ラブ・インシデント
冬の宵。冷たい暴風に吹かれて家路を歩く。その刺すような冷たさは、コートを通り抜けてくる。夏は暑いスーツでも、冬には頼りがない。うちの課長のようだった。そろそろ変えるべきだろう。
少しふらつき始めるころ、やっとマンションに着き、身体で引いて扉を開けた。
「おかえりなさーいっ」
玄関とキッチンを区切る扉の向こうから声。上がると、キッチンで楽しそうに料理をする笑顔があった。それがこっちにやって来たと思えば、熱い額を俺の額に当ててきた。
「ひゃ~っ。冷たい。寒かったみたいだね」
「そうだな」
そのまま彼女の背後を通り抜け、暖かいリビングへ。ウォークインクローゼット入り、コートを掛け、シワを伸ばし、内側に消臭剤を撒いておく。
「もうすぐできるからね~」
キッチンから明るい声。
「……食器は一人分しかないんだが」
「大丈夫! 実はもう食べちゃいました」
ゆったりした部屋着になり、足元に転がっている彼女の荷物を改める。
着替えは数日分。シャンプーや美容品の類いは揃っている。それと、……コスプレ道具?
「あ! あっ! ダメっ!」
料理を机に置いて、慌てて持っていたものを奪われた。
「……もーエッチなんだから」
「…………」
彼女を無視してテーブルに着くと、まもなく他の皿もやって来た。
肉じゃが。漬物。サラダ。米。
「さあ、どうぞっ。今日は自信作です。なんちゃって」
彼女は対面に座りながら、照れ笑いをした。
「……いただきます」
とりあえず、肉じゃが。よく染みたイモはホクホクで、煮崩れのギリギリ手前まで攻めていた。しょっぱさが染みる。
「どう……?」
「うまい」
「だよねっ。おいもはレシピ見ても難しくって……」
「ところで」
言葉を遮ると、彼女はキョトンとした。
「はい?」
「どうやって入った」
「入るって?」
「この家に。俺が戸締まりを忘れていたか」
「大丈夫だよ? ちゃんと全部のカギ閉めてた。しっかり屋さんなんだね」
「うっかり屋じゃないだけだよ」
「おんなじだよ~。えへへ」
そうだ、と。彼女が立った。
「テレビ見る?」
「見ない」
「え? 見ないのに置いてるの?」
「そうだ」
「でも、じゃあNHKさんにお金だけ払ってるの?」
「そう」
「もったいなくない?」
「客が来たときに、見せる。間を繋ぐのが苦手な相手なら、番組について語らせるか、それを話題にさせてやると相手がリラックスできる。たまにゲームを持ってくる奴もいる」
「あ~……だからテレビの音しないんだ。いつ見てるんだろうって思ってたの」
「そうか。それで、どうやって鍵のかかった部屋に入ったんだ」
彼女は表情を変えない。
「いいじゃないそんなこと」
「確認しないとまたやるだろう」
瞳だけが、大きくぶれた。
「受け入れ……て……くれないの……?」
「受け入れた覚えはないが、拒絶した覚えもない」
「……どっち?」
「警察が来るかどうか、だな。どっちだと思う。来ると思うか?」
彼女はすっくと立ち、クローゼットに入った。そして、上着のポケットからスマホを取り出した。
「……暗証……暗証番号は」
「5217」
「…………」
無表情で画面を操作し続けたと思えば、全身の力を抜いて、ゆっくりとへたれこんだ。
「よ……よかった……。よかったぁ~。もう、ビックリさせないで」
「お前が言うな」
「そーいうドッキリは禁止。嬉しいサプライズとかがいーなー?」
上目遣いでこっちを見てきた。
スマホを机に置いてまた対面に座り、真っすぐに見つめてきた。
「見ていなくていい」
「見てたいの~。モグモグってしてるのかわいい……」
「そうか」
彼女は頬杖をして真っすぐに見てくる。その指先には、包帯が巻いてあった。
「その指。どうした」
「こ、これ? なんでもないよ」
なんでもないことはあるまい。肉じゃがの中を探るが、指の皮らしいものは発見されなかった。
となると……指紋を残さないため、か。
「……しっかり屋さんだな」
「そうかな。そっか……んふふ……」
一日だけと思ったが、都合のいい家政婦は欲しい。
……まあ、いいか。
ひと月。ひと月だ。上手くいってる。上手くやれてる。
好川さんと過ご――なんだか印象に残ってる、あの日常からひと月。
家の前で止まった革靴の音に、胸がさっと温かくなった。鍵を開ける音。それからドアノブが引かれるまでの間隔。一瞬だけ変わる気圧と、流れ込む冷気。
