手の中のボタン(3)
最初にやってきたのは、闇だった。
しばらくすると、遠くに小さな明かりが見える。
その明かりに近づいていくと、何か音が聞こえて来ていることに気がついた。
風を切る音。
赤い派手なジャケットに黒いシャツを着た男が立っている。
その脇にいる白いジャージ姿の男は、先ほどから金属バットを振っていた。
風を切る音は、この金属バットが奏でる音だった。
野球経験があるのだろう。素人目に見ても良いスイングだと思えるほどである。
派手なシャツの男がニヤニヤと笑いながら、話しかけてきている。
タバコと酒の混じった嫌な臭いがした。
「――――の野郎が逃げちまったからよ。恨まないでほしいんだわ」
男は言い訳がましいセリフを吐く。
金属バットが風を切る音が耳障りだった。
「アンタは、鍵の場所は知らないんだろ」
その言葉に無言でうなずく。
「じゃあ、しょうがねえよ。こうなっちまったのも、あいつのせいだ」
男の言葉に頭を垂れた。
その時になって、全裸であるということがわかった。コンクリートの床の上で正座をさせられている。
許してください。助けてください。そう、泣きながら許しを乞う。
しかし、男はうるさいといって、蹴りつけてきた。
なんとか男の腰のあたりにしがみついて、許してほしいと泣き叫んだ。
「ダメだ。もう手遅れなんだよ」
冷酷な声。
男のヒザ蹴りがアゴの辺りにヒットした。血の味が口の中に広がる。
それでも男にしがみついた。強く男のシャツを掴んだため、袖からボタンが取れた。
その取れたボタンをしっかりと手のひらで包み込んだ。
男はそのことには気づいていなかった。
二回目のヒザ蹴りが来た。
今度は耐えきれず、その場に倒れた。
意識は朦朧としている。
「もういいや。おい、いいぞ」
男がそういうと、金属バットを振り回していたもう一人の男が近づいてきた。
その男は完全に目がイッてしまっていた。おそらく薬物をキメているのだろう。
髪をつかんで体を引き起こされ、その場に再び正座をさせられた。
「じゃあな」
フルスイングだった。しっかりと振られたバットは顔のど真ん中を打ち抜いていた。
「ホームランっ!」
男の絶叫。
それが最期に聞いた言葉だった。
こんな残酷なことがあってもいいのだろうか。
目を開けた久我は、無念を残したまま死んでいった彼女の死体を見下ろしていた。
すべてのものに記憶が宿る。たとえ、それが無機物であったとしても。
ものの記憶。久我はそれを『残留思念』と呼んでいた。
久我は、その残留思念をものから読み取るという能力を持つ人間だった。
警察庁特別捜査官である久我は、その特殊な能力を使って事件の捜査をおこなう特別捜査官なのだ。
特別捜査官という存在を知らない警察官はいないが、久我の能力について知っている警察官はひと握りしかいなかった。
また、久我の能力を知っていても、信じていない人間も少なくはない。
いま久我が読み取ったのは、この小さなボタンに残されていた残留思念であった。
「姫野さん、この街にいる暴力団組織の人間の顔写真とリストを用意してもらえますか。それと手の甲に小さな蜘蛛の刺青を入れている男がいるか調べてください」
久我は姫野にそう伝えた。
小さな蜘蛛の刺青は、金属バットを振り回していた男の手に描かれていたものだった。見えたのは一瞬ではあったが、久我はその刺青をしっかりと見ていた。
その日、久我は駅前にある航空会社系列のホテルに宿を取った。
N県警捜査一課に姫野と共に顔を出した際に「せっかくだから、飲みに行きますか」と数人の刑事から半ば義理で誘われたが、久我は下戸であるという理由をつけて断った。
本当は下戸ではなかったが、歓迎会をされる覚えもなかった。まだ事件は解決してはいないのだ。
ホテルに行くと告げた久我に対して、当直の責任者である警部補が姫野にホテルまで車で送っていくように命令をした。
久我はタクシーで行けるからと断ったが、姫野がその要望を聞き入れてはくれなかった。
