手の中のボタン(2)

 N県警S警察署の安置所がある地下二階は、暖房が効いておらず、かなりの寒さだった。

 安置所に入るための事務手続きを姫野が行っている間、久我はベンチに座って待っていた。ベンチの脇には電気ストーブが置かれており、それが唯一の暖を取る機材だった。

 姫野によれば、ここから先はストーブなどもなく極寒の地下室となっているそうだ。


 事務手続きを終えて戻ってきた姫野の手には、紺色の防寒ジャンパーが抱えられていた。袖にはN県警という刺繍が入っている。


「よかったら、使ってください。もしかしたらサイズが小さいかもしれませんが」

 そういって姫野は久我にジャンパーを差し出した。

 捜査車両に積んであった予備の防寒着だそうだ。

「ありがとう」

 ジャンパーを受け取った久我は薄手のコートを脱ぐと、さっそくジャンパーに袖を通した。少し小さかったが着られないほどではなかったため、ありがたくそのジャンパーを着ることにした。


 安置所にはS署の職員が案内してくれた。

 安置所の鍵を開けて、死体の乗ったストレッチャーを巨大なロッカーのような安置スペースから出した職員は「終わったら声をかけてください」といって、安置書から出ていってしまった。

 どうやら、久我たちの仕事に付き合うつもりはないようだ。


 手袋をはめた久我はストレッチャーに近づいて、死体を観察した。

 ストレッチャーに横たわる女の死体は、写真で見たものと何ひとつ変わらなかった。色が抜け落ちたように真っ白な肌、潰れた顔、小さな乳房、無毛の下半身。

 よく見ると体には小さな傷がいくつも出来ていた。これは海中にいた間に出来た傷だろう。

 体中にある傷と顔の潰れ具合を比較しても、顔だけこんなに潰れるというのは不自然でもあった。

 これほど顔だけに集中して岩にぶつかって潰れることなどあるのだろうか。

 女は顔を潰されて殺されたか、殺された後に顔を潰されたのではないかと、久我には思えた。


 報告書によれば、発見時に女の右手はぎゅっと握られたままだったと書かれていた。

 その右手は死後硬直で固まったものだと思われていたが、通報で駆け付けた警察官がその右手を開かせてみたところ、そこには小さなボタンが握られていた。


 残念ながら右手を握ったままの写真は一枚も残ってはいない。

 その理由は、鑑識が来る前にその警察官が右手を開けてしまったためだった。


 警察官であるものは、鑑識が到着するまでは、誰であろうとも死体を動かしたり、触ったりすることは禁じられている。それは警察学校で何度も教わることである。


 その右手を開けてしまったという警察官が姫野巡査部長であるということを、久我は事前に電話で妻夫木刑事部長より聞かされていた。

 たまたま現場近くで別の事件の捜査にあたっていた彼女は、警察無線で死体が発見されたことを知り、現場に駆けつけたのだ。


 彼女のルール違反は、現在刑事部長預かりとなっているとのことだった。彼女がこの事件に対して入れ込んでいる理由は、このペナルティをどうにかして帳消しにしたいと思っているからかもしれなかった。


「この女性が握っていた、小さなボタンはありますか」

「ええ、こちらに」

 先ほど安置所への入室許可と一緒に証拠品倉庫から証拠品の持ち出しも申請していたため、姫野はS署の証拠品倉庫から唯一の証拠品であるボタンも持ち出してきていた。


 ビニール袋のパッケージに入れられた小さなボタンを、姫野は久我に手渡す。

 白い小さなボタン。それはどこにでもあるようなボタンだった。おそらくYシャツのボタンだろう。久我は自分の袖についているシャツのボタンと見比べながら、あまり違いがないことを確認した。


 全裸の女が唯一握っていたもの。それが捜査の手掛かりにならないはずがなかった。

 しかし、そのボタンには指紋などは残されてはおらず、あるのは女が小さなボタンを握っていたという事実だけだった。


 手袋を外した久我は、ビニール袋のパッケージを開けると手の上にボタンを置いた。


「ちょっと、久我特別捜査官」

 姫野が慌てて、咎めるような声をあげた。

「大丈夫だ。妻夫木さんの許可は取ってある」

 久我はそれだけ言うと、そっとボタンを握りしめた。


「姫野さんは、このボタンをどう思う」

「どう思うといいますと?」

「なぜ彼女は、ボタンを握りしめたままだったのだろう」

「それは、犯人に結びつく証拠だったからではないでしょうか」

「というと、姫野さんはこれは他殺だと考えているということなのか」

「ええ。わたしは他殺だと思っています。他の捜査員たちはどう考えているかはわかりませんが」

 どこか含みのある言い方だった。

 どんな理由があるかはわからないが、もしかしたら姫野は周りの捜査員たちから孤立しているのかもしれない。そんなイメージを久我は受け取っていた。


「このボタンが唯一の証拠となり得る……というわけか」

「はい。でも、このボタンから指紋は出ませんでしたし、ボタンと一致するシャツを見つけ出すことが出来たとしても、そこから犯人へと繋がるものがあるかどうかはわかりません」

「そうだな……」

 久我はそう言いながら少し考えるような仕草をしてみせた。


 なぜ自分がN県警捜査本部に呼ばれたのか。久我にはそれがわかっていた。

 このボタンがあったからだ。

 昨日の夜、妻夫木刑事部長は「事件の解決をお願いしたい」と電話で久我に告げていた。


 最初から事件であると妻夫木刑事部長以下の捜査幹部たちは判断している。だが、現場の刑事たちには、その意志は伝わってはいないようだ。

 足で稼ぐことをモットーとしている現場主義の刑事たちからしてみれば、久我のような捜査をおこなう捜査官は邪道だと煙たがられるだろう。

 いままでも、久我はそんな経験を何度もしてきている。もらえるはずの情報をもらえず、イチから全部自分で調べて解決へと導いた事件もあった。

 事件を解決するには、久我のような捜査をおこなう人間も必要なのだ。そのことを捜査幹部たちはわかってきている。ただ、古き伝統を重んじる現場との温度差が大きいだけなのだ。


 久我は右手の中に収められた小さなボタンの感触をしっかりと手のひらで感じながら、目を閉じた。

 なにをはじめるつもりなのだろうか。姫野は黙って久我の様子を見つめている。

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