「ただいま」
「おかえりなさーい!」
そう言った時、なんだか喉が痛かった。
いけない。ちょっと疲れている気はしていたけど、風邪だったら大変だ。
いつもなら後ろを素通りする好川さんが、冷蔵庫を見てじっと立っていた。
「どうしたの?」
「いま作っているのは、鍋だな」
「うん……そういう気分じゃなかった……?」
「いや……」
彼は冷蔵庫を開けて改める。
「その土鍋もそうだが、この食材はどこから湧いているんだ?」
「え? ……買ってるの、もちろん。仕送りとかじゃないよ?」
「誰の金で」
「わた――」
あれ。ちがう。わたしと好川さんは一緒に貯金してるの。おうちのお金をシェアして、一緒に暮らしている。
「――おうちのお金だよ?」
彼はリビングに行って、机の引き出しを開けた。中から通帳を取り出してじっと見ている。
「……好川さん?」
「いつからだ」
「え?」
「お家のお金とやらは、いつから使ってる?」
「ずっと……」
「そのずっとは、いつからだ」
「え? え?」
「一月前か」
「ひと月……? もっと前から……」
「言ってみろ」
好川さんと付き合い始めたのはずっと前で、ふたりの口座はそれより後じゃなくちゃいけなくて、ひと月前は――なんでもない日で。でもなんで好川さんの口から出たのかな。記念日。記念日だったんだ。だから……。
彼は黙って、数字を見ていた。
わたしは違くないのに。なにが違うんだろう。違うわけがないのに。全部ちゃんと、違くないのに。でも、好川さんはなんで通帳を見て……。
……あれ。
なんか……。
「……どうした」
うまくたてない――。
――。
――あ。
横向きの風景だった。倒れたんだ。心配させちゃダメ。
慌てて起き上がろうとしたら、彼に止められてしまった。
大丈夫と言おうとしたとき、大きな手が、そっとわたしの額に触れた。
「……熱いな。無理をしたな」
「む、無理なんて……」
「家事だけかと思ったら、ちゃんと仕事もしていたのか。体調も悪くなる」
腕を引かれ、テーブルに座らされた。同時にお夕飯の存在を思い出して立ち上がる。
「お鍋……もうできてるよ?」
「自分でやる。座ってろ」
「あ……うん」
うっとうしいかな、甘やかしすぎちゃうと。
ちょっと、悲しい。頑張るつもりだったのに、足を引っ張っちゃった。あんまり……上手くできてなかったのかな。
……。
…………。
なんだか、長い。どうしたんだろう。準備にしては……。
そう思っていたら、鍋がやってきた。なぜかスプーンも一本つけている。
その中身は、具材が無くなって、とろりとしたおかゆになっていた。
彼はキッチンに戻り、別の小さな鍋を持ってきた。中には具材がぎっちりと詰まっている。
「出汁が多少濃いくらいなら、問題はないだろ」
「……」
彼は食材にポン酢を回しかけて、自分の分を食べ始めた。
なにか言うべきだと思ったけど、頭がぐるぐるして、よく分からなかった。とりあえずスプーンを取った。
ひと口食べる。
「ん……うん……」
無骨な混ぜ方も。混ざり切ってなくてムラがある塩気も。ぜんぶ。
「おいしいよぉ……」
分からないまま涙が出てきた。ずっとなにも分からない。
だけどとりあえず今は、なんにも考えないでいいか……。
「好川おまえ、正気か?」
隣のデスクで同僚が、いつものだらけて座る姿勢ではなく、身体を強張らせて身を乗り出して来ていた。
いつもの残業メンバーだ。自分と彼のふたり。彼は買いたいものがあってわざとゆっくり仕事をしているらしい。
自分は、家も仕事場も居たいと思う居場所ではないから、金になる方を選んで残っていた。
「そいつは……、そいつとは、どれくらいだ?」
「二か月」
「ウソだろ。ベッドは」
「相手がいったん帰るんだ。朝は一緒に起きた設定だけどな」
「意味が分からない……。そんな異常者と二か月も?」
「便利だ。家事をやっておいてくれる」
「便利って。いつ殺されるか分かったもんじゃないだろ」
「相手の設定を守ってればいい。家族ごっこはそんなに難しいものじゃない」
「……まあそういうもんか。どうせみんな家族ごっこだしな。というかさぁ警察……ああそうか。その調子じゃ通報してねえか」
彼は腕を組んで考えた。
「通報するぞって、脅してみたらどうだよ?」
「脅してどうする」
