地獄生まれ

おれは生まれ直すときに、地獄でさらに悪さしてから生まれちまったんだろうな、と思うのである。そうでなきゃ、どうして己はこんな目に遭うのだろ。


己のうちは、所謂、成り上がりの金持ちと云うもので、それなりに大きな呉服店を営んでいる。垂れ幕に店の名を刻み、街の中でも、他に見ない程規模がある。玄関先から覗いても極彩色の着物から、無地の着物まで掛けてあるのが見える。いつかには、目がチカチカするだとか、万華鏡のようだとか、云われる事もあった。華族の幼馴染も贔屓にしていて、制服の採寸も、普段着ている着物も、大抵は己の家で生地を選び、己や肇が、仕立てたものである。己は、きっと将来此処を継ぐ。此処を継いで、もっと繁盛させて、それなりの女を捕まえて、子を生して、子に店を継いで、そして死ぬ。それが普通であった。己たちの場合は、おそらく、長じて生まれた己が店を継ぐ。然し己は既に、子を成せる身体ではなく、肇が捕まえた女と、肇との間に出来た子の中から、特に出来の良い子を引き取って、店を継がせるのである。もし己が、その、引き取られた子であるなら、きっと、己は地獄に生まれてきたと思うのであろう。間違っていない。己が生まれたときから、この家は、違うことなく、地獄であった。


己より先にこの地獄に生まれた人間ひとがいる。己の母親である。久堂の家に生まれた己の母親は、先を決められていた。店を切り盛りし、男と番い、子を生して、子に店を継がせて、繁栄させていく。ホントのホントは、この女は、学修院に行きたかったらしい。あそこは位の高いお坊ちゃんお嬢ちゃんが通っていて、綺麗な黒の学生服や外套を着た男や、濃鼠色の袴に薔薇の袴章がついたベルトをしている女が居て、美しき恋を花咲かせているらしい。母はそれに憧れて憧れて、青春時代を過ごした。母が通っていて、己も通っている学園は、堺学園と云った。商いをする人間が多く通うここも、規模は大きくとも、全ての人間が損得勘定で恋愛をしていた。如何にお家の利益になる結婚が出来るだろうか。そればかりであり、己もそんな視線に晒されてきた。ここでは、基本的に卒業まで通うことのない学修院ほど、お花畑な恋愛ごとは出来ないであろう。学修院であれば、家が勝手に相手を決めて、さっさと見合いをして、さっさと寿退学である。売れ残りの方が珍しい。母はそんなものに憧れていた。母は堺学園を卒業した後、同じように呉服屋をしていた、己の家より少し小さな店の男と結婚をした。統合して、久堂呉服店として、今に至る。

母はそんな夢見がちなところに反して、酷い癇癪と云うもんをもっていた。患っていたとも云えた。そんなところに嫌気がさしたのだろ。


朝、烏が鳴いて、雀が鳴いて、少し暑くなって来た頃であった。何か硬いものを殴りつける音が聞こえて、己と肇は薄い布団を抜け出した。母が卓袱台ちゃぶだいを殴って、殴って、そして、殴っていた。泣いて、奥歯を噛んで、髪をぶちりとちぎっていた。それが、父親と少しの金と、少しの反物が無くなり、代わりに三行半が置いてあった日のことであった。己たちに、もう物心がついていた時分のことである。父親は、よりにもよって鉄砲女郎とどこぞへ消えていったのであった。これがどこか大店の娘であったのならまだしも、切見世の女である。勘定に囲まれて育った母の、大きく大きく肥大した自尊心は、嗚呼、想像するに恐ろしい。それから母は、曰く父親によく似ている己を、酷く嫌った。幼い己と肇は、まったく同じ顔をしていた。まったく同じ声をしていた。肇は口元に黒子がひとつあって、己にはなかった。己の方が、少しだけ髪が頑固だった。それだけの違いでも、母曰く、己は父親に似ていて、肇は母親に似ているらしかった。馬鹿らしかった。己を家から追い出す日もあった。己を叩く日もあった。己を焼く日もあった。己を飢えさせる日もあった。しかし己に商いを叩き込まない日はなかった。父親が途中で投げ出した商売を、己には、死ぬまでさせたがった。やはり馬鹿らしかった。肇はよく可愛がられていた。それだけは、マ、良かったと云うべきなのであろう。

