焔の女(3)

 車の運転というのは、好きになれなかった。

 特に駐車場に車を入れるという作業は苦痛でしかなく、一番嫌いなことだった。

 広い駐車場で何度か切り返しを行ったが、やはり駐車スペースの白い枠の中に車をしっかりと収めることはできなかった。

 もう気にするのはやめよう。

 そう自分に言い聞かせた久我は運転席から降りると、駐車場に隣接している建物へと向かった。

 駐車場に停まっているのは、久我の運転してきたレンタカーだけであるが、そのレンタカーは駐車スペース2台分を潰すように停まっている。


「いらっしゃいませ」

 店内に入った久我のことを出迎えたのは、黒いデニム地のエプロンをつけた小津あゆむだった。


 久我は店内を見回して、自分以外に客が誰もいないことを確認してから、店内の一番奥の席に腰をおろす。


「あれ、久我さん。右手どうかしたんですか」

 右手に包帯を巻いていることに気づいた小津が久我にいう。


「ああ。ちょっと怪我をしてしまってね」

 言葉を濁すように久我はいった。


 手のひらに受けた小さな火傷は、日を追うごとに状態が悪くなっていっていた。ただの火傷。そう思っていたが、あの女は指輪に何かを仕込んでいたのかもしれない。


「きょうは休みなんですか、久我さん」

 人懐っこい笑顔を浮かべながら、小津が久我のテーブルへお冷を持ってくる。

 どこか子犬を思わせる顔だ。久我は小津の笑顔を見ながら、そんなことを思っていた。


「いや、仕事中だ」

「仕事中に喫茶店でのんびりするのとか、いいんですか」

「そうだな。でも、仕事をしに来たんだよ」

 そういいながら久我は、メニューへ目を落とした。 


 いつもであれば、パンケーキのページで手を止めるのだが、きょうはパンケーキの気分ではなかった。どちらかといえば、もう少し腹にたまるものがいい。そんなことを考えながら久我はページをめくった。

 本日のランチ。そう書かれたページがあった。時刻は午前9時。ランチにはまだ早い時間だった。しかし、そこに書かれていたトマトカレーという文字に久我の目はくぎ付けとなっていた。


「なあ、小津くん」

 久我はカウンターの内側にいる小津へと声を掛けた。

「注文、お決まりですか。きょうのパンケーキは、ブルーベリージャムですよ」

「いや、違うんだ。きょうはパンケーキじゃないんだ」

「と、いいますと」

「このランチに書かれているトマトカレーっていうのが気になってな」

「なるほど、お目が高い」

 ニコニコと笑みを浮かべながら小津はいうと、トマトカレーについての説明をはじめた。


 小津によれば、チキンカレーに潰したトマトを入れて煮込んだものだという。ちょっと酸味の効いた味で、なかなか好評だそうだ。


「これって、ランチなんだよな」

「そうですけど……」

「けど?」

「もし、久我さんがどうしても食べたいっていうなら、出しますよ」

「いいのか?」

「はい。もう仕込みは済んでいるんで後は少し煮込むだけですから」

「じゃあ、お願いする」

「はい。トマトカレーのご注文いただきましたー」

 嬉しそうに小津はいうと、カウンターの内側へと戻っていった。


 しばらくするとスパイスの効いた香ばしい匂いが漂ってきた。この匂いだけでも、うまいカレーだということがわかる。

「お待たせしました。本日のトマトカレーです。セットなので食後にコーヒーをお持ちしますね」

 小津はそう言って、久我の前にトマトカレーを置いた。


 トマトカレーの色は普通のカレーとあまり変わりはなかった。トマトカレーというぐらいだから、てっきり赤いカレーが出てくるのかと思っていたのだが、そこは想像とは違っていた。

 さっそくスプーンでひと口目を食べる。カレールーは、サラサラのものでスープカレーに近いような感じだ。鶏肉はよく煮込まれており、スプーンでも簡単に崩せるほどの柔らかさがあった。

 口に入れた瞬間、カレーのスパイスが口の中に広がり、後から遅れてトマトの絶妙な酸味がやってくる。しかし、トマトの自己主張は強すぎず、カレーにうまく溶け込んでいる。


「これは美味いな」

 思わず久我は独り言をつぶやいてしまった。

 ふと、視線があることに気づいた久我は目だけ動かして、その方向を見る。

 そこには隣の席の椅子を後ろ前に座った小津がいて、じっと久我が食べる様子を見守っていた。


「なんだ?」

「いいから、いいから。ボクのことは気にしないで食べてください」

 ニコニコと笑みを浮かべながら小津はいう。

「無理だ。気になる」

「えー、いいじゃないですか。食べてくださいよ。ボクは久我さんが食べている時の幸せそうな顔が好きなんです」

「やめろ、そういうの。食べづらくなるだろ」

「ちぇっ、ケチだな」

 小津は子どものように唇を尖らせると、席を立ちあがってカウンターの方へと歩いて行った。

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