後の祭り

注意事項:本編にはグロテスクな描写がございます。ご注意ください。




 とりあえずまずはさ、改めて自己紹介させてくれよ。おれは名園なぞの。シリアルキラーって職業に入る? いや、殺したいからやってる訳じゃないんだけどな。


 まあ、いいか。あの事件のメンバーはとりあえずA、B、C、D、Eってしておく。後はおれ。だから登場人物は六人ってことだな。事件があったのはAの別荘だった。そいつ自体とは繋がりはねえんだけど、Bっていうのに紹介されてさ。そのBってのには、Cに紹介してもらった。ひょんなことってのはあるもんだよな。で、DとEはAの別の知り合いらしい。なんだっけな。ゴルフのなんかのさ。


 で、重要なのは、Cがいきなり死んだってことだ。C、おれの最初の知り合いね。これがさ、首絞めだったんだよ。しかも素手。素手で殺すまで行けるってやべぇよな? おれだってヒモ使わないとキツいよ。


 あれは夕飯食ってみんなが自由にしていたときで、おれも二階の部屋行ってさ、ぼーっとしてて、楽しかったからCと色々話そうかなって思って、行ったんだよ。そしたら首の所がこう、横が真っ赤になってるCが倒れててさ。目も開いてるし、動いてないし、ちゃんと死んでいるわけだ。……え? 飯食ってからの時間だったら、五分ってとこだな。ゴロゴロしてたわ。


 で続きなんだけど、仲良くしてたやつが死んでムカついたからさ、犯人を捜そうって思ったんだよ。手っ取り早いのはやっぱり、片っ端から聞く。だろ? それで、廊下に出たらさ、Bがちょうど階段から上がってきたところだったんだよ。おれを見てビックリしたような顔してさ、なんかニヤリとしたんだ。しかも「あれっ、Cとはもういいの?」だって。怪しいだろ? だからおれの部屋に連れ込んで、痛めつけた。ちゃんと顔に枕当てといたぜ。偉いだろ?


 ……ん? んー、三分くらいじゃねえの? 拷問っつったって、そんな長続きしねえよ命なんか。


 そういや部屋の位置言ってないんだっけ。えっとね、廊下があって、扉が片側に並んでんだよ。一番奥がAで、Cが二番目、おれの部屋が三番目だった。BとDとEは分からないけど、残りの部屋は手前の三つだけだから、そのどれかだ。


 それで、Bはもう分からなくなったから他の三人に聞こうと思って、下に降りたんだ。こういうときは逃げられる入り口側から攻略すんの。知ってた? そしたらDとEが食堂でゴルフの話してた。それで奥のキッチンから包丁取ってきてさ、片っぽを脅かしながらもう片っぽを縛らせてさ、もう一人も縛った。あとAを抑えればもう音を気にしなくていいんだぜ。


 ……え? また時間かよ。分かんねえよ。分かった分かった。えーっと……。こっちは二分くらいだな。まだ殺してねえよ? 縛っただけ。


 で、縛ったってところで、ちょうどAが降りて来たのさ。でも流石にヒヤッとしたよ。あ、A上にいたんだってなって、聞かれてなくてよかったってさ。アイツはおれたちを見た瞬間に入口に走ったから、追いかけて脇腹刺して止めた。どこでもいいから刺しとくと止まるんだぜ。これも豆知識ね。それで、まずAから聞いたんだよ。でも知らないらしくてさ、仕方ないから手前に引きずっておいて、DとEにも聞いた。でもこっちもダメなんだよ。仕方ねえからDの方殺してさ、こっちはマジだぜって見せてみたんだけど効果なし。EをAの目の前に連れていってさ、目を合わさせてめっちゃ刺しまくるの見せたけど、やっぱりダメ。なんならAを入り口のところまで連れていってさ、出してあげようとまでしたんだぜ。でもダメで、結局みんな死んだ。


 意味わからないだろ? 誰かがCを殺したはずなのに、誰も殺してないって言うんだ。もちろんおれは違うぜ?


 で、だ。まぁ……探偵ならこれでも推理できるだろ? ほら、現地行ってさぁ。ああそうだ、長靴履いていくといいよ、口が閉まるやつ。


 じゃ、よろしく、探偵さん。




 玄間くろまは、探偵であった。といっても、かのシャーロック・ホームズのような難解事件に挑む頭脳明晰の人ではない。主には浮気調査、名探偵らしい仕事といえば、まれにある素性調査がせいぜいであった。


 本来、探偵とはそうしたものである。難解事件――特に殺人は犯罪であり、犯罪は警察が取り締まる。そこに探偵の出る幕はない。それにも関わらず、玄間が探偵になった理由は『名探偵に憧れていたから』であった。


 ホームズやポワロのような特定の人物にではなく、その有様に憧れていた。その場その瞬間に犯人を推理し、打ち負かすその力強さ。その状況を支配するカリスマ。どれだけの難事件であろうが事実を導く、その頭脳。であるからこそ、探偵が勝つミステリ小説が好きであった。反対に、探偵が負けたり、犯人であるような物語は邪道と切って捨てた。


 探偵は、勝つのだ。


 好きであるがゆえに、名刺には『探偵事務所』や『探偵』という文字列を、より目立つように並ばせている。事務所ならば所長と書くべきだが、そこを譲れずわざわざ探偵と書いているのだ。


 名刺の字を眺めてはニヤつき、依頼人に『探偵さん』などと呼ばれれば天にも昇る気分になっていた。様々な物語の、格好の良い探偵とは程遠い。それでも、嫌な日常ではなかった。自分は殺人という難題に挑む探偵なのだと妄想して生きていた。最近はめっきりと殺人事件の依頼が来なくなってしまった、などと空想し続けていた。


 小さな事務所に連続殺人犯が自分からやってきたのは、春の暮れのことであった。名園と自称し、自分の殺しを洗いざらい話し、それを棚に上げておいてC殺人事件の捜査を依頼してきた。


 そして玄間は、それを受けた。冷静であるならばただの悪戯だろうと追い返すか、警察を呼び後を任せるべきだ。それでも受けたのは、あまりにも現実離れした状況に浮かされていたことや、断ったときにどうなるかを想像したこと、そしてなにより、殺人事件の解決の依頼であったからだった。


 久しぶりの殺人事件だ。警察に任せるより圧倒的に早く解決し、依頼人に解決の報を届けよう。警察の捜査があっては、そのスピード感が失われてしまうのだよな。と、玄間は電車に揺られて地方へ向かい、徒歩で山へと向かう。指定の通りに長靴をカバンに入れておいたが、これが何の役に立つのかは分からなかった。


 今は昼で雨の後、よく晴れているが気温は高くない。ただ道も空気も湿っていて、休み休みでも汗ばんでしまうので、道中で買った麦茶はすでに半分を下回っている。


 もうすぐ目的地であるというのに、未だに現実感が追い付いていなかった。本当に自分はこれから難解事件に立ち向かうことになるのか。名園を含めた、A、B、D、Eの内、Cを殺したのは誰なのか。やはり名園の自演なのだろうか、他の誰かの犯行なのだろうか。これがミステリ小説なら、どんな風な展開だろう。そして、正に自分が『ミステリに挑む探偵』であるという夢見心地で、坂道を上る。


 この事件がフィクションではなく、現実として像を結んだのは、件の館が見えてすぐであった。惨劇の起きた館を目前に玄間は立ち止まり、その場に張付けられたように動けなくなった。闇討ちのように現れた実感。ここで間違いなく、名園が皆殺しをしたのだという証拠。


 それは、臭いであった。ありったけクセを強くしたチーズのようなとか、腐った食べ物を一通り混ぜ込んだようなとか、近いものは思い浮かぶがそれよりも遠い。そんな、知らない臭いが、いくつも吹く風の内、館の方角からくるものだけに乗ってやってくるのだ。それがいわゆる『すえた臭い』であると気付いたのは、数度の呼吸の後、臭いの主を想像したときだった。


 近くで――人間の死体が腐っている。


 玄間はえづき、後ろを振り返った。今ならまだ、帰られるだろう。今こそ、警察に通報するときだろう。だが探偵がなにも調べず、「分かりませんでした」と言うだろうか。依頼を受けたからには、Cを殺した犯人を打ち負かすのが探偵ではないのか。そもそも、死体に慣れていない名探偵などいるものか。