学校に通う頃になると、母はあることを恐れた。己が、大して大きくもない店の女に現を抜かし、また父親のように、家を出ることである。母は気×いのようになった。己に酒を浴びせ、反物を裁つ専用の大きな鋏を振りかざし、己が先の未来で子を生すに必要とするそこを、切り取ったのである。己は焼ける感覚と、鋏を染める赤と、肇の情けない悲鳴を覚えている。己は医者に診せられて、こうして生きているのだが、母はどうしておのれを止めなかったのだと己を叩いた。馬鹿らしかった。

その身体のまま己は堺学園に、肇は学修院に通い始めた。肇が初めて家に連れてきたのは、華族の大上の坊ちゃんと、松方のご令嬢だった。母は機嫌を良くした。奇妙だったのは綺麗な着物に目もくれず、己をじっと見つめるご令嬢だった。

「ネ、あなた、お名前何ていうの」

「一可」

「イチカさん、すてきなお名前ね」

ご令嬢は夢を見ている表情で、密と名乗った。肇から聞いていたので名前くらいは知っていた。

「ネ、あたしに似合うお着物、あるかしら」

「ウン」

己が案内あないしている間、大上の坊ちゃんが睨みつけていたのをよくよく覚えている。そのとき、なんだか心が晴れやかだった。己は気持ちいい心地のまま、ご令嬢に山吹色の反物を見せた。

ご令嬢と大上の坊ちゃんは、また今度親を連れてくると云って帰って行った。見えなくなるまで、大上の坊ちゃんは己を睨みつけていた。やはりなんだか気持ちよかった。肇は華族の客を連れてきたことを褒められ、撫でられ、讃えられ、己は何故もう子を成せないのかと詰られた。馬鹿らしかった。誰のせいだと言い返して、叩かれた。


幼い頃は小さかった差が、尋常科になる頃には大きくなった。己の背は伸びる気配を見せず、肌は黄みがかり、背筋を伸ばすことも難しくなった。肇は背が伸び始めて、いつだってシャンとしていた。母からおミツと好くなりなさいと云われていたが、おミツは相変わらず己に熱をあげていた。綺麗なものが好きで、街の中の人形屋であるキセン堂によく通い、己の店で反物を眺めていく。己を見る目はいつも優しげで、己はいつだって気持ちいい心地になっていた。母は弱ってきて、己を叩く力は年々弱くなっていた。己はその姿を鼻で笑って、それが気に食わない母にまた叩かれるのであった。可笑しかった。

「前にとても素敵なひとが学級にいるとお話したでしょ」

「そうだな」

「ヨシちゃんと云うのですけど、居なくなってしまって、あたし······」

おミツはしょぼくれた風に見せて、帰って行った。おミツは綺麗なものが大好きだから、きっとその学友も綺麗な面立ちをしているのだろうな。見送るおミツの背も、そろそろおミツの方が大きくなる頃である。己は番台で付けていた帳簿に、勢いだけで必要なことだけを書いていった。

「もし」

「はい」

「着物を仕立てたいのだが」

「はい」

若い青年と、髪の長い少年が立っていた。どちらもおミツが好きそうな面をしていた。青年は遊んでいそうな風で、癖のある髪を少し刈り上げていた。丸眼鏡が胡散臭い笑みを助長させ、そして金には困っていなさそうな清潔感があった。髪の長い少年は、柔らかく清らかな笑みを浮かべて、高いところで括った髪が夕方の風に揺れた。それを目で追っていた己に、さらに笑みを深くしたのだった。

「この子の採寸を頼む」

「はい」

「その間、私は反物を見ておくから」

「わかりました、先生」

「では、ご案内しますのでこちらへ」

「それではね、ヨシ」

手がぴたりと止まり、しかし足だけは動かした。

巻尺をヨシと呼ばれた男に当てていく。腕、胸、腰、当てる場所全てが男のもので、なんだ、杞憂かと思った。つまらなかった。

「ここって、学生服も取り扱ってますか」

「ええ」

「わたし、ワイシャツも着てみたいです。パリパリにノリを掛けたシャツ、ありますか」

「お作り出来ますが」

「先生に頼んでみようかしら」

男はまるで天国にいるようだという顔で微笑んでいた。

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