三品目 メイン・ディッシュ:雪と薄紅の姫の現前
下宿の玄関扉を開けると、外と大して変わらぬ冷えた空気がお出迎えである。一人暮らしにエアコン稼働は贅沢な選択なのだ。
しかし多少の寒波はものともせず。体動けば自ずから温まるというもの。特に本日の嘉穂は四人分の晩餐制作を完遂すべくエアコンの代わりにフル稼働、これぞ自家発電である。
うりゃっとかけ声で叱咤激励、取っ手が腕に食い込むマイバックをキッチンに運び込む。これまでの時間はほんの前哨戦、今からが本戦だ。
まず取り出したるは牛塊肉。南半球オーストリアからはるばる海を越えて六八四八キロメートル、ようこそいらっしゃいました。向こうは現在、さぞかし温かいでしょうけれど寒い家でごめんなさいね!
寒波の中でさらに身を引き締めていただくため、塩を揉み込み、胡椒とハーブ。本当なら赤ワインが欲しいところだが欠品、止むを得ない。
そのまま冷蔵庫でどうぞお休みください。長時間フライトと多少の時差でお疲れでしょう!
お次は卵パックより赤玉二つ。ボールも二つで卵白分離。砂糖を入れたら泡立て器の登場です。イタリアン・メレンゲより楽なフレンチ・メレンゲであれば手間なくパパッとすぐ出来る。共立てジェノワーズよりも労力もなしであっという間に白雪の泡。
卵黄の方も砂糖と乳化、山吹の色にメレンゲを加えてふわっふわの乳白色がぽってり落ちたらもう完成。
本日の土台はビスキュイ・ア・ラ・キュイエール、フィンガービスケットで名高いが本日は土台に。絞り出し袋の手を借りるまでもない。キュイエールすなわち「スプーン」なのだから、そのままオーブンシートを敷いた天板へ匙で落とし込む。申し添えるが横着ではない。元祖に従っただけである。大事なのでもう一度言うが原義を蔑ろにしては名称に失礼だと思わないだろうか? いいですか、キュイエールは「スプーン」です。
予熱温度は百八十度。この生地ならば薄くてOK、厚いジェノワーズよりも時短で完成。型も不要で洗い物の手間まで激減。いいですか、横着ではありません。
ケーキの基礎はすでにそこにあり。土台固まれば築城は成ったも同然。それでは上層部へ参りましょう。
城のつくりは? もちろん、今宵は乙女が集う夜なれば、第一層は幻想的な甘い色。もう一つ卵をぱこんと割って、ボールは二種類、白身は大きめ、黄身は小さめ。
これまた横……もといアルプス以北のフレンチ・メレンゲ。アルプスの冠雪を眺めるが如く一点の曇りなき雪の白。
他方、綿雪があればぼた雪もある。緩やかなクリームは次第に手首への圧を増し、さながら屋根から落ちる雪のごとく、ぼってり落ちたらそこでストップ。
美しく純白のクリームよ。
しかし潔き純白とは、穢されるのが世の常というもの。
真白の素肌に滴り落ちるのは鮮烈な、禍々しい血の紅色。
しかしご安心なされよ! 貴女は間違っても
そこに滴る
いえ、しかしそのように命を吹き込まれ、ほんのり色づいたあなたが確かな
さあ、ラップで底を作ったケーキ型で復活までお休みを。半分の苺たちが壁面に居並び、あなたを包んでお守りいたします!
確固たる円柱型を得て現前するはずの苺ムースを冷蔵庫という名の寝室へ案内すると、嘉穂は城の次なる層を準備すべく、扉付近に眠っていた牛乳パックをムースの代わりに呼び覚ました。
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