聖地の怪物

 神は仰った。


 明日の今。北へ祈れ。

 北の空へ、北の星へ。

 輝きをただ見据えろ。

 信じる者は救われる。

 信じぬ世界は滅びる。


 そして世界は、そのようになった。




 闇を切り裂く懐中電灯の光。それを潜水ヘルメットの狭い視野越しに見ていた。息をするたびに冷たい空気が顔を冷やしながら肺へ流れこんでくる。嫌な感じだった。


 歩くたび、スーツの中でだけ響く足音。目の前では同じ鋼鉄とゴムのダイバースーツに身を包んだ人の背中から、呼吸のリズム放たれる白いガス。あれは空気で、ここは真空だ。


 少しライトを逸らすと、洞窟のボコボコとした壁があった。かつてはこういうところにも昆虫といった生物が這っていたのだと町の老人は主張する。


 本当だかな。


 前の鋼鉄ヘルメットが、ライトをチカチカと明滅させた。その合図で立ち止まる。こっちへ振り返り、手話を始めた。


『ここの 先が 神さまの 住む場所。 ご無礼の 無いように』


『了解』


 ご無礼とは言うが、要するに彼と同じように振る舞っていればいいらしい。ハタチのエッケンだかギシキだか知らないが、大人はみんな「大したことないから肩の力を抜いて」などと言う。そう言うならば、大したこと無いのだろう。


 更に奥へ行き、洞窟が開けた。その奥には洞窟の岩とは程遠い色の、真っ白な壁があった。それはまるで他の土色の壁を侵食するように、壁のあらゆる方角へ細く長い触手を伸ばしていた。


 目前のダイバースーツがそれに向いて跪いたので、慌てて真似をした。


 これが神? この白い岩が? なにかオレは……見逃しているのか?


 じっと、白い岩を見た。すると岩に、星のように輝く文字が浮かんだ。見たことのない文字だった。


 それだけでも訳が分からないというのに、なぜか読める。読み書きができないはずなのに。


 どうなっているんだ。どうなるんだ。


『よく来た、人の子。いい顔をしている』


「は、はい。あの……」


 声を出してから、音が届かないことを思い出した。


 これは……どうすればいいんだろう。前のヘルメットは微動だにしない。


『よろしい。大人になるがよい。精進したまえ。全ては人のため』


 文字が、ふっと消えた。同時にスーツが立ち上がった。オレも続いて立つ。


 振り返った彼は、笑顔だった。


『認められました よかったですネ』


 ……あれで終わりなのか。本当に大したことなかったな……。




「成人おめでとう。サヌキ」


 テーブル越しに幼馴染の眼鏡――コレニアが微笑んだ。聞き飽きたセリフだが、彼の言葉には心がこもっているように感じた。


「もうじき、お仕事だね」


「なにがお仕事、だ。面倒くせえなあ」


 聞くに、あの洞窟に出入りして鉱物を採取してきたり、石屋が満足する硬い石を持って帰る肉体労働らしい。


「嫌いなんだよ、あの冷たいの」


「冷たい……? ああ、冷却酸素ボンベ? あれは真空中で熱を放出できず、スーツ中で熱中症が起こらないようにするためには必要な……」


「はいはい。じゅーよー、ね。お前はいいよなぁ。男のくせに楽できてよ」


 コレニアはとにかく頭がよく、サヌキが話し始めるころには読み書きができるようになっていたし、サヌキができることはコレニアにもできた。唯一、力仕事を除いては。


「身体は楽でも頭が楽じゃないよ。それに、サヌキがいないと不安だし。……ねぇ、行かないでよ。お得意の仮病、使って?」


「まだ守られようとしてんのか」


 頭が良すぎるゆえか、コレニアは痛みの分からない人たちによく目を付けられた。それに対してサヌキは頭が悪い代わりにめっぽう強い。サヌキの涙を知る者はいないほどだ。それがコレニアが虐められる現場を見るや否や、気に入らないという理由だけで、持ち前の腕っぷしとえげつないほどに強い喧嘩術で軒並み倒してしまった。


 それ以来、サヌキとコレニアはニコイチになった。片方がいなければ、もう片方がいないねと言われるほどだった。


「オレより年上のくせに、いつまでナヨナヨしてんだ。ちょっとは鍛えろ」


「サヌキだって、いつになったら読み書きできるようになるの?」


「……『クタバレ クソヤロウ』書けるし」


 いつだったか、コレニアに字を習おうとした。その結果がこの一文だった。サヌキに読み書きは無理だと全員が悟った瞬間だった。


「それだけじゃん」


「うるせえな。あ、そうだオレ、あの文字は読めたぞ。カミサマの」


「え。本当?」


 コレニアが身を乗り出し、顔がくっつかんほどに寄った。


「読めたの?」


「ち、近えよ。読めたっつってんだろ。なんだっけな。顔が良いって言われた」


「そっか。ってことは、文字を読めるか否かは関係ないんだね。でもそれなら、なんで文字の形態をとる必要があるんだろう? 単純に情報を伝達してしまう方が効率的なはずなのに……」