 そうして玄間は、ほとんど即決で坂を上り始めた。これ以上実感が追い付く前にたどり着かねば、目の前の館がどんどん遠退くような気がしていた。濃くなる臭いにもめげず、立ったのは入り口。これ以上はないだろうという濃厚な汚臭が、目前で閉じているはずの両開きドアから漂ってくる。扉の隙間の辺りには虫がたかっていた。


 これ以上、行ってはいけない。そう無意識が語りかけて来る。それを意地で振り切って扉を開けると、ブンブンとうるさい音と、一層ひどい臭いに迎えられる。昼ということもあり中は明るいが、まるで目に見える映像が編集されたように、高速で動く黒い点のノイズが広がっている。


 目に飛び込んできたのは、目下の黒く蠢く物、床に転がる粒々とした塊であった。その粒のひとつひとつが動いており、ときおり隙間から中が見えた。茶色や紫の、ボロボロに風化したゴムのような皮膚の、人の顔だった。それに纏わりついていたのは蝿であり、明るい色の翅が、小さな昆虫としての動きをはっきりと示している。


 玄間は瞬きより早く身体を曲げ、耳の奥で鳴るブルブルという音を聞きながら、その場で嘔吐した。なにも考えられなかった。吐きながら、目の前の床に蝿の死骸と動いている蛆を見つけ、吐瀉物が途切れると同時にまた腹の上が押し上がる。今度は絞り出される声と湿ったゲップしか出なかったが、呼吸ができなかった。


 玄間は外へ転がり出て、館に背を向けた。そうして何度も、何度も呼吸を繰り返す。鼻で息をすると臭いが来る。鼻の奥を押さえるように喉を開き、口でどうにか息を続けた。熱い。頭も、目も、顔も、胸も。パニックになっているはずなのに、むしろ思考は現実から切り離されたように冷静だった。


 思えば、死体しかないここで何ができるのだというのだろう。世には多くのミステリがある。ミステリの名を借りた大喜利のように、それはもう多種多様なトリックや仕掛けがあるのだ。だが自分の持つ謎への鍵は、殺した者の証言と、何も語れない死体しかない。たとえ皆殺しの現場があったって、証拠から生存者や生きている犯人にたどり着いたり、犯人の次の犯行から推理して真実に迫ったり、そうやって物語が展開するんじゃないか。しかし、名園以外はすでに死んでいる。


 これでは何も分からない。付け焼刃の専門知識さえない自分に、何ができるのだ。


 玄間は絶望していた。こんなのはミステリじゃない。やはり軽率すぎた。だが受けなければ受けないで、あの場で殺されていたかもしれない。どちら道であった。


 玄間はペットボトルの麦茶で口をすすぎ、地面へ吐く。そうして残りの茶を一気に飲み干すなりもう一度玄関へと向いた。


 どうしようもないなら、せめて名探偵としての責務を全うするしかない。


 大丈夫だ。探偵は――勝つ。


 もう一度入り口から入る。ひどい臭いだった。入らないことには何も始まらないが、落ちている蝿の数は尋常ではなく、踏まないように避けることなどできない。そこでやっと、名園の言葉の意味が分かった。


『長靴履いていくといいよ、口が閉まるやつ』


 玄間はまた少し離れてから長靴に履き替え、その口から飛び出す紐を目いっぱいに引っ張って閉め、プラスチックの留め具で固定した。世話になることのない長靴だが今だけはずいぶんと心強い味方だった。できれば吐く前に気付きたかったものだ。


 自分の吐瀉物を避け、半ばやけで中へ入る。蝿のカーペットを踏むと、パリパリと鳴って、その振動が足の裏に伝わってくる。また腹の底が震えたが今度は堪えた。パリパリ、パリパリと、枯れ葉か霜柱を踏むように奥へと進む。


『――Aを入り口のところまで連れていってさ、出してあげようとまでしたんだぜ』


 まず最初に見えたのは、Aの死体だ。この人がこの館の主だという。少し奥にはもうひとつの、日に照らされた黒い山。異様に大きいようだが、服らしき布地が見えかくれしている。あれも死体だ。


『EをAの目の前に連れていってさ、目を合わさせてめっちゃ刺しまくるの見せたけど、やっぱりダメ』


 あれがEの死体だろう。その直前に、あそこにAがいた。ということは……。Eの位置まで行き、右を向くと廊下があった。左を向くと食堂があり、人と目が合った。


 力が抜けてよろめき、壁に腕をつく。椅子に座らされた蝿まみれの腐乱死体が、眼鏡越しにこっちをじっと見ていた。顔中に白い点が蠢いているのが遠目でも分かる。


『そしたらDとEが食堂にいて、ゴルフの話してた』


 あれがDの死体か。これで一階の腐った容疑者たちが確認できた。入口にいるのがAであり、廊下と食堂の入口となる場所にいるのがE、食堂で座っているのがDだ。


『アイツはおれたちを見た瞬間に入口に走ったから、追いかけて脇腹刺して止めた』


 Aが降りてきたとき、名園は食堂でDとEを拘束していた。このときあの廊下から玄関へ逃げられると判断したのなら、名園は食堂の奥、Dの位置に立っていたのだ。


 事件らしくなってきたじゃないか。玄間は意味不明の鼓舞で気分を盛り上げ、勢いでどうにかやり過ごそうとしていた。少し余裕が出て壁を見上げると、玄関から入ってまっすぐ前を見た位置に、鹿のハンティングトロフィ――円形の木の板に固定された立派な角の頭蓋骨があった、その下部には日付を示す金属プレートが張付けられている。きっとあれはA自身が仕留めたもので、そういう成果を自慢したがる――。


 そのとき、ゴトンと二階で音が鳴る。一瞬の間、頭が真っ白になり、玄間は呼吸すら止めて見上げた。誰もいないはずだ。浮浪者か。異常者か。どんな者だって、こんなところで過ごせる訳がない。どうする。どうすればいい。ああそうか、外部犯。その可能性が抜けていた。Cを殺した第三者が、人間が腐っていくこの建物にとどまり続けていたのか。いやいや、そんなバカな。


 じっと、静かに留まり続けていると、蝿の音がうるさくてたまらなかった。物音はしないが、それが本当に鳴っていないのか、かき消されているのかすら不明だった。目の前の廊下の奥、突き当たりの曲がり角の先に階段があるのだろうが、あそこから誰が降りてくるのだろうか。いったい何が上にいるのか。みずから向かった途中、あの角から手が届くような距離で現れたらどうすればいいのか。無意識はやはり、行ってはいけないと言う。だが、ならばどうすればいいのだ。異常者がいればやられるかもしれないが、何もせず戻っても名園に始末される。


 やはりどちら道であるならば、確認してしまった方がいい。玄間はここの敷地に来たときと同じように、決断とも呼べぬ曖昧さで歩を進めた。その場に留まり続けることの恐怖には勝てなかった。廊下に並ぶ三つの扉を無視し、左への角の直前まで来た。この向こうにいるかもしれない。ゆっくり、ゆっくりと覗き込む。ここには誰もおらず、思った通り階段があった。そのやや広い空間の右半分には踊り場まで続く階段があり、左半分には踊り場から二階へ続く階段の裏側と、その下にアルミ扉ひとつがあった。


 玄間は階段を上がる。段の角に足の裏をつけ、ゆっくりとつま先を段に乗せる。すると足音が鳴らないで済む。そしてゆっくりと身体を持ち上げ、また次の段。普段の尾行調査で得た技能を活かして足音を殺し、ごくゆっくりと踊り場の一段下にたどり着いた。そこでまた、じっとして耳を澄ませた。数呼吸の間、息すら殺していた。左の壁の裏で潜む者の息の音を、じっと待った。そうしていて初めて、そよ風が吹いていることに気付いた。階下からくるもの、階上へ向かうもの。どうやら窓が開いているらしい。


 ――ここには何の気配もない。玄間はゆっくりと壁から顔を覗かせ、階段の上を見た。二階の廊下と、花瓶の萎れた花だけが見える。またゆっくり、足音を殺しながら上がる。階段を上がりきって、廊下への曲がり角までなるだけ壁にくっつきながら、そっと廊下の奥を見る。誰もいない。


