消えた警官(12)

 夕方になるまで、久我は捜査本部という名の会議室から一歩も外に出ることはなかった。

 やっていたことといえば、ホワイトボードとのにらめっこであり、ソファーに腰を下ろしたまま動こうともしなかった。


「きょうはこの辺で終わるか」

 壁掛け時計の針が18時を過ぎたことを確認しながら、久我が口を開いた。


 これ以上、ここにいても何もやることはない。そう思っていた姫野は久我の意見に賛成した。

 窓の外に目をやると、かなり大粒の雪が降っているのが確認できた。


「姫野さん、すまないがホテルまで送ってくれると助かるんだが」

 コートを羽織りながら久我は姫野にいった。


 県警本部から久我が宿泊しているホテルまでは歩いて20分ほどの距離だったが、この雪の中を歩いて帰る気にはどうしてもなれなかった。


「別に構いませんよ。じゃあ、一階のロビーで待ち合わせしましょう。わたしも帰り支度をしてすぐに向かいますので」

 姫野はそう言うと会議室を出ていった。


 N県警本部に所属している姫野には、個人で使うためのロッカーが置かれた更衣室があった。普段、持ち物はそのロッカーにしまっていて、必要最低限のものだけを持ち歩いているようだ。


 久我はロビーに向かうためにエレベーターへと乗り込んだ。最上階である14階から乗り込んだため、エレベーターに乗っているのは久我だけだった。

 途中8階でエレベーターが止まり、数人が乗り込んできた。その中に見覚えのある顔があった。岩倉八雲だ。岩倉は先ほどとは打って変わって、他人のような態度を取り、久我とは目を合わせようともしなかった。もしかすると久我との関係を知られたくない人間が一緒にいたのかもしれない。


 久我は岩倉から目をそらすと、エレベーターの階数表示をじっと見ていた。

 一階のロビーには椅子がいくつか置かれており、久我はその中のひとつに腰を下ろして姫野を待つことにした。ロビーには、久我と同じように誰かが来るのを待っている人間が数人いたため、久我はその中にうまく溶け込んでいた。


 待つこと数分で、姫野が姿を現した。少し厚手のジャケットにマフラーという姿であり、久我に気づくと早歩きで近づいてきた。


「すいません、お待たせしました」

「待ってはいない。だいじょうぶだ」

 ふたりは並んで歩き、地下駐車場へと続く階段を降りた。


「そういえば、私以外にN県警に特別捜査官はいたりするのか」

 車の中で、久我は何気なく姫野に質問をしてみた。


「わたしは聞いたことはないですね。少なくとも刑事部にはいませんよ」

「そうなのか」

 どうやら、岩倉の存在は県警本部にいる全員に知られているというわけではないようだ。もしかすると、自分のことも刑事部以外には伝えられていないのかもしれないな。そんなことを思いながら久我は助手席に座り、外の景色へと目を向けていた。

 雪は先ほどよりも大粒になってきていた。


「もしかすると、明日は積もっているかもしれませんね」

「雪か……」

「久我さんは、雪は嫌いですか」

「雪に好き嫌いなんかあるのか」

「わたしは雪は嫌いです」

「どうしてか、聞いても?」

「いえ、聞かないでください」

 姫野はそういうと口を真一文字に結んだ。


 どういうことなのだ。自分から振っておいて、それは無いじゃないか。

 久我は、じっと姫野の横顔を見つめていた。


 すると、姫野がこらえきれなくなった様子で笑い声を上げた。


「冗談ですよ、冗談。そんな顔で見ないでください」

「あ、ああ。冗談か」

 わかっているのか、わかっていないのか、よくわからない顔で久我は返事をする。


「冗談っていうのは、どこまでが冗談なんだ。雪が嫌いなのは」

「ああ、そこも冗談といえば、冗談ですね。別に雪に嫌いも好きもないです」

「そうなのか」


 そっちが雪は嫌いかと聞いてきたんじゃないか。そう思ったが、久我はそれを口に出さず、ちらりと姫野の横顔を見ただけだった。


 運転に集中しているためか、姫野は久我に見られていることに気づかなかった。

 色白で鼻筋の通った顔。目はその意思の強さを示すように、くっきりとした二重まぶただった。


 捜査一課では優秀な刑事だったと聞いている。しかし、その優秀さが仇となったのか、現在は刑事部付の捜査員だ。きっと姫野は、周りと協力して捜査を進めていくタイプではないのだろう。手柄を挙げたが、それをスタンドプレーだと捉えられたに違いない。捜査方針について他の刑事たちと衝突したが、自分の思う捜査を続けて犯人逮捕へと結びつけた。犯人を逮捕するのが刑事の仕事であり、それについては誰も何も文句は言わない。ただ、組織としては、はみ出し者であるということには違いなかった。


 これはすべて、久我の想像である。

 運転をする姫野の横顔を見つめながら、勝手な妄想を久我はしていた。

 そうこうしているうちに、車はホテルのエントランスについていた。


「お疲れ様でした。また明日、よろしくお願いします」

「ああ、ありがとう」


 車から降りた久我はそのまま部屋に戻り、シャワーを浴びて、今夜は何を食べようかと考えた。

 あまり食欲はなかった。がっつりとしたものは、食べたくはなかった。


 窓の外を見ると、雪は止んでいた。


 久我は防寒着を着こんで部屋を出た。たしか、ホテルの近くに蕎麦屋があったはずだ。その記憶を頼りに路地を一本入る。


 そこには、紺色の布地に「おそば」の文字が白抜きで描かれている店があった。


「いらっしゃいませ」

 引き戸を開けた久我は、開いているテーブル席に腰をおろしメニューへ目を向けた。

 ざるそば、かけそばといったオーソドックスなメニューから、親子丼、カツ丼などといった丼ぶりメニューまで揃っている。

 そんな中から久我は、鴨せいろそばを選び、注文した。


 店内には久我のほかに2組ほどいた。50代ぐらいの夫婦と思われる男女と、職人と思われる作業着の二人組だった。

 そばが出てくるまでの間、出されたお茶を飲んで待った。お茶は、そば茶だった。


 しばらくして出てきた鴨せいろそばは、大ぶりの鴨肉と焼いたネギが入ったつけつゆと十割蕎麦の組み合わせだった。つけつゆはかつおだしをベースとしているようで、香ばしい匂いが食欲をそそる。


 蕎麦を少しだけ箸で摘まみ、つけつゆを潜らせて、口の中へと運ぶ。

 かつおだしと鴨の脂、そしてネギの香ばしさが入り混じった絶妙な味が口の中に広がり、蕎麦ののど越しがたまらない。


「うまい」

 それは思わず独り言が出てしまうほどの旨さだった。


 あっという間に鴨せいろそばを平らげた久我は、蕎麦湯で汁もすべて飲み干していた。

 こんなに旨い蕎麦屋がホテルの近くにあったとは。もっと早く来るべきだったな。


 満足した久我は、またこの店に来ようと胸に誓って、ホテルの部屋へと戻った。

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