「なに言ってんのかよく分からん。センモンヨーゴなしで」


「専門用語使ってないよぉ」


 コレニアがクスクスと笑って、その息がサヌキの顔をくすぐった。なんとも言えない気持ちだった。少し顔が熱い。


「……で、あのカミサマってのは何なんだ」


「お! ついに興味が出たね? じゃあ図書館!」


 嬉しそうな顔が席を立った。それに続く。


 レールを金属と石とが積まれたトロッコが分別されながら往来する街道、石畳の地面を蹴って歩く。サヌキもコレニアも慣れた足取りで、人とトロッコとを泳ぐように避けては合流する。


「そもそも神さまは、人類を滅びから救ってくれた存在なんだ」


「んなことはみんな言ってる。でも、なんで救ったんだ」


「神さまってそういうものでしょ? 人間を作ったんだし、絶滅するのはかわいそうだ、って」


「それがよく分かんねえんだよなぁ。カミサマはなんだって出来るんだろ。じゃあなんで滅ぼそうとしたんだよ」


「滅ぼそうとしたのは神さまじゃなくて怪物・・、だよ」


 コレニアが急に進行方向を変えたかと思えば、サヌキの手を取って『絶壁橋』へ。


 その名の通り、絶壁の谷に掛かる下りの橋で、聖なる地と呼ばれたひときわ高いここと、死の地と呼ばれた向こうとを繋いでいた。見晴らしがよく、大地と、地形と山と、地平線が見える。昔は人が住んでいたという町の死骸も。


「あれ」


 コレニアが、夕日に照らされた山の方を指さした。


「どれ」


「一番高い山の、二つくらい隣にある、すっごい丸いの」


「ああ。あれが?」


「あれが怪物」


「……あれが?」


 行ったこともない土地の、高さも知れない山に並ぶ、巨大な影。大きさが全く想像できなかった。


「あれはどれぐらいだ」


「この町より大きいよ」


「でかいな」


 とは言ったものの、やはりよく分からなかった。大きい感じだけはする。


「巨大な丸い頭で、大半が口。それで体が紐のように長細いから、大きな眼球ってよく言われてる。でね、視神経に当たるところから腕が生えてるんだけど、大きさや形が人とおんなじなんだって。長さだけはあっちの方が断然長いけれど」


「それが人を殺したって?」


「んー。殺すというか、眠らせちゃうっていうか。あれがこう、食べる動作をすると眠っちゃうんだって。起きなくなっちゃうから、どっちみち何も食べられなくて死んじゃうみたいだけど」


「食べられると眠る? よく分からんねえ。で、今はあいつが寝てるのか」


「よく分かったね。もしかして知ってた?」


 期待の顔が覗いてくる。それがどんなものであれ、その期待に応えることはできないのだが。


「言ってみただけだ」


「そっか。まあ、言ってくれた通りあれは死んでるじゃなくて、眠っちゃってる。神さまが眠らせたんだって」


「ホントか? なんかに食われたんじゃねえの」


「え? そんなの……」


 ありえないと言いかけた口が、ふにゃりとした形で止まった。サヌキがそれを笑う。


 いつもは言い返すコレニアだが、その真剣な顔は変わらない。


「……うーん。今はなんとも言えないや。早く図書館行こっ」


 半ば走る速足を追う。


 レール地帯を抜けて、手すりすらいやに荘厳な階段を上がり、ひどく大きな館内へ。


「こんにちは!」


 入口を入ってすぐの司書へコレニアが挨拶を飛ばす。おばさんは挨拶を返して、意外そうな目をサヌキへ向けた。


「あれ、中までなんて珍しい」


「……入っちゃ悪いかよ」


「騒がなきゃ悪くないよ。好きな本を読みな」


「読めねえよ」


 おばさんの微笑みを尻目に、カウンター前を抜けた。広々とした中には机と、本の詰まった棚しかない。


 退屈な場所だな。こんなところでお前、なんで楽しそうなんだよ。そわそわとしたコレニアを見てそんなことを思った。


 先導は奥まで続き、一番奥のテーブルで開きっぱなしで放置されていた本の席に座った。


 分厚い本だ。杭打ちくらいにはなるだろう。


「お前んちは物をしまえって言われないのか」


「言われたこと無いよ。仕舞ってるもの」


「出しっぱなしだろ。それ」


「これ? インクが乾くの待ってたの」


 コレニアは細い指をそっと乗せ、跡が残っていないことを認めて微笑んだ。


 ……これ、こいつが書いたのか。こんなに? なんでこんなもの書いてるんだろう。


「えっと、これは神さまが登場してからの62年間の記録をまとめたものなんだ。おじいちゃんおばあちゃんの話でもいいけれど、分かりやすくまとめた本が欲しいって思って。それで、えーっと……」


 ぺらりぺらりとめくった先に、挿絵のあるページにたどり着いた。


 驚くほど四角い建物が並ぶ道と、そこを縫うように細い体を伸ばした巨大すぎる口を持つ怪物が、小さな人を小さな手で持っている。ひどく、恐ろし気な絵だった。


「絵、うまいな」


「そ、そう? えへへ……」


 照れ笑いに釣られて緩みかけた頬を、きゅっと戻した。


「で?」


「あ。えっとね。これが……っていうか、ちゃんと歴史を説明しないとね。まず、最初は人が地球の色んなところに住んでたの」


「チキュウ?」


 小さいころ、親が言ってた気がする。コレニアは下を指さした。


「要するにここ。この地上のこと。それで、最初に預言があったんだって。神さまの言葉ね。『明日の今。北へ祈れ。北の空へ、北の星へ。輝きをただ見据えろ。信じる者は救われる。信じぬ世界は滅びる』って」