 ここは一階よりは蝿が少なく、まだ過ごせそうだ、なんて思っていた。そのせいでこの階に潜む何者かの影が、濃くなったような気がした。


 一直線の廊下の片側面に五つの扉が並び、突き当たりに一つ。二階の部屋は合計で六つのようだが、さっきの音はどの部屋からだ。ひとつひとつ見ていくしかない。


『BとDとEは分からないが、残りの部屋は手前の三つだけだから、そのどれかだ』


 とりあえず、どれが誰の部屋なのか調べておく必要もあるな。


 最初の扉のノブに手をかけ、ゆっくりと下ろし、静かに手前に引く。向こうは寝室で、やや広い空間に、荷物の乗った机、まだ乱されいないベッド、その枕元にランプが置かれたベッドサイドテーブル、上着がひとつぶら下がっているのみのクローゼットがあった。


 テーブルのバッグの隣に、ゴルフクラブが一本だけあった。ならDかEの部屋だろう。もしかしたら打ち方の練習でもしようと言う計画だったのだろうか。


 バッグを探ると中に財布があった。金やカードの他に、免許証も入っている。その写真には、眼鏡をかけた男がいた。さっき食堂で見たDの死体と同じ眼鏡。つまり、ここがDの部屋だ。彼の本名を一瞥したが、今回の事件に関係ないと財布に戻した。


 あの物音はこの部屋からではない。廊下へ戻り、ひとつ奥のドアをまた同様にして開けた。中は同じ構造で、荷物の乗った机、中央に少しシワが寄ったベッド、何も入っていないクローゼットがあった。


 テーブル上のダッフルバッグを開く。中には男物の着替えや、髭剃りなど日用品が入っていた。それと、カジノで使いそうなチップが一枚。これはたしか、ゴルフでボールの位置をマーキングするための目印だったはずだが、うろ覚えで不安だった。まだEかBかは断定しないでおこう。また財布から免許を確認し、男であることを確認だけして仕舞う。そうして次の部屋へ向かうべく、扉を押し開ける。


 目の前に、人がいた。


 白く濃く縮れた、長い髭を生やした老年。見るからに浮浪者だった。声が出なかった。死臭とはまた違う、嫌な臭い。彼は汚れた表情のない顔で、こっちをじっと見ている。


「……あ……」


 玄間はうまく声帯を震えさせられず、ごほんと咳払いをしながら改まった。


「あなたは?」


 彼はおもむろに玄間を見定め、ようやく声を発した。


「ホームレスって言えば、分かるか」


「ホームレス? こんなところで、何を?」


「なにも」


 まるで、都会の路上での生活を注意されているかのような物言いだった。コイツは正気ではない。そう直感で分かった。


「おまいこそ、なにしてる」


「僕は探偵です。殺人事件の解決に来ました」


「あぁこんなもんだからか。だが、警察任せるっちゅうんじゃないんか。こういうの」


「難事件なんです。なにせ、容疑者はみんな死んでいます。この館で」


「はぁ……?」


 狂った者を見る目だった。玄間は少し腹が立つ。こっちはお前よりよほど正気だ。


 だが同時に、安心もあった。恐怖は正体が分かって半減、話が通じると分かってほとんど消えた。


「現場にいたようですが、何か触りましたか?」


「いやなんも。仏さまの物には手ぇつけられんよ」


「それならよかった。でも、それならこんなところで何を?」


「外じゃなけれや、どこでも良いって思ってな。ここに死体ある気がして来てみた」


「え、直感で分かったんですか?」


「直感っちゅうか、風の具合というか、鳥の動きというか、うまく解らんが分かるのよ。でも死体見つけられるっちゅうか、そういう縁のある奴はな、おるもんよ。お前そうなんじゃないのか」


「ええ、その通りです。お互いに探偵に向いていますね」


 さっき初めて他殺された者を見たというのに、玄間は即答していた。なぜなら探偵とはそういうものだからだ。殺人現場に出くわす。それが理想的なミステリだ。まさに動いている難解事件の内部で、探偵と犯人とが死闘を繰り広げるのだ。


 その意図が伝わるわけもなく、ホームレスはただ怪訝な顔をして玄間を見ていた。


「こんなとこで人死んでれば、見つからんと思った。ひとりぶんの臭いだけで雨風しのげるなら儲けもの。そいで、今隣にいたんだが、さっき来たばっかりなんにもう堪えられん。あんまり死にすぎてる。……これ自分がやったって言えば、捕まえて貰えるかね。刑務所なら、メシも出るよなぁきっと。だが警察署は遠いんだ。行くのもなんだか面倒でなあ」


 彼が行こうとしたのを、肩を掴んで止めた。


「待ってください。もし自首するならひとつ、注意して欲しいことがあります」


「ああ、ああ、わかっとる。お前はいなかった」


「違います。あそこの部屋」


 奥から二番目の部屋を指差した。


『一番奥がAで、Cが二番目、おれの部屋が三番目だった』


「奥から二番目の部屋にある死体だけは最初から死んでいたと言ってください。僕はそこの殺人事件を調べているので、あなたが犯人ってことになるんじゃ困るんです」


 彼は顔をひきつらせ、黙って頷いた。そして、玄間をチラチラと見ながら逃げるように階段を下っていった。


 本当に現場を荒らしていないのだろうか。玄間は不安になり、彼がいたという四番目の部屋へ。やはり構造は同じ。テーブルにはボストンバッグ、カーディガンが掛かったクローゼット、そして所々が汚れたベッドと、何も乗っていないベッドサイドテーブル。寄って見ると、ベッドの奥の床にランプが転がっていた。あの浮浪者はベッドで過ごし、寝返りか何かの拍子にこれを落としてしまったらしい。それがあの音の正体だ。バッグは開いていないので、それ以外のことは本当に何もしていなかったらしい。律儀な人だ。


 バッグを開いて中を改めると、メッシュケースに小分けにされた化粧品やブラジャーが出てきた。そこでは断定せずに、財布を確認する。免許を持っていないようだったが、ジムの会員証には女性とあった。


 玄間はふと気付き、視線を浮かせた。そういえば名園から彼らの性別を聞いていない。こんなに基本的な情報を言い忘れていたようだ。性別くらいならここで確認できるが、他のもっと重要な情報を言い忘れていないか心配になってしまう。


 そして、奥から三番目の部屋。名園の部屋の前に立った。蝿の密度が濃く、扉下の隙間から死骸があふれ出るようになっていた。扉を開けると、足元でザリザリと鳴るが、それを見ないように中へと入った。構造は同じだが、名園の荷物だけはなかった。代わりに、ベッドに死体があった。ブクブクに太っていて、服が張り裂けそうになっている。シャツのボタンがいくつか飛んだようで、中からインナーシャツが見えていた。乗せてあったのがずり落ちたのか、顔に枕が寄りかかっていた。


『まず廊下に出たらさ、Bがちょうど階段から上がってきたところだったんだよ』


『だからおれの部屋に連れ込んで、痛めつけた。ちゃんと顔に枕当てといたぜ』


 これがBだ。他より腐敗が遅いのか、肌は穴だらけながらまだ原型を保っていた。よく見ると、爪にはマニキュアがしてある。しかし最近ではマニキュアは性別の断定には繋がらなくなってきている。もう少し観察せねば。


 蝿は露出した肌の部分にたかっており、服の部分にはあまりいない。そこで玄間は、遺体の胸を触った。グニと嫌な感覚だが、同時にブラジャーの感覚もあった。ならこれは女性だろう。もし違ったとしても問題はない。少なくともブラジャーをつけているのだから四番目がBの部屋だ。同時に、五番目がEの部屋であると確定する。これで部屋の順番は確認できた。それが分かってから部屋を出て、奥から二番目の部屋の前に立った。


『――首の所がこう、横が真っ赤になってるCが倒れててさ。目も開いてるし、動いてないし、ちゃんと死んでいるわけだ』


 いよいよ、問題の被害者だ。少し時間はたっているが、Bの死体は腐敗が遅かったのだから、Cもかろうじて状況が分かるかもしれない。


 玄間は扉を開けた。中は同じ構造。だがそこに、死体はなかった。


 部屋の中心をじっと見ながら、彼はゆっくりと中へ入った。ベッドの裏か。だが死体はない。クローゼットにうまく隠れているのか。やはりない。


 玄間はハッとした。名園の記憶違いじゃないのか。部屋を出て、一番奥、Aの部屋へと入った。中は他よりも広く、酒の並ぶテーブルにはソファとテレビが用意されており、広いベッドもあり、その枕元には本が積まれたベッドサイドテーブル。クローゼットを開ければ高そうな服や靴が並び、隠されるように猟銃も仕舞ってあった。


 しかしどこにも、Cの死体がなかった。


 死体が、足りない。


 別の部屋か。いや、二階の部屋はこれで全部だ。名園だって、まさか一階と二階までは間違えないはずだ。


 あとは……あの浮浪者が何かをしたのか。いや、それも違う。いくらなんでも死体をひとつだけ動かすことなどないだろうし、そうする動機もない。


 何かが違うのか。名園は――。


 ――名園が、間違えていたら?