「いや……」
彼の顔が、僅かに強張った。
「……今日行ってもいいか?」
「ベッドはないぞ。この時間じゃ電車もないだろう。送る気もないぞ」
「ほら、興味がさ。ちょっと見て帰るだけだよ。自分で帰るからさ」
「分かった分かった。上がろう」
荷物を持ち、いつも通りに消灯して部屋を出た。
ふたりで帰路を行き、駐車場に車を止めた。
「家はこの辺なのか」
「ここから五分歩く」
「五分? この駐車場はマンションのだよな?」
「社宅の弊害だ」
まだまだ冷たい風を切り、二つの信号の先、いつもの路地の入口に入る。
そうして、冷たいドアノブを引いた。
「おかえりなさーい……誰ですか~?」
思わず彼と顔を見合わせた。
扉を開けただけで、自分以外の気配を感じたらしい。彼は気味悪そうに顔を振った。
「同僚だよ。ちょっと家を見たかったそうだ」
「そうなんだ。ごめんなさい、ご飯とかは好川の分だけで……」
そう言うと、彼は手を振った。
「いやぁいいんですよ。近くのね、カラオケに行くついで。好川の家って見たことないから――」
彼の話し声を背後に、いつも通りウォークインクローゼットに入る。
「いやぁ、いいお宅ですね」
「そうですよねぇ。好川さんのセンスってやっぱり素敵です」
コートを掛け、シワを伸ばす。
「そういえばですね……」
コートの内側に消臭剤。
…………。
…………話し声が止んだ?
クローゼットから出て、キッチンの扉を開けた。
刃が赤くなった包丁と、彼女の震える目と、倒れた身体があった。
「……あ。好川さん」
「…………」
「ごはん、もうすぐ、あ、血が、あれ、違うの」
「…………」
彼女はうつむいて、死体を見た。どんな嘘だろうと、証拠が目の前にある。
「脅して……きたから。脅すなんていけないよね。いいよね。悪くないよね?」
「……手続きは嫌いなんだ。病院も、警察も」
そう言うと、彼女はあっけにとられた顔をした。
「死体が出たせいで、警察の捜査は確実だろう。容疑が晴れるまで働けもしない」
彼女の目から、涙が零れた。そして、微笑んだ。
「……せき、にん。とります」
包丁の刃を自分に向ける。包丁を血が伝い、柄にたどり着く。
「死体の処理を一人でさせる気か。まずは包丁を下せ」
彼女の手が止まり、素直に刃を下に向けた。
「それでいい。指に血が付いたら厄介だ。死体の上に乗せろ。エプロンをよこせ、ビニール袋も」
彼女は不思議そうな顔をしながらも、従ってくれた。
ビニール袋を死体の横へ、畳んだエプロンを上に重ね、更にその上に死体を転がして横向きにし、手足を折りたたんだ。
「……好川さん?」
「返り血のついたエプロンならもういらないだろう」
「いや……」
床下収納の蓋を取り、中の容器も外す。その下の埃をかぶったポリ袋を取り出す。袋の中には、大容量のポリ袋と、シャベル、消臭剤、アルコール、小さな箒、マッチ等が入ったバッグ。
「死後硬直がある程度進んだら、このポリ袋に移して、キャリーケースに入れていく。山での作業だが、不用意に座ったりするな。汚していいのは靴だけだ」
言いながら、もう一つ、ポリ袋を取り出した。袋から紐の付いたゴムの長いシートを取り出す。
「そ、それは……?」
「タイヤの痕跡を偽装できる。こっちはフェイクのナンバープレートだ」
見せる。だが彼女は黙っている。
「安心しろ。難しいことは頼まない。まずは車を取ってくるだけでいい」
キーを差し出す。彼女は、動かなかった。
「…………知らない」
ただぽつりと、呟いた。
「何がだ」
「私は、好川さんの、全部を知ってるの。全部」
「お前の目の前にいるのは、お前が作ったキャラクターじゃあない。お前の知らないことは山のようにある。お前を受け入れたが、これ以上は『好川さん』を演じてやる気はない。いい加減に知らないことだらけの生活をする覚悟をしたらどうだ」
「…………」
立ち上がって、彼女に顔を近づけた。
「――お前が好きなのは、俺か、好川さんか、どっちだ」
彼女は赤い瞼で、俺を見上げた。
「私は……」
その目をゆっくりと閉じて、そっと口づけをしてきた。
「……私は、あなたが好き」
そして。
車のキーを取った。
「私の知らないこと、ぜんぶ教えてね?」
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