「あ。それは聞いたことがある。爺のうわごと」


「そういうこと言わないの。それで次の日に、北の空が光ったんだって。それがみんなの言う『聖なる光』。それから同じ日に、怪物がやってきた」


 細指が、挿絵を指した。


「ちょうどそのとき、『ごはん病』っていうのが流行ってたっていうんだけど」


「ごはん病? ごはん食べる病気か?」


「それただの健康……。この病気はよく分かんないの。みんな言ってることがバラバラだから、あいまいで……」


「ふぅん。でも、こんなことが本当にあったのか? たった50だか60年前に?」


「あったんだよ。おじいちゃんおばあちゃんたちが言ってたでしょ?」


「こんななんて思ってなかった」


「……まあ。この絵は想像で書いたんだけど……」


「なんだ、想像かよ」


 コレニアがむすっとした。


「だってしょうがないじゃん。この辺の記録が本として残ってないの。当時は記録をインターネットっていうので保管してたみたいなんだけど……」


「じゃあその、インターレットを探せばいい。その……なんだ。箱かなんかか?」


「インターネット。箱型の機械だよ。物凄い量の情報を保存できるみたいで、この図書館くらいの情報は余裕で入るって」


「箱にぃ?」


「箱に。ふふん。当時はスマートフォンっていう、このくらいの大きさの板に同じだけの量が入ったんだって」


 手で持つ振りをした。サヌキは呆れた顔をした。


「お前のくせに嘘が下手だな」


「嘘じゃないもん!」


 珍しく大声を上げ、図書館をめぐって戻ってきた自分の声を聴き、顔を真っ赤にして座った。


「も、もう……叫んじゃったじゃん……」


「とにかくそれがありゃいいんだろ? どこにあんだ?」


「本の文脈から察するに、日常的に使われていたみたい。外の町のどこにでもあると思うけど……」


「絶壁橋から見えたところだな。行くか」


 サヌキが立つのを、コレニアが止めた。


「ま、待ってよ。本当に? でも、外に出たらダメだって……」


「行かないのか?」


 眼鏡の奥の目が迷う。やれやれとサヌキが、コレニアの手を取った。


「ルールを守るのは楽しいか? ま、友だちが悪かったな」


「わぁっ。ちょっと……。心の準備くらいさせてぇ……!」




「――――さて。で?」


 夜の聖地。死の地から戻った二人は橋を登り切り、サヌキはインターネットらしき箱と、脆い面を持つ額縁をいったん置く。コレニアは大量のよく分からない線を担いぎ、その他の物を大量に入れた袋を抱えたまま、慌てたようにあたりを見回した。


「ダメダメ止まんないで! こ、ここにいたら……!」


「コラッ!」


 やってきた大人の怒号に、コレニアが訳も分からず「ごめんなさぁい!」と叫び返した。


「お前ら、外に行ってたのか!」


「あれ、オレなにか悪いことでもしたっけ?」


 サヌキは全く悪びれることもなく、やってきた大人の目を真っすぐ見た。


「悪いに決まってるだろ! お前ひとりで行くならまだしも、コレニアを連れ出すなんて何を考えてるんだ! なにかあったらどうする!」


「だってこいつがイントラセンターとかいう面白いもんを知っているっていうからさぁ」


「インターネットだよ……」


 男は拳を握ってサヌキへ詰め寄った。


「お前がどうなったって知らないが、死んだら親が悲しむってどうして分からないんだお前! お前を心配するのは親だけなんだぞッ!」


「……あ、あの!」


 男とサヌキのわずかな隙間に、コレニアが入り込む。


「ほ、ホントはボクが誘ったんです」


「コレニアが? でも……かばうことなんかないんだぞ?」


「かばってなんかないです。インターネットは数少ない過去との接点です。滅亡の日の謎が、きっと分かると思って」


 男はサヌキの顔を見た。ばつの悪そうな顔が舌打ちをしたのを認めて、男の勢いは急激に衰えた。


「そ、そうか。だったらちゃんと大人に言うんだぞ。みんなで探検隊でも組めたのに……」


「ごめんなさい……」


 そうして男は「言わなくても分かると思うが、もうしないようにな」と立ち去った。


「ねぇ。サヌキ」


「なんだよ……」


「いつも、かばってくれてありがとね。でもボクだって、サヌキのことかばいたいの」


「勝手にしろよ。これ、どこに持ってく」


 サヌキは箱をトンと蹴って、露骨に話題を逸らした。


「あー蹴っちゃダメだって……えっと、とりあえずウエタン・・・・に行こ?」


 二人はインターネットと呼んだ一式を持って、トロッコの走らない上りレールを辿っていく。辿りついたのはレールの始まり。作業員長のおじさんが片付けているところだった。


「こんばんわー」


「やぁコレニア。こんな夜に図書館から降りてくるなんて珍しい。そりゃなんだ?」


「ワン……」


「インターネットです」


 先手で訂正された。ちょっと気に食わない。


「昔の人の記録がきっと、この箱の中に入ってると思うんです」


「へぇ! ここに持って来たってことは、電気で?」


「はい! 電気で動くはずです!」


「じゃあデンキ回そう。面白そうじゃないか」


 おじさんが発電機を始動させた。


「とりあえずまだブレーカーは入れないでおくが……そういえば、トロッコを動かせるパワーをその箱が食うのかい?」


「ボクもピンと来てないですけど、100ボルト50ヘルツ規格なら動かせるはずです。この町が作られたころに使われた発電機の規格なんですけど、その発電機を真似て同じように作られたはずなので、そのインターネットを動かせると思います」