「久我さん、乗ってください」
N県警本部の地下駐車場で姫野が運転してきたのは、年代物のフォルクスワーゲンだった。
「わたしも、今日はあがりなので」
そういった姫野は自家用車の助手席に久我を乗せると、ホテルに向かって車を走らせた。
雪は降り積もる一方だった。姫野の車はすでにスタッドレスタイヤを装着しているようで問題なく道を走っている。
車の中では、ふたりとも無言だった。
久我は少し疲れを感じていた。残留思念を読み取ったあとはいつもそうだ。
「どこかで食事をして行きませんか」
姫野が提案してきた。
久我は少し考えたが、ホテルに行ったところで食事があるわけではなかったため、その提案に乗ることにした。
「肉、嫌いじゃないですよね」
「ああ。大丈夫だ」
「よかった」
そういって姫野は国道沿いにあるステーキハウスの駐車場に車を入れた。
このステーキハウスは良心的な値段でN県の特産牛のステーキを出す店だった。地元では有名店らしく、店内はそこそこ混んでいた。
姫野はN牛のステーキを200g、久我は300g注文した。
飲み物にアルコールを勧められたが、下戸だという理由を述べて久我は断った。
本当の理由は一緒にいる人間が飲めないのに、自分だけ飲むというのはどこか気が引けたからだ。
ふたりは炭酸水で乾杯をして、N牛のステーキを堪能した。
ミディアムレアのステーキはほどよい厚さで、弾力があるもののナイフを入れるとすっと切ることができた。周りはこんがりと焼けており、中はレアという状態の肉を噛みしめるとなんともいえない濃い味が口の中に広がった。
「これは500gぐらいにしておけばよかったかな」
そんな冗談が久我の口から出るほど、久我はこのステーキを気に入った。
食事中、ふたりは仕事の話はしなかった。基本的に警察官は職場以外で職務についての話をすることは禁じられている。それは迂闊な発言が情報漏洩や事件に影響を与えかねないからであった。
満足の行く食事を取ることができたふたりは会計を済ませると、駐車場の車の中で少し今後の捜査について話をした。
「本当に久我さんには見えるんですか」
「ああ」
「どんな感じなんですか」
「難しい質問だな。難しいが、どこか映画を見ているような感覚に近いかもしれない」
「もし、わたしに触ったとしたら、何が見えますか」
「それはわからない。見えるのはモノの記憶であって、人の記憶ではない。ただ、人の強い思念などがモノに移って見える時もある。今回見たのはそれに近かった」
久我の言葉を聞いた姫野は小さくため息をついた。まだ、姫野は久我の能力を信じてはいないようだった。
「じゃあ、このネックレスはどうですか」
姫野は首から下げていたネックレスを外すと久我に手渡した。
あまり、こういうことは好きではなかった。どこか試されているようで、気が乗らなかった。
「悪いができない」
久我はそれだけいうと、姫野にネックレスを返した。
残留思念を読み取るということは、知りたくもないことを知ることにもなる。
例えば、身に着けていた人間の隠したい過去の出来事などもわかってしまうのだ。モノの記憶というのは人間の記憶と違って、何か別の物に置き換えたりすることはできない。あったことをそのまま記憶しているだけなのだ。
「そうですか、わかりました。すいません、興味本位で聞いてしまって。それじゃあ、ホテルまで送りますね」
一緒に食事をしたことで少しは仲が深まったと思ったが、その距離がまた開いてしまったように思えた。
ホテルに着くまでの間、ふたりは無言のままだった。
「では明日の8時に迎えに来ますね」
「ありがとう」
久我が礼を言って降りると、姫野はすぐに車を出してホテルの敷地内から去っていった。
ホテルの部屋に入ると熱いシャワーを浴びて、すぐにベッドに入った。
疲れていたせいもあってか、久我はすぐに眠りに落ちた。
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