地獄生まれ
己の
己より先にこの地獄に生まれた
母はそんな夢見がちなところに反して、酷い癇癪と云うもんをもっていた。患っていたとも云えた。そんなところに嫌気がさしたのだろ。
朝、烏が鳴いて、雀が鳴いて、少し暑くなって来た頃であった。何か硬いものを殴りつける音が聞こえて、己と肇は薄い布団を抜け出した。母が
学校に通う頃になると、母はあることを恐れた。己が、大して大きくもない店の女に現を抜かし、また父親のように、家を出ることである。母は気×いのようになった。己に酒を浴びせ、反物を裁つ専用の大きな鋏を振りかざし、己が先の未来で子を生すに必要とするそこを、切り取ったのである。己は焼ける感覚と、鋏を染める赤と、肇の情けない悲鳴を覚えている。己は医者に診せられて、こうして生きているのだが、母はどうしておのれを止めなかったのだと己を叩いた。馬鹿らしかった。
その身体のまま己は堺学園に、肇は学修院に通い始めた。肇が初めて家に連れてきたのは、華族の大上の坊ちゃんと、松方のご令嬢だった。母は機嫌を良くした。奇妙だったのは綺麗な着物に目もくれず、己をじっと見つめるご令嬢だった。
「ネ、あなた、お名前何ていうの」
「一可」
「イチカさん、すてきなお名前ね」
ご令嬢は夢を見ている表情で、密と名乗った。肇から聞いていたので名前くらいは知っていた。
「ネ、あたしに似合うお着物、あるかしら」
「ウン」
己が
ご令嬢と大上の坊ちゃんは、また今度親を連れてくると云って帰って行った。見えなくなるまで、大上の坊ちゃんは己を睨みつけていた。やはりなんだか気持ちよかった。肇は華族の客を連れてきたことを褒められ、撫でられ、讃えられ、己は何故もう子を成せないのかと詰られた。馬鹿らしかった。誰のせいだと言い返して、叩かれた。
幼い頃は小さかった差が、尋常科になる頃には大きくなった。己の背は伸びる気配を見せず、肌は黄みがかり、背筋を伸ばすことも難しくなった。肇は背が伸び始めて、いつだってシャンとしていた。母からおミツと好くなりなさいと云われていたが、おミツは相変わらず己に熱をあげていた。綺麗なものが好きで、街の中の人形屋であるキセン堂によく通い、己の店で反物を眺めていく。己を見る目はいつも優しげで、己はいつだって気持ちいい心地になっていた。母は弱ってきて、己を叩く力は年々弱くなっていた。己はその姿を鼻で笑って、それが気に食わない母にまた叩かれるのであった。可笑しかった。
「前にとても素敵なひとが学級にいるとお話したでしょ」
「そうだな」
「ヨシちゃんと云うのですけど、居なくなってしまって、あたし······」
おミツはしょぼくれた風に見せて、帰って行った。おミツは綺麗なものが大好きだから、きっとその学友も綺麗な面立ちをしているのだろうな。見送るおミツの背も、そろそろおミツの方が大きくなる頃である。己は番台で付けていた帳簿に、勢いだけで必要なことだけを書いていった。
「もし」
「はい」
「着物を仕立てたいのだが」
「はい」
若い青年と、髪の長い少年が立っていた。どちらもおミツが好きそうな面をしていた。青年は遊んでいそうな風で、癖のある髪を少し刈り上げていた。丸眼鏡が胡散臭い笑みを助長させ、そして金には困っていなさそうな清潔感があった。髪の長い少年は、柔らかく清らかな笑みを浮かべて、高いところで括った髪が夕方の風に揺れた。それを目で追っていた己に、さらに笑みを深くしたのだった。
「この子の採寸を頼む」
「はい」
「その間、私は反物を見ておくから」
「わかりました、先生」
「では、ご案内しますのでこちらへ」
「それではね、ヨシ」
手がぴたりと止まり、しかし足だけは動かした。
巻尺をヨシと呼ばれた男に当てていく。腕、胸、腰、当てる場所全てが男のもので、なんだ、杞憂かと思った。つまらなかった。
「ここって、学生服も取り扱ってますか」
「ええ」
「わたし、ワイシャツも着てみたいです。パリパリにノリを掛けたシャツ、ありますか」
「お作り出来ますが」
「先生に頼んでみようかしら」
男はまるで天国にいるようだという顔で微笑んでいた。
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