「同じ時代を生きた技術が巡り巡って、ねぇ。ロマンじゃあないか。あ、だったらうちの爺を連れてくるよ」


 おじさんが小走りで去っていく。コレニアは配線に夢中になって、返事すら忘れていた。


 端子を刺す作業だが、形の合うものを選ぶパズルのようで、サヌキもかろうじて手伝えた。


「……で、これがHDMIケーブルで……と、コンセント」


「刺す穴がないぞ。そのコンセット」


「コンセントね。ここから電気を取るみたいだからね……。えっと、この先端をどうにかして切れないかな……」


「分かった」


 サヌキが手に取って、ねじるなり頭を引きちぎった。箱と板の二つ分。


「すっご……」


「だろ」


「おぉ……おぉお……!」


 得意げなサヌキの後ろから、震える声。おじさんに連れられて老人が一人やってきた。


「これは……懐かしい……」


「あ。こんばんわです。トライトおじいちゃん」


「つかえるか。これは」


「多分ですけど……。サヌキ、この線の金属んとこ、片っぽずつ左右のレールにつないで?」


「はいはい……」


 コンセントの線を引き割って、レールにくっつけて石で固定した。


「じゃあ、ブレーカーをお願いします」


「ああ……!」


 おじさんがブレーカーの前に立つ。


 ガシャッ。


 レバーが下がって、電気が通った。しかしなにも起こらない。


「あ、あれぇ……?」


「古すぎたんだろ」


「さっきサヌキが蹴ったからだよぉ!」


「あれで壊れるわけねえだろ!」


「押せ。ここ」


 老トライトが、箱のスイッチを押す。


 パツッ。 ウィーンン……。スイッチの周辺が明るく光る。


「わぁっ! やった! 動いたよ!」


「んで押せ、スクリーンのここ」


 皺の深い指が、スクリーンと呼ばれた額縁横のスイッチを押した。パッ、と画面が明るくなる。


「光った! 絵が出た! 書いてた通り!」


「ほっほっほほほ……」


 特技を見せた祖父のような微笑みで、はしゃぐ孫のようなコレニアを見つめた。袋から取り出された物品をあさり、機械に繋いで操作を始める。


「ほぉ、ロックがかかってない。不用心な奴」


 しばらく、操作が続く。ウィンドウを開けたりフォルダを開いたり。そうした画面の推移を理解できているのは、この場ではトライトだけだった。


「どうですか?」


「……ふぅむ。ただのビジネス用だの。台帳とか、そういうもんだと考えればええ」


「そうですか……それでも、貴重な情報ですっ」


「ふむ、それは? そのスマホ」


 眠ったような目が見たのは、板だった。ガラスは砕け、使えるようには見えない。


「スマホ……スマートフォンの略ですね? これは、どうしても動かなくて……」


「貸せ、それ」


 老人はしみじみと受け取って、慣れたようにカードを取り出し、袋の発掘品からカードにピッタリ合う型を取り出した。そして機械箱に差しこむ。


「エスジーカードっちゅうもんじゃ。これは」


「SDカード! 想像よりずっと小さいですね!」


 ポンポロリンと鳴って、枠が飛び出た。


「残っとるぞ、記録が」


「ほんとですか!」


 老人が、一枚の画像を開く。夜景と、微笑む女性と、輝く街があった。


「恋人かなんかの写真じゃな。持ち主んの」


「なんだあそこ。ギラギラしてる」


 サヌキが画面できらめく街を指さす。


「街だよ。ボクたちがさっき行った場所みたいな」


「……これが、あの怪物に?」


 あれが、死の街になったのか。余りにもかけ離れた見た目にサヌキは唖然とした。今更になってあの怪物の恐ろしさが、じわりじわりと忍び寄ってくる。


「……あれ?」


 写真をじっと見ていたコレニアが、疑問符を浮かべた。


「なんかおかしいか?」


「うん。この星の配置は北の空なんだけど、ないはずの星があるの」


 眼鏡が振り返って、北の空を見た。


「やっぱりない。ってことは、もしかして……!」


「どの星だか分からねえよ」


「北極星だよ! 滅亡の日より前にはあったんだ!」


 すると、爺がほとんど閉じた目を見開いて、北の空を見た。


「……北極星が、なくなった……?」


「そうなんです、お爺さん。本には載ってて、だけど空にはないから、ずっと昔にあったころの名残なのかなって思ってたんです。でも、無くなったのはきっと滅亡の日です!」