 目が開いていて、動いていないという証言。これは死んでいる証としては弱いのではないだろうか。それは多くのミステリが物語っている。死んだと思われた最初の犠牲者が、実は犯人であったというパターンだ。それならば、死体が無い理由にも納得がいく。名園の犯行を目撃したCは、自ら何か手を下すこともなく、手を汚さずに逃走した。


 待てよ。と玄間は首をかしげた。そしてCの部屋へ戻り、中をあらためる。テーブルには荷物。クローゼットには厚めの上着。もしも逃げるなら、荷物を残しては行かない。なら、惨劇を見て気が動転した、とかだろうか。それも考えにくいが……。


 そこに思い至るなり玄間は反射的に駆け出す。そして階段横の窓から外を見下ろした。この館に至るまでの坂道には、もう誰もいなかった。


 あの浮浪者、もしかして――あれがCだったのか。それを見抜けず、みすみす見逃したのか。いや待て、冷静になれ、惑わされるな。必要なのは証拠だ。あれがCでない証拠が見つかればいいのだ。


 またCの部屋へ戻り、荷物を確認した。すると中には女性物の着替えと、生理用品が入っていた。女性ものを着る男は居れど、生理用ナプキンを持ち歩く男は滅多にあるまい。玄間は力が抜け、下着とナプキンを握ったまま机に手をついた。危うく、探偵が無様を晒すところであった。重要な情報の取り逃しは最大の恥だ。目眩が通りすぎるまで、繰り返し呼吸を続けていた。そこでふと気付いたのが、あの死臭を感じていないことだった。ずいぶんと鼻が慣れたようだ。それに気づいて、自分の鼻の奥に死体から出たものが住み着き始めた気がして嫌だった。


 握った物を戻し、また中身を探って財布を取り出した。免許やカード類に、女性の記載があることを確認し、財布も戻す。そしてCのベッドに座って、玄間はまた考え始めた。あの浮浪者がただの部外者であるとすれば、まだ話は振り出しから動いていないのだ。


 誰がCを殺したのか。誰がどう動いていたのか。誰に動機があるのか。誰が可能だったのか。そして、どうしてCの死体がないのか。


 死体がないなら、さっき否定したCの生存説を抜いて二通りの考え方がある。ひとつ、名園の情報が違う。Cが死んだと言う所が嘘か、C自体が最初から存在していなかったのかもしれない。ふたつ、誰かがCの死体を移動させた。Cのみを殺す予定ならば、死体を処理して隠そうとするのは当然の行動だ。


 どちらの説が、最もらしいと言えるのだろう。どちらも決め手に欠けている。他に情報は無いだろうか。玄間は下の階へ降り、一階の、名園の話に出ていなかった部屋へ。まずは階段横の扉に手をかける。しかしそこには鍵が掛かっていた。


 仕方ないので階段前の角を曲がり、最初の部屋へ。そこは風呂とトイレが一体型となっているバスルームだった。ビジネスホテルや、アメリカでよくある様式だ。そこには日用品しかなく、不審なところは見つからなかった。


 その隣の部屋へ。中は倉庫で、道具の入った工具棚と一斗缶、買溜めされた重曹と、大きなノコギリや、ノズルのようなものといった、あまり見かけない類いの工具があった。何かと思えば、扉の横にハンティングトロフィーに使う台座となる木の板が並べてあるのが目に付いた。なるほどあのトロフィーは自分で作っているようだ。これは趣味のための作業道具なのだろう。


 ここは凶器に使えそうなものが多いことを覚えておこう、と玄間はさらに隣の部屋へ。そこは娯楽室で、自動式麻雀卓やダーツ、壁にくっついたバーカウンターなどがあった。ここも特に変わったところはないな、と出ていこうとしたが、玄間はふと振り向いた。


 それぞれきちんと整理され、麻雀卓には牌が敷き詰められて並んでおり、ダーツの矢はきちんと仕舞ってあり、カウンターには銀色の盆だけが乗っている。ならば犯行の瞬間、この娯楽室は使われなかったということだろう。人の動きに関係がない。そう考えれば、この部屋は今回の事件から余計な情報として除外できる。


 自らの探偵思考に惚れ惚れしながら玄間は廊下へ出て、Eの死体の隣に立った。ここは館を縦断する廊下と横断する廊下の四叉路的な地点で、玄関からまっすぐ進むと、少し奥まった行き止まりに壁掛けのハンティングトロフィーがあるのみ。左に曲がれば食堂で、右に曲がればいましがた通った廊下があった。


 残りはキッチンだ。食堂の方角へ進み、Dの死体の横を通る。どうやらトドメには首を切ったらしく、服の首もとから下へ向かって、赤褐色の染みができていた。その生々しさにまたも胃が震えたが、玄間はこらえながら奥へと進んだ。


 キッチンはどちらかと言えば業務用と言える設備だった。金属扉の大きな冷凍庫を開けてみると、おおよそ人間が過ごせないこの空間に、爽やかなひんやりとした空気が舞い、少しだけ気分が楽になった。だがそれを元に引き戻すような光景が目前に広がっていた。


 冷凍庫の中は、ブロック肉だらけだった。考えてもみれば当然だが、狩った鹿の死体を食用にさばいてこの冷蔵庫に保存していたのだろう。


 もう一つ、隣にある家庭用冷蔵庫を開けてみると、こちらは普通の様子だった。紙パック入りの茶やコーヒー、調味料、それとひとかたまりの肉塊。これは冷凍された鹿肉をゆっくりと解凍するのに移しておいたものだろう。下の段、冷凍庫にはやはり買溜めたと思われる、かち割りの純氷がいっぱいに入っていた。更に下の野菜室には、ニラやセロリ、タマネギなどが多めに入っている。こっちは鹿肉の調理に使うのだろうか。


 別荘にそう何度も来ることはないと思うが、それでも野菜が多く用意されているのは、翌日の食事の分だろう。冷蔵庫を閉めて立ち上がり、その勢いで背筋をうんと伸ばした。他には洗って干された調理道具くらいしか目につかず、玄間は唸った。


 とりあえずこれで一階を一通り見終えた訳だが、分かったことと言えば、倉庫に凶器が多いこと、娯楽室は事件とは関係がないこと、次の日の食材もあることくらいだ。そこまで考えて、思わず声を漏らした。


『これがさ、首絞めだったんだよ。しかも素手。素手で殺すまで行けるってやべぇよな? おれだってヒモ使わないとキツいよ』


 凶器もなにもないじゃないか。とっくに人間のいなくなったこの場所で、玄間はひとり顔を赤くした。誰かに話しながらの調査でなくてよかったと、心の底から安心していた。ならば倉庫も話からは除外としよう。


 あとは、あそこか。彼はキッチンから出て、また四叉路の真ん中に立つ。あの開かずの扉の向こうはどうなっているんだろうか。犯行の瞬間に鍵が掛かっていたからきっと無関係なのだろうが――。


 ――いや、待てよ。あそここそじゃないのか。他のどこにもCの死体がなかったのだから、あるとすれば鍵のかかった、あの部屋しか。それが可能だったのは……。


『で、縛ったってところで、ちょうどAが降りて来たのさ。でも流石にヒヤッとしたよ。あ、A上にいたんだってなって、聞かれてなくてよかったってさ』


 玄間はDの隣へ立ち、廊下の突き当たりを見た。名園はAが上から来たと言うが、そのときの立ち位置はここだった。そして、ここからは曲がり角のみが見え、その奥の階段は見えない。なるほどそういうことか。名園は勘違いしていたのだ。状況が異常なだけで、事件はあまりにも簡単だった。ただ、すれ違ったということなのだ。


