうかしましたか?」
「ちょっと窓の閉まりがおかしいみたいで」
女は下から覗き込むような上目遣いで安住に言う。着ている服は胸元が緩い作りになっているようで、安住の視線はその胸元へと注がれる。その緩い胸元からは黒のブラジャーと胸の谷間がはっきりと見えていた。
「そうなんですか。困ったな、きょうは工具とか何も持ってきていないからな」
安住はそれらしい言葉をいってみせる。
「きっと、管理人さんのお部屋と同じ作りですよね。管理人さんの部屋の窓がどうなっているか見ればわかるかもしれません」
何の脈略もなく強引な言葉であったが、色仕掛けで考える能力を奪われている安住は女の提案に乗ってしまう。
安住は管理人室のドアを開け、女を中へと通す。
家具が何も置かれていない部屋はがらんとしており、通常よりも広い部屋に感じられた。
安住がリビング・ダイニングへとやってきたところで、女が手を後ろに回した。
そのポーズが何であるかわからない安住は、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら、女の行動を見守っている。
次の瞬間、電気がショートした。これは安住の感覚だった。
実際には安住の首筋に当てられたスタンガンが電流を発生させた衝撃である。
安住は床に崩れ落ちた。
「あなたは何も悪くないのに、かわいそうね」
女はそう言うと、安住のことを睨みつけるような目で見た。
「すべて、あんたたちが悪いのよ。
バレている。やはり、あの女はこちらの存在に気づいていたのだ。久我は残留思念を読み取るのを中断しようとした。
「これ以上、邪魔をするようであれば次はあなたの命をもらうわ。今度は右手だけではすまないわよ」
女はにやりと笑って見せた。その笑みは悪魔の笑みだった。
久我はそこで残留思念から抜け出した。
全身から汗が噴き出ていた。どっと疲れを感じ久我がその場にしゃがみこんだ。
「大丈夫か」
「ああ……」
そう相づちを打ったものの、その疲労は激しくそれ以上の会話は出来なかった。
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