 老人が唸って、唸って、やっと言葉をひねり出す。


「あの日輝いたのも……星じゃった……」


「え? ってことは、その輝きは恒星の爆発なんですか!?」


「……あ。わ……あぁ……!」


 トライトが、何かに気付いた。


 まるで目の前に何かが迫っているような、純粋な恐怖だった。


「あれ……あれは『目』……か……」


「じいちゃん?」


 おじさんも、その尋常ではない気配に思わずトライトの手を取った。その手はあっさり振り払われた。


「目だ! 目だったんだ! ずっと見ていた! 星じゃあない! 星じゃあないあれはッ!!」


「じいちゃん! 落ち着いて! おれを見て! じいちゃんっ!」


 咳こんでも身体をぶつけても構わず無茶苦茶に叫び、暴れまわる老人を、孫が抑えながら連れていく。


 その壮絶な光景に、サヌキもコレニアも唖然とすることしかできなかった。


「ど、どうしたんだよ、あのジジイ」


「わかん……ない」


 コレニアは上を見上げた。夜の星々が輝いている。


「……星じゃない? 目……?」


「ボケておかしくなったんだろ」


「ち、違うよ、きっと。きっと……星から来た……じゃなくて、星が来たってこと……? う~ん?」


「それよりよ」


 サヌキがスクリーンを指さす。


「これなんだ? マークが違う」


「これ? これは……」


 コレニアがトライトの見よう見まねで、マークの違う文字列に矢印を合わせ、スイッチをカチカチと二度押した。


 飛び出た枠には、動く絵。スクリーンから音も出ている。


「わぁ!?」


「す、すっげぇ! 動いてる!」


「映像だよ! あのスマホの機能なんだ! すっごいよこれ……は……?」


『はぁ……はぁ……クソ! クソ!』


 驚きと興奮に満ちた表情も、動画撮影者のおかしな様子に消えていった。


「なにを……」


 しているんだ。サヌキが言おうとした瞬間、撮影場所がサヌキたちがスマホを拾った場所だと気付いた。


 絵がブレながら窓の外を捉える、そして目を疑う光景が映し出された。


 怪物だ。あの町の真ん中に、太陽の光に照らされながら闇のように黒い怪物が、巨大すぎる歯をガチガチと鳴らしていた。まるで、見えない何かを咀嚼しているようだった。


「う……ごいて……」


 サヌキは、うまく言葉が出なかった。コレニアなど少しも声が出ないでいる。


 怪物の口が、がばっと開く。


 中では、無数の人がうごめいていた。違う。形こそ人だが、それは怪物と一体化し、怪物の一部になった真っ黒な器官・・だった。


「ひぃいっ!」


 コレニアが尻もちをついて腰を抜かしてしまった。サヌキはただ、映像の行く末を見続けている。


 器官たちが、一斉にこっちを見た。


『あ……くる……来るな! やめ――』


 突如として現れた大量の腕が窓の外から流れ込んできて画面を埋めつくす。映像がグルグルと回って、天井を映した。


 それからは、静かになってしまった。時折聞こえる悲鳴と、怪物が動いたと思われる音ばかりだ。

 すっきりしないような、ほっとしたような……。


 後ろから、ぎゅっと抱き着かれた。ドキリとして背後を見ると、涙目のコレニアがサヌキの身体を杖に、かろうじて立ち上がっていたところだった。


「ま、まって。戻してほしいの。どうにか、できない?」


「どうにかったって……」


「そ、操作するから、立たせて」


「腰が抜けたのか」


「言わないでよ……」


 コレニアを後ろから抱き支え、機械を操作させてやる。初めて抱いたコレニアの身体は驚くほど軽く、サヌキは妙に動揺してしまった。


 少し操作して、どうにか食われる瞬間の時点に戻る。


「……やっぱり」


「なにが」


「この人たちの目、一斉にこっちを見てるの。誰か一人が気付いたから、とかじゃなくて」


「それは……変だな」


 仮にあの全てが怪物の目だとすれば、視認してから捉えるという順序があるはずだった。しかし、そうではない。


「…………匂いじゃねえか?」


「匂い?」


「飯のにおいがしたら、誰だって見るだろ。うまそうだなって」


「匂い……でも、それなら人類は全滅してもおかしくないんじゃ?」


「なんでだよ」


「だって、見えない場所に隠れていても助かる訳じゃないってことだよ? あんな大きな身体で、小さな人ひとりの匂いが分かっちゃうんだよ? 誰一人隠れられる気がしないけど……」