 玄間は玄関扉の手前のAの元へ、あまりにも蝿が多いので蹴って追い払い、ズボンのポケットを見てみる。すると探るまでもなく、床にこぼれ落ちた鍵が蝿に埋もれていた。息で死骸を飛ばし、それを拾う。右手でつまんだまま、廊下の一番奥、あの扉へ。ドアノブの鍵穴に差し込み、回す。カチャリと軽い音がして、ノブが回るようになった。


 蝿のブンブンという音と、強い換気扇のゴウゴウという音が響いている。中は、作業部屋のようだった。コンクリートの床で、底に焦げのある一斗缶や、洗ったのち干されていたと思われる鹿の頭蓋骨、水か空気を放出できそうな機械と、レンガの大きな焼却炉まである。そして、中央には金属のテーブルと、それに立てかけられた大きなノコギリ。きっと解体に使うためのものだろう。


 その上に――裸の死体がひとつ、蝿に食われていた。ブクブクと膨らんで醜かったが、性器を見ると女性のようだった。これで辻褄が合う。


 やっと、Cを見つけた。彼女には足が無かった。切り落とされたのだろう。処理をするならば、うってつけの物がある。玄間は背後の焼却炉を見た。手製と思われる大きな箱形で、人ひとりは難しいが、少しずつならば入りそうだ。隣には灯油らしきポリタンクが置いてあるので、点火も簡単で火力も十分。鹿を解体して出たゴミをこれで処理していたのだろう。上部のスライド蓋を外し、中を覗いた。


 灰と、数本の長細い骨。医学の知識がなくとも、それが何なのかは分かった。


 これで、Aが犯人であると断定できた。AがCを殺害し、一度その場を離れた。そのとき死体が見つかったが、Aはそのことに気付かずすれ違った。そして名園がBもしくはDとEの相手をしている間に死体をここへ持ち込み、処理を始めた。そうして脚を焼いている間、怪しまれないように表へ出たところ、運悪く名園に殺害された。


 あとは、動機か。考えてみれば、そんなものはいくらでも可能性がある。この旅行とは全く関係のない過去に、何かがあったのかもしれない。それでも強いて、持っている情報から考えられるものは無いだろうか。


『それで、廊下に出たらさ、Bがちょうど階段から上がってきたところだったんだよ。おれを見てビックリしたような顔してさ、なんかニヤリとしたんだ。しかも「あれっ、Cとはもういいの?」だって。怪しいだろ?』


 そういえば、どうしてBは一度驚いたのだろう。名園とCが知り合いならば、同じ部屋にいることはあまり不自然でも無いはずだ。そういう驚き方をするのは予想外であったときだろう。


 どう予想外だったのか。思い付いたのは、ふたつの説。ひとつはBがAの共犯であった場合。殺害したCを運ぼうとしたところで名園に見つかったと焦り、慌てて誤魔化した。しかしこれだと矛盾がある。


『事件があったのはAの別荘だった。そいつ自体とは繋がりはねえんだけど、Bっていうのに紹介されてさ。そのBってのには、Cに紹介してもらった』

『仲良くしてたやつが死んでムカついたからさ、犯人を捜そうって思ったんだよ』


 Bは、Cと名園の仲が良いことを知っているはずだ。なら、名園が会いに行く可能性はちゃんと考えるだろうし、それならCをこの作業部屋に誘い込んでから殺害するなりできただろう。DとEは食堂で話し合い、互いにアリバイがあったことを加味すると、やはりAの単独犯だったのだろう。


 そして思い付いたもう一つの説は、Bが、Cと会っていたのはAだと思っていた場合。二階で落ちたランプの音が一階で聞こえていたので、防音は特にされていないのだろう。ならば、Cの首を絞められたとき、抵抗して暴れた音も聞こえていたはずだ。それをBは愛し合うときの音だと勘違いしたのかもしれない。すると驚いた理由にも、「Cとはもういいの?」などと言った理由にも説明がつく。Cの相手がAだと思っていたのに、部屋から出てきたのは名園だったので、安心したのだろう。


 それに、Cから直接Aの別荘に誘われず、Bから誘われたという点も気になる。もしかしたらCは、名園と同じくAと初対面であったかもしれない。それにもかかわらずAは、Cを殺害した。動機がなく、突発的に殺害したのだろうか。名園という殺人鬼を考えるとそれもありえる気がしていた。


 突発的な犯行としても、その切欠があるのではないか。そう考えて思い浮かんだのは、玄関から見えるハンティングトロフィーや、クローゼットのいかにも高そうな服だった。ひとつの可能性を思いつき、部屋を出た。そのときに気付いたが、アルミ扉は内側から鍵をかけられないタイプであった。


 そうしてまたAの遺体の元へ。遺されたものから考えうるキャラクターとすれば、もしかしたらあるかもしれない。そうして外から触ってポケットを探ると、左側に何かが入っていた。湿った底には、動く粒と動かない粒、柔らかい粒と――正方形の何か。取り出してみる。それは玄間がまさに思い描いていたもの、コンドームであった。常にポケットに入れておくものではあるまい。


 誘惑に失敗した上での逆上。突発的な殺人の中でも考えやすい部類だろう。これで動機も分かった。やっとたどり着いた答えに、しゃがんだまま大きく一息をついた。しまったと思ったが、なぜかあの強烈な臭いは僅かにしか感じなかった。


 どうしたのだろうか。玄間はAに手をつき、直に臭いを嗅ぐ。するととんでもないほど強烈な臭いがしてえづきそうになったが、その吐き気に安心感を覚えた。まだちゃんと、自分は正気である。その保障のような気がしていた。玄間は手についた羽根や蝿の身体の一部を、逆の手でパンパンと払いながら立ち上がった。


 きっと、臭いに慣れ始めてしまったのだ。もし感じなくなってしまったらと思うと、ぞっとしてしまう。玄間は玄関へ向いた。真相にはたどり着いた。早いところ、ここから離れなければ。


 そうして館を出た。その一歩目で、足が止まった。


 もし、これくらい強烈な臭いが日常の中にあったならば、すぐに違和感として気付くだろう。Aは、そのことを知っていただろうか。玄間はうつむき、足の先を遊ばせて、長靴の底を鳴らした。


 それにまだ、引っかかることもある。ならば――。


 ――もう一度、調査だ。


 彼は踵を返し、また館へと戻った。その鼻には、幼時の火遊びの臭いがあった。




 あれから一日。名園は調査結果を聞きに夕方、玄間探偵事務所へと向かっていた。道中には商店街があり、そこの人々の活気を、つまらなそうな目で見ていた。


 彼らは自分とは違う場所にいる。それは、今まで生きてきてずっと感じ続けていたことであった。自分とは違う法のもと、自分とは違う考え方で、自分とは違う同じ尺度の普通になることを望んで、それでもどこか自分は特別だと感じながら生を過ごすという人種。名園とは大違いだった。


 特別とは孤独であった。彼らはそれを知らないのだ。変わっていて面白い人間はまるで人気者のような扱いを受けるが、その実は動物園の檻の中と変わりはない。外の世界で知らない人間が笑っているだけだ。


 人の輪の内側か、外側かにしか居られない。輪そのものになることができない。


 決して独りが嫌なのではない。人といるのは疲れるものだ。共感が欲しいのでもない。誰かが笑っていても面白くはない。ただ、どこまでいっても一人遊びなのが退屈だった。だから、どんな感情だって大きく揺り動かされるのが好きだった。それが決して、明るいものでなくとも――。


 探偵事務所へ戻った名園の目に映ったのは、全開にした窓枠に腰掛ける玄間であった。彼は左腕の、手首の下の臭いを嗅いでいた。名園に気付くなり微笑み、彼のオフィスデスクの前に用意された椅子を手で指した。


「来たね。どうぞ、そこで楽にしてくれたまえ」


「……」


 名園はその場で立ち止まったまま、顔を引きつらせていた。事務所にはかすかにだが、死臭が立ち込めていた。幸運にもそこまで強くないので、他の者に気付かれてはいないだろうが、すぐに対応せねばならない。