「それは……なんかこいつがうまそうな匂いしてたんじゃねえの?」


「そんな都合よく?」


 話が平行線になって来た。二人してうんうん唸って、とりあえず他のを見よう、と映像の枠を閉じた。


 ふっと枠が消えた途端、コレニアがまた何かに気付いた。細指が、動画のファイルを指す。


「これ、みて」


「こ、今度は何だ」


「記録の日付なんだと思うんだけど、ほら、時間」


「読めねぇよ」


「あ。そっか。えっと、たぶんだけど四月十六日の十四時なんだよ。それで……」


 指す指が、一つ下にずれた。


「この写真。同じ日の、十三時なの」


「一時間前ってことか。開いてみようぜ」


「うん」


 カチカチ。写真が、呼び出された。


「……え?」


「……は?」


 ふたりが、絶句した。


 恐らく、あのスマートフォンの持ち主と思われる腕が写っている。


 そして腕に、まるで落書きのように『ごはん』という文字が浮かんでいた。


 しかし二人が釘付けになっているのは、書いてある内容ではなく、その文字・・・・だ。


「こ、これって」


 覚えのある、星のような輝き。


「――これ、カミサマの文字じゃねえか」


「で、でも、でもさ、たぶんこれがごはん病、だよね? そう書いてるし」


「匂いだ」


「え」


 サヌキがコレニアの肩越しに首を出して、彼の顔を見つめた。


「これが、あの怪物が嗅いだ匂いなんじゃねえか。ごはん病って、そういうことだろ。そいつがごはんになる病気なんじゃねえのか」


「そ、そんな。それじゃだって、ごはん病にならなかった人だけが、生き残ったってこと? あ、滅亡の日に祈らなかった人がごはん病になっちゃったんだ!」


「……あ。ちげぇよ。お前言ってたじゃねえか。カミサマが北向けって言ってたって。あの光が見たやつがそのビョーキになるんだ。それで……」


「でもそれじゃ、信じた人たちが食べられちゃうじゃん。逆だよ。祈らなかった人たちが、光を見なかった人たちが発症しなきゃ。ほら、おじいちゃんおばあちゃんたちはみんな、光を見たって言ってたよ?」


「……そう、だな」


 真っ当すぎる反論に、サヌキは口を閉じざるを得なかった。やはり論では敵わない。


「……ああもう。カミサマに聞くしかないんじゃねえの?」


「う~ん……。もー、わけわかんないよ……」


 コレニアは本当に参ったようだった。その必死に考える横顔を、サヌキはじっと見つめていた。こいつのこんな様子は初めて見る。


 不意に抱きしめる手の甲を、きゅっと握られた。


「……サヌキの手、意外とすべすべだね」


「な、なんだよ急に」


「なんとなく……」


「……」


「……」


「……あのさ」


「どうした?」


「もう、ひとりで立てるよ?」


「……じゃあ早く言えよ!」


 少し乱暴に腕を解いた。訳が分からないほど顔が熱い。


「ごめんごめん。サヌキにぎゅってされるの、ちょっと好きかも」


「うるせえな。続きは明日。でいいだろ」


 コレニアはうなずいた。


「うん。また明日、サヌキ」


「また明日な。……」


 名を呼んでみようと思ったが、その前にコレニアは行ってしまった。


「はーあ」


 ……なんだよ、あいつ。ちょっとくらい待てよ。




「き……サヌキ!」


 深い眠りが、親の声でかき乱されてあっさり消えた。


「んだよ……」


「アンタ何やったの!?」


 あのジジイのことだ。ああ。どうせ俺のせいなんだろ。勝手に言ってろ。


コレニア ・・・・君が消えたって!」


 がばっと起き上がる。


「……あいつが?」


「とぼけないで! 喧嘩でもしたんでしょ。どこかに閉じ込めたり……」


 怒り顔を突き飛ばし、家を飛び出す。コレニアの親が来ていたが、それすら無視して駆け抜けた。


 あいつ、もしかして俺の言ったことを真に受けたのか。


 カミサマに、聞きに行ったのか。


 洞窟の入口へ、風のような速さでたどり着く。この中か。


 入ろうとした瞬間、遠くから叫び声が響いてきた。


「橋の方にいたぞ!」


 がやがやとあちこちから声が響く。その中に、絶叫が一つ。


「怪物が動いてるぞぉおおッ!」


 ――まさか。


 全力で駆け出す。もはや人を避けさえせず、片っ端から突き飛ばしてゆく。途中で一振りのつるはしを掴み取った。


 絶壁橋に立つ。明けかけの夜空が照らす死の地に、怪物に向かって走っていく影が一つ。


 コレニア、お前。


「サヌキ、行くなバカ!」


「うるせぇッ!」


 制止の声を振り切って硬い石の地を蹴った。


 橋を一気に下り、舗装もされていない道を駆け抜ける。


 凄まじい速度の影が前を走る影との距離を一気に詰めた。


「待て……行くなっ!」


 コレニアが立ち止まって振り返った。


「……ハァ……ハァ……サヌキ……!?」


 闇の中で、輝くものが見えた。思った通りだ。コレニアの腕にカミサマの文字で『ごはん』と書かれていた。


「お前……なんで……」


「ごめん。でも、分かったことがあるの! やっぱり神さまの仕業で! あの文字が神さまで! あの白い岩が神さまの家で! あと人類はここに残ってるのが全部で! あの怪物はごはん病の人しか襲わないの!」