「お前、どっかにさ、服か、上着にさ……」


 名園は気を遣った言い方をするが、玄間はまったく気にも留めていなかった。


「どうした?」


「死体の臭いか、ひょっとしたらちょっと、シミがついてるかも」


「うん。あるよ。大きな染みが」


 玄間は腕を見せた。そこには乾いた、大きなシミがある。名園は息を飲んだ。


「おいおい……。それって」


「うん。僕のじゃあない」


「初めての死体は刺激が強すぎたか? なあちょっと落ち着けよ」


「僕は落ち着いているよ。ちゃんと、正気だ。おかしい行動なのは分かるけど、理由があるんだよ。昨日のお返しに豆知識を教えてあげる」


 また彼は、袖を嗅いだ。


「人間はね、慣れるんだよ。最初は死体の臭いにさ、慣れちゃいけないって思ったんだ。そうなったら、きっと一生忘れられないって、そう思ったんだけどね、逆なんだ。どんなに最悪な記憶でも、繰り返し続ければ、慣れていく」


 名園の表情にも気づかず、話は続いていく。


「だからほら、僕はもうこの臭いがね、もう分からないんだ。分からないのだから、思い出すことはない。そういうことなのだよ」


 彼はまた、臭いを嗅いだ。まるで花でも愛でているようだった。


「慣れは人間の機能なんだ。だからもう、いくら死体が山積みになった事件でも、僕はもう大丈夫だ。他の事件も任せてくれたまえ」


「そ、それはよかったな。なんか、口調も変じゃないか? そんなだったっけ?」


「僕は最初から、こうだった。何も変わっていないとも。安心してくれ」


 明らかに、違う。名園はしまったと後悔し始めていた。トラウマくらいにはなるだろうとは思っていたが、まさかここまで見事に狂ってしまうとは思っていなかった。


「なあ、早く話をしよう」


 名園はその場に立ったまま話を続けようとしたが、玄間がまた椅子を指したので、渋々ながら椅子を少し移動させ、座った。それを認めるなり玄間もデスクに着いた。


「そういえばさ、おれ、みんなの性別言ってなかったんだよな」


「そうだね」


「ちょうどいいから、テストしようぜ。誰が男で、誰が女だった?」


 そう言われ、玄間がため息を付いた。


「わざとだったんだね。これで本当に調査したかどうかの見分けがつく」


「偶然だって、偶然。で? ほらAから順番に言ってみてくれ」


「分かったよ。Aが男、Bが女、Cが女、Dが男、Eが男、名園が女」


「いやおれはいいって。でもちゃんと行ってくれたみたいだな。よかったよかった」


 彼女は人懐っこく微笑んだ。


「で、何か分かったか?」


「うん。とりあえず、犯人と、その動機が分かった」


「お。本当か? 凄ぇ。聞かせてくれよ」


 名園はデスクに身を乗り出すが、玄間が染みのある腕を置いたので、気色わるくてさっと座り直した。


「まず結論から言うと、Aが犯人だよ」


「へぇ。そうだったのか。でも、どうして?」


「まずね、現場に着いて死体の確認をしたんだけれど、Cの死体が無かったんだ」


「え? いやいや、確かにあったぜ。無いなんてことはねえよ」


「そう。まずそこで齟齬があった。きみは確かに二階でCの死体を見つけた。そのときAは階段下の作業部屋で、焼却炉に火をつけていたんだよ。そしてきみがBか、DとEの相手をしている時かに、その作業部屋へと連れていかれていたんだ。死体という動かぬ証拠を、焼却炉で処分するためにね」


「……あ、ああっ。そういうことか。すれ違ったってことだったんだな」


 名園が腰を浮かせ、感動したように頷いた。


「っていうことは? でもどうしてAが犯人なんだ?」


「きみの行動中、Cの死体処理ができたのはAだけだったからだよ。更に言えば、焼却炉がある作業部屋には鍵がかかっていて、その鍵はAが持っていた」


「文字通り、事件のカギってか? へぇ~」


 言いながら、「あれ」と名園が首を傾げた。


「でも、じゃあ動機は?」


「これは仮定の域を出ないけど、Ⅽを誘惑して失敗したことによる逆上、つまり突発的な犯行だよ。Aはプライドが高く、自分に自信のあるタイプなんだ。だから、Cを誘惑して失敗したしたことに腹が立ったんだろうね」


「へぇ? それだけ?」


「左のポケットにコンドームも入っていた」


 玄間が言うと、名園が噴き出した。


「ナンパに失敗したからかよ。だからあいつ、口割らなかったんだ。ダサすぎて言う気になれねえよなそんなの」


「そうだね。これが真相だけど、どうかな」


 玄間が両手を名園へと差し出す。すると名園は、拍手をした。


「ああ。お前、最高だよ。すげえすっきりしちゃった。よく分かったな」


「探偵は勝つ。そういうものだからね。ところで館でちょっとしたことがあってね」


「ああ、なんだ?」


「人がいたんだ。生きている人」


 拍手していた手が止まり、目を見開いた。


「マジ? あそこに? 警察か?」


「違う。ホームレスだよ」


「ホームレス? あんなところで?」


 名園は疑いの目で玄間を見ていた。しかし彼が嘘を吐いている様子はないと見て、少し背筋を伸ばした。


「あの皆殺しの自首をするんだってさ。でも、ちゃんとCのことは言わないで欲しいって頼んでおいたよ。僕の担当する事件の公然の事実が違うなんて許せないからね」


「そ、そうか」


 玄間の主張の意味がまるで分からず、名園は困惑するばかりだった。そんな表情をしていても、語りは止まらない。


「彼が言うにはね、死体と縁のある人間はいるそうだよ」


「あー、そうかもな。おれなんか特に」


「きみは自分で作ってるじゃない」


「縁があるってそういうことだろ?」


 玄間は玄間で、名園の言うことを理解しがたかった。


 互いに、相容れないなと思っていた。


 名園は大きなため息を付いた。思っていたより面白くはなかったな。話も終わったことだし、そろそろ証拠消しとこうかな。そう名園は、開いた窓を気にしながら考えていた。どこか、いいタイミングはないものか。


「彼はね、あんなところで、とても過ごせないなんて言って出ていったよ。名園さんはどう? あそこでずっと過ごせると思う?」


「そりゃ無理」


「というか、過ごしたことあるかね?」


「ないない。すぐ逃げるよもちろん。だっていればいるだけショーコ残しちゃうからさ。そこの気遣い大変なんだぜ?」


「そう。じゃあ、そろそろ推理に入ろうか」


 探偵の言葉に、殺人鬼はあっけにとられた顔をした。


 その顔へ向け、まっすぐに、人差し指が向いた。


「犯人は、お前だ」


「……はぁ?」


 その声は、驚きというより、困惑だった。


「すまないね。探偵の真相解明は、この言葉から始まるんだ」


「なんだよ。いまさら他の奴の殺しのこと言うのか?」


「違うよ。C殺しの話だ」


「おれが殺したって?」


「そう。この事件は単純だよ。ただきみが、全員を殺した。それだけなんだ」


「……そこまで言うなら、何かショーコでもあんの?」


 彼女は挑戦的な目だった。何か面白くなりそうな気がする。まだ生かしておこう。


 しかし玄間は、眉一つ動かさない。


「証拠というよりも、根拠だね。まず、きみの証言。あまりにも出来過ぎなんだよ。自分の立つ位置から考えて、どう勘違いするかまで計算されている」


「できすぎもクソも、実際あったんだから違うわけねーじゃん。証言が完璧だったら、嘘じゃないってなるだろ普通」


「逆だよ。きみのは完璧すぎたんだ。だって証言には、Aが犯人だってたどり着くための最低限の情報しか入ってないんだもの。例えば、Bを殺したときの『ちゃんと顔に枕当てといたぜ』というセリフ、余計な一言のようで、ちゃんと現場で誰がBなのか分かるようになっているし、『DとEが食堂にいて、ゴルフの話してた』というのも、ゴルフ関連のグッズから誰がどの部屋になるのかを示すヒントになっていた」


「いや、でも部屋が分かったからってなんなんだ? んなもん最初に言ったろ」


「確かに言った。でも口頭で聞いただけだからね、誰が何番目の部屋かを忘れるかもしれない。するとその混乱で、推理も間違う。そうならないよう、きちんと思い出せる情報が必要だったんだ。それを加味すると、不要な情報が少しもない。包丁で脅して片方ずつ縛らせたのだって、女は非力だという偏見で嘘だと疑われないようにするためだった」


「……じゃあ普通は、どんな証言になるんだよ」


 名園は不満げにそっぽを向いて言った。それさえ演技なのだろうと思い、玄間は彼女の不気味さが嫌だと目を伏せた。


「ふつうはね、もっと、余計な情報がたくさん入っているはずだ。だって、誰が犯人か分からず終いだからね。関係がありそうなことを片っ端から挙げて、自分の推理や感想なんかも事実みたいに話す。でもきみは、慣れ切ったみたいに必要なことしか話さなかった。そういう風に言うか迷ったと思うけど、探偵を混乱させない方を選んだ。そうだね?」


 彼女は返事をしなかった。だが玄間はやはり、止まらなかった。


「まだ、あるよ。例えば、長靴」


「長靴? って、あの?」


「その長靴。ありがとう。あれがなかったら僕、中に入れなかったかもしれない」


 妙なところで出たお礼に、名園はやや混乱していた。なんなんだ、こいつは。


「それは良いが……」


「でも、どうして必要だって思ったの?」


「それは、ほら、虫とかいるかなって」


「うん。それはもう、たくさん。生きている蝿と、死んでいる蝿と、蛆虫でね、カーペットみたいになっていたんだ」


「だろ?」


「どうしてきみがそれを知ってるのかね?」


 玄間は、にっこりと微笑んだ。


「きみはついさっき、死体と過ごさないですぐに逃げるって、そう言ったよね。腐乱死体があるとあんなことになるなんて、どうして知ってたの?」


「それは……ほら、一般キョーヨー的な?」


「ニュースか何かで見たのかね?」


「ああそう。テレビでやってたわ」


「いいよ。ならば、撤回するね」


 あまりにもあっさりと退き、名園は思わず大きく息を吸いながら頭を掻いた。何だこいつは。何を考えているのか、さっぱり分からないぞ。


 不意に玄間が、あのシミを名園に差し出した。彼女は驚いて腰を浮かせた。


「大丈夫だよ。この臭いを嗅いでほしくて」


「や、やめろよ汚えな」


「この臭いは嫌い?」


「嫌に決まってるだろ誰だって。人じゃなくたって、腐ってたら臭ぇだろ」


「そうだね。ところで、これが人間の死臭って知ってるんだね」


「……」


 彼女は無表情のまま、すとんと椅子に落ちた。


「きみは見る前からこれが死臭だと気付いていた。調べれば情報は分かるが感覚は体験しないと分からない。死臭がするほどずっと一緒にいたっていう証拠になるね?」


「そうだとして、おれが犯人ってことのショーコにはなんなくね?」


「きみが嘘を吐くことの証拠にはなる。それで十分だ」


 重い一撃だったが、名園は肩の力を抜いた。


「……しょーがねえな。確かにそこは嘘だった。まあほら、殺しをやってるとさ、動けない状況もよくあるんだよ。警察が殺到してくるっての? その時だ、知ったのは。虫がすげえ勢いでたかってくるのも、死体の臭いも」


「認めたね。ならそれを根拠に、もうひとつコマを進められる」


 意味深長なことを言っている。罠にはめられたようだが、どういう罠なのかさっぱり想像できなかった。


「嘘をついたのであれば、隠したいことがあったということだ。その嘘が隠したいのは、タイムラグだね」


「タイムラグ?」


「皆殺しから時間が経過していた、ということだよ。きみの嘘にピンときて調べてみて分かったんだけど、春先の気温だと一晩で人は腐らない。数日開いているんだ。その間に、AによるC殺人事件のシナリオと、そのための証言を考えられたはずだね」


「それは……」


 言葉が続かなかった。言えば、またそれを糧にして反撃が来る。そんな気がする。


「頭が回り、嘘がうまい。やはり探偵の敵はそうでなくちゃいけないね」


 彼は本当に、満足そうな顔をしていた。殺人鬼を目前にした者ができる表情ではない。とんでもないヤツを引き当てちまったなぁ、と名園は苦笑いすることしかできなかった。


「実は、動機の決め手だったコンドームも怪しいんだ」


「ゴムはゴムだろ。何が怪しいんだ?」


「あの館には、Aのポケットに入っていたもの一つしかなかった。でもね、Aは物を多くストックをしておくタイプなんだよ。重曹とか、鹿肉とか、頭蓋骨をトロフィーにするための木の板とか、あと、氷もたっぷりだったね。それなのにコンドームだけは、たったひとつだけだった。性欲に任せて呼ぶ人を抱いて回るなら、もっとストックを用意しておくと思うんだけどね。だから、あれはきみが仕込んだものじゃないかって思ったんだ」


「それは忘れてただけじゃねえの? トイレットペーパー忘れたことねえのかよ」


「確かにそうだね。証拠としては弱い。だから、怪しいって程度にしておいたんだ」


 実質的に、また撤回。やりにくい相手だ。


「で、他にはねえの? おれが殺したってショーコ」


「あるよ。Aが持っていたはずの知識だ」


「知識ぃ?」


 また、証拠と言うには変わったものが出てきた。


「知識ねえ。なにを知ってたはずだって?」


「動物の焼く時の臭い。だね。髪の毛、焼いたことある?」


 玄間が引き出しからハサミを取り出し、自分の髪をわずかに束ね、先端を切った。それを右手の人差し指と親指でつまんだまま、左手でライターに点火。その青い火を髪に当てた。


 ヂリヂリと鳴りながら一気に縮まり、黄色がかった白い煙の筋が立ち上る。すると何とも言えない、濃い硫黄の臭いが立ち込めた。


「くっせえ。窓開けろ」


「開いてるよ?」


 言われてみればそうだった。もしかしたら、最初からこのつもりで開けていたのかもしれない。玄間は焼いた髪を足元のゴミ箱に放り、両方の手で互の指先を払った。


「でも、いい感想だね。そう。毛を焼くと臭いんだよ。肉も臭いは出るけれどね。Aは普段から鹿の死体を焼いていたのだから、異臭が出るなんてことは知っていたはずなのだ。それでいて、まだ他の者がいるうちに焼却炉で焼こうだなんて思うかね?」


「そりゃ、ショーコが無くなるのは早い方がいいだろ。それにそんなもん置くんならさ、換気扇あるだろ。絶対」


「あったよ。強力なのが」


「ほらな?」


「でもね、換気扇の先は外なんだ。臭いは、外に向かって排気されてゆく」


「そりゃそうだろ。それのどこがショーコなんだ?」


「証拠たる理由は、あの館中の窓が開いていたことにある」


 玄間が人差し指で、トンと机を叩いた。


「風向きが複雑な山の途中で、色々な方角へ空気が移動しているのだから、排気した空気も戻ってきて館の中をめぐることになる。それに作業場は、内側から鍵が掛けられない構造になっている。臭いという異常に気付いた他の人が、確認しようと部屋に飛び込んでくる可能性も、Aは考慮するはずだよ。それなら、いったんCの死体をあの部屋に閉じ込めておいて、他の人が帰った後に処理した方がよかったはずだね」


 玄間の追求に、名園は顔までそらせた。


「……あー、思い出したわ。そういやさ、殺した後に窓開けたんだよ」


 名園の言葉がまるで冗談みたいに、玄間は笑った。


「苦しくなってきたね」


「苦しい? 何のことだよ」


 不機嫌そうに、顔をそむけたまま頬杖をついた。それを認めて探偵は、机に肘を乗せ、指を組んで顎に当てた。


「きみの嘘はほとんど暴いたから、そろそろとっておきを出そうと思うよ」


「とっておき?」


「楽しみは、最後まで取って置くものなんだ。とどめの一撃ってやつだよ」


「へぇ。もう最後かよ」


 彼は真上を指さす。


「作業場の焼却炉に点火。二階から一階へ遺体を運んで、両方の太ももを焼却炉に入るサイズを計りつつ切断して、痕跡を残さないように手のぬめり等を洗う。それだけのことをすると時間がかかるんだよ。それに対してAの行動可能な時間はきみに依存している。食事からCを発見するまでの五分と、死体をB殺害三分と、DとEの拘束にかかった二分の合計十分。明らかに足りない」