「じゃあなんで町から離れるんだ!」


「だってホントかどうか分からないんだもん! あと……あとぉ……言いたいこといっぱいあったのにぃ……!」


 コレニアが、泣き出した。怪物はもう街に差し掛かっている。


「……サヌキ」


「早く逃げるぞ、おい!」


「……ホントは、隠れててほしかったのっ!」


 泣きながらでも、コレニアは声を張った。近づく怪物の足音に負けないよう、できる限りの大声を。


「……なんだよ」


「でも、来てくれて、すっごく嬉しい!」


「そんなこと、言ってる場合かよ!」


「場合だよ。だって、サヌキが居てくれたら、どんなときだって怖くなかったんだもん! ずっと一緒にいてくれてありがとうっ!」


「お前はいてくれないのかよ……お前がいなくなったら、オレが怯えて生きていかないといけないだろ……!」


 コレニアは驚いた顔をして、切なそうにうつむいた。


 怪物がもう、すぐそこまで来ていた。間違いなくやってくる死の運命より早く、親友がまた顔を上げた。


「サヌキもだったんだ!」


「お前がいない世界で、どう生きればいいんだよ! コレニア!」


 コレニアはまた驚いた顔をした。


 怪物が、彼の上。暗い影が夜より暗い闇を生む。


 親友はその中で、笑った。


「……やっと、呼んでくれたね!」


 怪物の手が彼を掴んだ。


「――やめろぉおおおおおっ!」


 つるはしで怪物の腕を叩いた。細腕のくせに微動だにしない。


 それでも必死に叩いたら、コレニアが解放された。地面に倒れる。つるはしを取り落として抱き留めた。


「コレニア! おい……!」


 親友は微動だにしない。


 ……『食べられると眠る』? ふと、自分で言った言葉を思い出した。


 そして映像で怪物は、『何かを咀嚼していた』んだ。


 見上げる。怪物は大量の手で何かを包んでいる。あそこだ。


 見えなくとも――コレニアはあそこにいるんだ。


 つるはしを握って駆け出す。その勢いで全体重をかけ、怪物の身体に鉄の先端を叩きつけた。


「てめぇッ! 放せ! 放せよオラァ!」


 怪物は少しも怯まない。見えない親友が、開いた口に運ばれた。


「コレニアァアアアアッ!」


 顎が閉じた。開いて、閉じる。


 ガチ。


 ガチ。


 ガチ。


「吐けッ! 吐けよ! ふざけんな! ふざけんな……!」


 サヌキはただ、怪物の巨大な足を叩き続けた。


 ただただ叩いた。


 そうして疲れて、つるはしを落としたとき。


 怪物はとっくに動かなくなっていた。


 ひとりになった男は、うわごとのように、ただ呟き続けた。


「ふざけんな……ふざけんなよ……なんで行ったんだよ………コレニアぁ……」


 サヌキの涙を知る者は、いない。




 朝日が昇り切り、真昼の日差しになったころ。


 町は騒がしい。すぐ近くまでやってきた怪物を眺める人。眠るコレニアを起こそうと奔走する人。


 サヌキは仰向けで眠るコレニアを眺めていた。医者に、異常があったらすぐ知らせるようにと命じられたが、そんなことはどうでもよかった。ただ、居たいから居た。


 最初こそ町中の人から責められたが、魂の抜けたような彼の様子に、それ以上を言う者はいなかった。いつまでも責め続けていたのは、両親だけだった。


 昨日コレニアは、『起きなくなっちゃうから、どっちみち何も食べられなくて死んじゃうみたいだけど』と言った。あんなもんは嘘っぱちだ。もう、死んでいる。生き返らせることなんかできないんだ。ふたりきりのようでいて、ひとりきりなんだ。


 コレニアはもう……。


「……オレにはさ」


 気づけば、語りかけていた。


「オレには、お前しかいなかったんだ。お前はきっと、誰とでも生きられたけど、オレはお前としか……」


 目の前にあるのが呼吸する死体だと分かっていても。


「……意味わかんねえよ。なんで損した時ばっかりこんなに分かりやすいんだ。こんな世界……ああ、この世界もカミサマが作ったんだっけか。お前に教えてもらわなきゃそんなことも……」


 聞こえているかもしれないと、思えてならなかった。


 死んで眠る親友を、ぎゅっと抱きしめた。


「お前……意外と温かいんだな」


 最後に手をぎゅっと握って、入口に立った。


「……じゃあ、またな。……コレニア」


 病室から抜け出した。


 ひとりになって、味方もいない。バカで、どうしようもない。そんな男の足取りには、迷いがなかった。


 ただ真っすぐに、洞窟に向かった。


「サヌキ? お前こんなところでなにをして――」


 見張りの頭が岩の壁に叩きつけられた。あまりの手際に騒ぎにすらならず、ずるりと男の身体が落ちた。


 中へ入り、真空用のスーツを着た。


「おい! おい大丈夫か!?」


 表で誰かがあの男を見つけた。


 着替えを急ぎ、他のヘルメットをひとつ取って置いた。


「おいなにをして――サヌキ! お前!」


 手近のつるはしを取り、フェイス面のガラスに叩きつけた。あっさりと砕けた。


 昨日の俺は、こんな脆いものに守られていたのか。


「や、やめろ! サヌキ!」


 ヘルメットをもうひとつ取って、詰め寄って来た頭を割った。振り抜く動作で地面に置き、ガラスを砕く。片っ端から穴をあけていく。その作業を終え、最後のひとつを装備した。


 洞窟に、ぞろぞろと人がなだれ込んできた。ざわめきを背にヘルメットのランプを付け、洞窟の奥へと降りていく。


 人々のざわめきが急激に遠くへ行くように消えて、スーツの中だけで音響が完結する。


 やはりその足に迷いはない。ただただ、あの場所を目指した。


 ――暑い。スーツの中は蒸し、どんどん気温が上がっていく。汗が止まらなくなる。それでも歩みは止まらない。


 そうして、辿り着いた。神の居場所へ。


 白い岩の前。昨日は跪いたこの場所で、今日はつるはしを右手に立っている。


 壁に、星の色をした輝きが浮き出た。


「よお、カミサマ」


『――人の子よ。お前ひとりか』


「てめえのおかげでひとりになっちまってよぉ」


『我々のせいではない。彼は知りすぎた』


 ワレワレだ? てめえ、人じゃなかったのか。


 ――――って、聞こえてんじゃねえか。


「どうして、コレニアを殺した。あいつはお前のせいだって言ってた」


『混乱は避けるべきだからだ。歴史は正しくとも、時として誤解を招く』


「てめぇがごはん病とかいうのを流行らせたことか? あのカガヤキだかなんだかってやつで」


『あれは病を流行らせるものではない。病はすでに浸透していた。あれは発症を遅らせる・・・・・・・だけの処置に過ぎない』


「……」


『コレニアという人間にも、お前にも。すでに病は拡がっている。我々がそれを食い止めているのだ。それを、あの人間だけやめた。どうだ。あの人間は食われただろう。それが証明だ』


「……」


『我々が管理する範囲の者しか守れない以上、人類はここにいるものたちだけとなった。だがそれでも、幸せに暮らしているだろう。滅びの日以前よりも、ずっとだ。全ては人のため。人類の夢。その汚れ仕事を肩代わりしたにすぎない。人には神が必要なのだろう』


「お前、カミサマじゃねえな?」


『そうだ。だが、神になろう。お前たちの神より、大切に愛してやろう』


 汗まみれで少しふらつくサヌキが、ふっと笑った。


「いつだったか、コレニアが言ってた。神は全部見てるって。飯もトイレも、全部だ」


 サヌキは、白い壁の目の前に立った。


「お前、見えてねえんだろ。目の前のオレが」


『見えているとも』


「ならよぉ……いまオレがなに拾ってたか当ててみろよ」


 右手には、一握りの石炭。だが壁は沈黙した。


「昨日オレがここでビビった顔しちまったのも。オレがつるはしを持ってきたのも。オレがぶっ殺すって顔してたのも。オレが持ってるこいつすら見えねえんだろ!」


 石炭を白い壁に叩きつけた。ガリガリと削り、黒い痕跡を残していく。


『やめろ。あの病で死にたいのか』


「死ぬのが怖えと思うか」


『町の人々も死ぬことになる』


「怖えわけねえだろ。お前のせいで、一番怖いことはとっくに終わってんだよ」


 削れた石炭を、投げ捨てた。


「どうだ。見えてるか。読めるか。どうなんだ! 読んでみろよ!」


『分かった。認めよう。我々には、見えていない。情報の伝達方法が違うのだ。仕方ないだろう』


「やっぱりな。カミサマじゃねえ」


 サヌキは、踵を返した。


『神ではないと言ったはずだ』


「そうだっけ? バカだからさぁ。なに言ってるか分からなくて途中から読んでねえ」


 白い壁が沈黙した。


 オレがこうやって開き直ると、大人はみんな絶句する。こいつらもきっとそうなんだろう。


 こんなもん、カミサマでもなんでもねえよ。ただのバカな大人じゃねえか。


「じゃあオレが、なに書いたか読んでやる」


 サヌキが構えた。両手でしっかりと、つるはしが握って。


『よせ』


「くたばれ、クソ野郎ッ!」


 白い壁に、つるはしが突き立てられたそれは土のように柔らかく、あっさりと砕けた。こぶし大の穴が開く。


 足元に転がった大きな破片に、『死にたくない』と表れて消えていった。


 知るかよ。あいつだって、死にたくなかった。それを踏みにじったお前らを俺がぶっ殺す。


 また、突き立てた。白い壁が砕ける。砕けて飛び散っていく。つるはし越しにその感覚が伝わってくる。


 ガリ。


 ガリ。


 ガリ。


 砕けていく。死んでいく。気づけば白い壁は、もうほとんど残っていなかった。


 凄まじい熱に、サヌキの意識も朦朧としていた。息をするたびに、ヘルメットのガラスが白く曇る。


「おい……。どうだよ。気分は………」


 頭一つの白岩に向かって呟いた。


『たすけて』


「オレが……怖いか……」


『ゆるして。死にたくない。死にたくない……』


 ただ延々と、『死にたくない』が明滅していた。


 怯える無力な存在を見て、コレニアの泣き顔を思い出した。


 ……誰が怪物だか分かったもんじゃねえな。


「あの怪物もさぁ……きっとバカなんだよなぁ」


『死にたくない』


「オレと同じタイプの……だろ?」


『死にたくない』


「俺たちはあいつを怪物って呼んでんだよ。あのデカいの」


『死にたくない』


 ひょっとしたら、さっきオレが話していたやつじゃないのかもな。


 知りもしない誰かなのか。お前も、ひとりになったんだな。


「だからお前も……そう呼びたきゃ、呼べよ」


 砕けた石の、白い粉が付いた鉄の杭を振り上げた。


『死にたくない。死にたくない。死に』


 そして、振り下ろした。


 ひとりぼっちのの石が砕けたとき。


 ひとりぼっちの意思も崩れ落ちた。


 誰もいない洞窟。


 誰もいないスーツの中。


 ガシャンとガラスの砕ける音がした。

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