「おいおい。なんだよ。まるで測ったみてえな言い方だな」


 玄間は深く頷いた。そうして、名園を真っすぐに見据え――。


「――測ったよ。二十二分と、少しだ」


 その言葉の意味が分からず、彼女は固まった。


 そうして、意味が分かった瞬間、逃げるように椅子を倒しながら立ち上がった。


「う、ウソだろお前……」


「嘘じゃない。ちょうどね、二階の奥の部屋にいて、女性の身体。Bさんは本当にちょうどいい死体だったよ。生きていたら、是非ともお礼を言いたかった」


「おいおいおい待てよっ」


「大丈夫。ちゃんと、再現したんだ。作業場の奥にCの服があったからね、それを着せた上での服を脱がせる時間とか、太ももの同じところを切るとか。C殺害の時間をかなり短く一分って見積もって、タイマーを動かした一分後に一階に降りて焼却炉に火をつけ始めるところまで、きちんとね」


「待てって」


「いや、言いたいことは分かるよ。腐っていたせいでね、肉が柔らかかったんだ。でも、その誤差はタイムに有利に働くんだよ。死んだばかりだったら、もっと時間がかかっていたはず。それを考えると――」


「そうじゃねえっ! お、お前正気じゃねえよ!」


 そう言った瞬間、玄間が真顔になった。


「……僕は、正気だ。きみだって細工のためにCを殺し、足を切っただろう。自分だけは正気のつもりか?」


「お前、腐って蝿まみれだったのを脱がせたり抱きあげたりしたのかよ!?」


「とりあえず、座りたまえよ。探偵が話しているだろう」


 探偵の毅然とした声に、名園は口ごもるばかりだった。


 煮え切らない彼女の前で、玄間はゆっくりと立ち上がった。


「座りたまえ」


「だ、だって……」


 探偵はそれ以上、何も言わなかった。ただ、見据えられているだけだ。それなのに、名園は座った。こんなことは初めてだった。


 ――逆らうのが怖いと、そう思ったのは。


 玄間も座り、場の支配者として、また語り始めた。


「それで、この時間についての話で、何か言いたいことはあるかな」


「……ない」


「なら、嘘と認めるね」


「…………」


 言葉なら、いくらでも思い付く。だが、どう誤魔化しても見破られるような、これから嘘をつくことさえ見抜かれているような、異様な感覚があった。


「では、自らが犯人だと認めたまえ」


「…………参っちまうなぁ。こんな面白いことになるなんてさ」


 名園は笑おうとした。だが上手く口元が上がらず、声さえ震えていた。つまらない遊び道具のひとつでしかなかった探偵は、とんでもない化け物だった。彼もまた輪になれない者なのかもしれない。そうだとしても、やはり自分とは違う場所にいる。


 人間でも同類でもない。何とするべき存在なのだろう。強いて言うならば――。


 ――これが、探偵なのか。


「そう、ただの皆殺しだぜ。あーあ。そこまでするとは思わねーじゃんか普通」


「きみは悪くないよ。腕はいいし嘘も上手かった。ただ僕が本物の探偵だったのが、運の尽きだったんだ。探偵は勝つものだからね」


 玄間は姿勢を直しながら「それと動機だけど」と言葉を繋いだ。


「きみが殺し屋で、殺害の容疑を他の人間に移すため、で間違いないね」


 名園はあっけにとられた。そして、吹き出した。


「お前、最後の最後に間違ってんじゃん。ちげーよ。それしかなかったからだよ」


 玄間がぴたりと、静止画にでもなったように止まった。


「退屈って、ほんと拷問なんだぜ。誰かにやられたわけじゃない拷問ってのかな。やればなんでも楽しいけどさ、マジですぐ飽きるんだよ。殺しは長続きしてるけど、最近マンネリでさ。こういうミステリーごっことか、やってみようかなって」


 玄間は俯いて眉間の下あたりをぎゅっと摘まんだ。よほどショックだったらしい。


「殺人の快楽かね?」


「ちげーって。なんだろ、やったことねえことで、ドキドキして、わぁってなるヤツならなんでもいい。殺し限定じゃねえよ」


「スリル、か」


「そう、かな? もし募金が殺しと同じくらいスリルあったら、全財産募金するね。今おれの中で流行ってんのが殺しってだけ」


 玄間はふと時計を見て、時間を確認するなりテレビをつけた。ちょうどニュースの時間だったようで、見出しとニュースキャスターが映った。


『――昨夜五時五分ごろ、住宅が焼ける火事があり、焼け跡から五人が遺体で見つかりました。警視庁は遺体の身元の確認を進めるとともに、自称ホームレスの男を殺人と放火の疑いで逮捕しました。事件があったのは〇県〇市の山中で、警視庁によりますと、四時ごろに身元不明の男が「四人を殺した」などと――』


 どうやら、館ごと焼いて証拠隠滅をしたらしい。


「やることやってんねぇ。ミスったみたいなリアクションだけど、ちゃんと始末しておいて偉いじゃん」


「お気遣いどうも。それで、この後の展開なんだけど」


 玄間はテレビを消し、立ち上がる。そしてまた、窓の枠に座った。


「どうなるかな。全ての真相と、君の殺しを知っている僕は」


「どうもこうも、お前との関係は終わりだよ。もう用もないしな」


「殺すってことかな」


「殺す? おいおい待ってくれよ、殺人鬼だからか? それは差別だぜ。現代人の癖にアレを守らねえのかよ。ほら、あの、パリコレ?」


「ポリコレ、ね。まぁどっちでもいいんだ。探偵は、いつだって勝つんだから」


 探偵は勝つ。さっきから多用しているその言葉が引っかかり、名園はキョロキョロと辺りを見回した。


「あれ、録音?」


「いや。録音も録画も、放送もしてないよ。していたとしても、証拠にならない」


 訳が分からず、名園は物静かに振る舞う彼を見返した。自分がこれからどうなるのか、察しがつくだけの頭はあるはずだ。なぜこんなにも余裕ぶっているのだ。


「なんで殺されるって思うんだ?」


「きみが座った位置は、僕に襲いかかりやすくて、逃げたとしても背中を刺しやすい場所だよね。それに、電話。固定電話さ、繋がってないじゃない」


「へえ。すげえ推理。それ分かってんのに、なんでそんな落ち着いてんの? 殺されるのは怖くない感じ?」


 人殺しが立ち上がった。膝が震えていて、しかしそれを悟られたくないので、デスクに前のめりになって、角へ太ももを強く当てた。


 探偵は、ほんの少しだって動揺しなかった。


「僕は殺されないよ」


「あー、そっちの自信があるってことか。言うねえ」


 いつも通りやればいい。いつも通りに、口を覆いながら刺して、動きを止めて、トドメをさす。頭では分かっているのに、全く行動に移せない。目の前の男はろくに格闘もできないし、凶器を向けられたときの対応すら知らないはず。それなのに、まるで銃を突き付けられているような嫌な気配がしていた。


 無意識が、「こっちから行けば殺される」と言っている。


「犯人の勝ちはいつだって殺すことだ。殺せなければ負け。つまり――――」


 いや、考えるな。勝てないわけがねえだろ。名園が身を低くして、目にも止まらぬ速さで間合いを詰めた。


 しかし。それよりも早く。


 玄間はただ、身を倒した。


「――――探偵の勝ちだ」


 その身が、宙に放り出された。暴れることもなく、放物線を描いて落下する先は、鈍器の中で最も重くて固い、石造りの路面であった。


 鈍い音が窓に届き、名園は唖然とするしかなかった。


 探偵が勝つ。それだけのためにそこまでやるのか。


 ここまでぶっ飛んだヤツが、自分と同じ世界に存在していたのか。


 右手の先、ナイフの切っ先が大きく震えているのに気づく。殺しでさえ慣れ切ってしまったあの感覚――恐怖を、確かに全身で感じていた。


「……へへ。生きてるって感じがするなぁ」


 探偵の虜になってしまった自覚さえなく、犯人はその探偵事務所を後にした。

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